線路は続く 目次
線路は続く6 巨大ゆえに
(文中敬称略)
国鉄の労使関係は、公社すなわち「形式的には企業的色彩の強い面を持ちながら財政面については政府機関に近い拘束を受ける組織」としての成り立ちもあり給与水準については民間ベースによる賃金水準が慣行となっていた。これはいわば従業員の給与を企業の業績と関係なく決定される、ということは従業員の企業経営への関心を弱め各人の行動や労働組合の行動にも秩序が失われるのは自明であるとの意見も多い。
しかしこのことは他の多くの公共企業体も当然そのような空気になるのではないか。
人事院HPには以下のように記載されている。
公務員下記の赤枠内に現業として国鉄があり国鉄職員の給与は人事院の勧告対象であった。
そしてなお国鉄は他の現業や公社(郵便・電電公社・専売公社)と比しても屋外作業、危険作業の多い重労働である。また鉄道利用者の身体財産を預かり、監督者なしでの自己の判断が求められる、等特殊な職場であった。
谷伍平「国鉄における人事管理」以下参照
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jspa1962/1965/4/1965_49/_pdf
ましてや国鉄給与決定その前提である人事院勧告は政府によって完全実施されないこともあり、強大である労組にとっては忸怩たる思いであった。
人事院勧告実施率.pdf - Google ドライブ
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国鉄分割直前の長期債務は25兆円を超えた。85年度の国鉄の実質負担利子は1兆1190億円、同年の旅客貨物運賃収入の36%にあたり、一日当たり30億7000万円という金額になる。民間企業なら当然企業の倒産であり、仮に国鉄が公社でなく政府直営であったなら欠損処理を先送りするような愚策を継続することはできなかったであろう。しかし、国鉄は公共企業体であったため、政府は国鉄を批判する第三者的立場にたってしまい、国鉄債務のごく一部しか負わなかった。ここにもいわば公社としての歪が露呈した結果となった。
国鉄労使そして政府共にその落とし穴にはまった。その結果分割に向けてまっしぐらに進むことになった。
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さてこの事態を改善・改革するにはという難問に時の国鉄と政府は挑んだ。
一連の混乱の責任をとって藤井総裁が辞任し後任に大蔵事務次官だった高木文雄総裁が着任した。そしていわばその着任に対する「持参金」として「国鉄再建対策要綱」を決定した。骨子は累積赤字のうち2兆5404億円を特定債務として一般勘定から区別し欠損金を棚上げ、国民の負担から(一応)切り離す、そして地方の赤字ローカル線つまり地方交通線助成に172億円を計上というもの。そして1976年に運賃を一挙に50%値上げするという提案だった。そのため国民にどう窮状を訴えるかという観点から、「日本の鉄道はこのままでいいのだろうか12」でも取り上げた「病める巨象」の全3回キャンペーン広告がうたれたのであった。
参照 日本の鉄道はこのままでいいのだろうか 12 - 紙つぶて 細く永く
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1976年(昭和51)年6月からの国鉄運賃50%値上げ案は国会へ提出されたが、審議が難航し値上げ実施は11月6日(土曜日)からとなった。
またそれに向けて国鉄としても経理局調査役井手正敬を中心に「国鉄再建の基本構想案」の作成に取り組んだ。柱は2本、国鉄の路線を「幹線系線区」と「特定地方交通線」の2種類に分け幹線系は自前の努力で黒字にする、特定地方交通線は思い切って廃止する、というものだった。そして人員については国策上生じた要因構成の歪として戦後の混乱期に受け入れた職員の退職金及び年金名目で一定金額を政府負担としようとするものだった。
政府はこれに基づき「国鉄経営再建促進特別措置法案」を策定した。
「後のない経営改善計画」と称されるこの計画について自民党総務会では「この計画が失敗したら、国鉄を民営化する」という意見も出た。
しかしこれらの計画も国鉄を守れなかった。
改善計画の主眼であった人員削減に当然組合側は反発した。しかし、「スト権スト」の倍賞請求問題がからみ強硬な策にはでられない事情もあり国鉄当局との力関係も弱いものになった。
よく国鉄は私鉄と比較される。しかし私鉄だけで鉄道制度を整備できるのならば国有の鉄道はいらないわけで、国鉄の存在価値があるとするならば、私鉄との比較はそう参考にならない。まして交通権の確保、公益を重視する地域交通政策等を考えた場合、国鉄(公的企業)でなければできない鉄道という側面がある。 そのような意味から鉄道制度を考えると国鉄は、
「私は日本国有鉄道なのです。潰れてはならない、また潰れることが許されない企業なのです」という甘えを持ちもろもろ諸悪をも生んだ。
1970年代の国鉄は収支の欠損にかかわらず、60年代の経済発展が今後も続くという予想の元、将来の収支均衡、利益の発生を前提とし借り入れに依存した経営を続けた。 またこの時期は政治自体が深い混迷の中にあり国鉄改革も遅々として進まなかった。
- 1976年7月 ロッキード事件で田中角栄前首相逮捕
- 1979年10月 総選挙の結果、自民党過半数割れ
- 1980年6月 大平正芳首相急死。伊東正義内閣官房長官が首相の臨時代理
- 1980年7月 鈴木内閣の行政管理庁に中曽根康弘が就任(注1)
そして時だけが流れた。
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「後のない経営改善計画」も挫折し1987年4月国鉄は「分割・民営化」されることとなった。
会計検査院HPに京都大学大学院経済学研究科 藤井秀樹教授の「国鉄長期債務の処理問題とその経済的含意に関する一考察 」という論文以下URLがある。
第17号 | 掲載論文(11号~20号) | 研究誌「会計検査研究」の発行 | 会計検査に関する調査研究 | 外部との交流活動 | 会計検査院 Board of Audit of Japan
それによると、
と指摘されている。
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1987年4月それでも国鉄は分割され民営化された。
37兆円という巨額の債務のうち25兆円を国鉄精算事業団に引き継がせた。またその経緯の中でも国鉄破産ーJR7社新会社設立という、今までにない法的解釈は23年という長期にわたり裁判闘争となった。分割民営化は対象が巨大な組織ゆえの無理も重ねられた。https://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa62/ind000202/frame.html
この法律的な助言によって旧国鉄からは職員を除く金銭的債務の一部(採用者の年金を含む)を引き継ぐ形でJR各社は発足した。
これが破綻を「偽装」して新会社を設立し、気に入った者だけを新会社に採用することなり、違法・(憲法28条)違憲といわれる点でもある。
国鉄分割民営化が政府の手で行われて以来、大中小企業を問わず偽装倒産による解雇が横行しているとも言われている。
ましてや「この国のかたち」を決める根幹で、司法が制度設計・法案作成・執行・裁判という全プロセスに絡んでいたことになり、三権分立を脅かす重大な問題だとも指摘されてる。以下参照
1987年 国鉄の分割・民営化―司法の「この国のかたち」への関り方
結果この「法律的な助言」により実に一応の和解まで23年という長期的な裁判が争われることとなった。
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