大浦天主堂
梅雨は明けた。
だから暑かった。
最近の列車の旅は、普通列車でさえエアコンが効き快適に過ごせる。
その反動もあって下車した長崎は暑かった。
駅のコインロッカーにバッグパックを預け、駅前の広場にある観光インフォメーションで、大浦天主堂へのルートを聞くと、ガイドさんが長崎弁たっぷりに案内してくれた。
「大浦天主堂へは新地中華街で乗換っと」(今からはイントネーションが再現できないので少しあやふや)
旅行計画の当初は平和公園訪問と考えたが、大浦天主堂は国宝と聞いて自身の中で価値判断が変質した、優柔不断、長いものには巻かれろ、日和見主義な性格なので少しでも目の保養になるものに魅かれる。
でも次に行く時は、平和公園に行こう。
市電は満員。インバウンドも多く、乗車口と下車口の流れがわからないのか、駅に着くたびにごそごそと移動した。
新地中華街で下車、昼食。
同行者は長崎と聞くと、連想ゲームのように皿うどんと反応するようだ。
私はチンジャオロース定食そして餃子。
ここではなぜかアルコールはぐっと我慢した。
*
大浦天主堂は大勢の観光客でにぎわっていた。
日本におけるキリスト教の略歴 | |
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1549年 | フランシスコ・ザビエル鹿児島錦江湾から上陸。カトリック教会の修道会であるイエズス会による布教が始まった。 |
1570年 | 大村領主・大村純忠はイエズス会と長崎港の開港協定を結び、長崎は国際貿易港として発展した。 |
同時に、長崎は日本におけるキリスト教の拠点となり、10を超える教会が建ち並んだ。 | |
1582年 | 本能寺の変を経て豊臣秀吉覇権を得る。 |
1587年 | 秀吉 伴天連(バテレン)追放令 |
1600年 | 関ケ原の戦い 徳川家康天下統一 その後キリスト教禁教令発布 キリスト教徒の弾圧に乗りだす |
この間がなんと 265年となる |
以後九州を主に各地で、キリスト教徒は何世代にもわたり潜伏し、信仰を続けた。 |
1865年 3月17日 |
日仏通商条約にもとづいて建築を許された、 「大浦天主堂で神父プティジャンが庭の手入れをしていると、やってきた15人ほどの男女が教会の扉の開け方がわからず難儀していた。彼が扉を開いて中に招き入れると、一行は内部を見て回っていた。プティジャンが祭壇の前で祈っていると、一行の一人で杉本ゆりと名乗る中年の女性が彼のもとに近づき、「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)」「サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいた。浦上から来た彼らこそ300年近くの間、死の危険を犯してまでキリスト教の信仰を守っていた隠れキリシタンといわれる人々であった」wikipediaより |
このことはヨーロッパにも伝わり、「信徒発見」と大ニュースとなった。
そのような解説を閲覧しながら、静謐な建物を巡る。
キリスト教というものは相当大きなものだ。
空海も中国でわずかにキリスト教(景教)と接している。空海8章
歩いていると神父らしき人と偶然出くわした。
少し空調の涼しい風が吹く博物館の入り口で、立ち話をした。
わたしが京都でも同じような建物がある、キリシタン博物館と似たような建物と説明がしたかったのだが、うまく言葉に出来ず、「年代物の古い建物はあるでしょうね」。
そして東京にニコライ堂もありますね、といいたかったが「ニコライ堂」が思い浮かばず、結局聞きたいことが聞けなかった。
それでも教会の説明、見るべきところなどを自信たっぷりに聞かせてくれた。
カトリック長崎教区の信者数は、東京や大阪、横浜についで多く、人口当たりの信者数でいえばもちろん長崎教区が多い。
長崎伊王島のカトリック信者が北海道まで旅する映画、山田洋次「家族」の話を出したがご存知なかった。
国宝の天主堂内には空調の設備はなく、複数置かれた大型の扇風機が堂内の空気をくまなくかき混ぜていた。
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REMEMBER3.11