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「イヴァンよお前にやる花はない」プラハの花屋

ある公立高等学校の変遷8 1970年になにがあったか

1970年に何があったか

前回まで京都市の公立高校13校と東京日比谷高校の歴史を眺めた。そして1960年代と1970年代の間で京都大学進学率の大きな下落が見えてきた。

京都大学合格者(サンデー毎日その他より集計) 東大合格
  鴨沂 洛東 洛北 紫野 堀川 嵯峨野 桃山 山城 朱雀 日吉ヶ丘 乙訓 塔南 日比谷
1965 34 10 22 33   20 20 15 20 15 5     181
1966 20 5 37 31 20 20 15 15 15 20 15   11 128
1967 22 11 26 37 15 19 14   16 15 10     134
1968 22 11 28 43 15 19   18 14 20 9 9 20 131
1969 6 13 14 31 14 15 13 5 7 6 6 7 6 中止
小計 247 50 288 347 64 93 89 53 72 76 45 16 37 1425
1970 26 10 20 31 15 10 9 10 10 14 10 6 10 99
1971 8 7 14 18 9 20 6 6 6 9 5 12   57
1972 8 7 11 17 9 13 7   8     5 5 52
1973 6 5 10 15 10       8 5 10 8 6 29
1974 8 3 15 13 5 9 5 5 10 7 12 10 9 27
1975 10 3 4 19 7 11 5 2 8 5 7 7 7 16
1976 8 2 11 8 8 9 4 7 7 5 3 13 8 17
1977 3 5 9 11 2 7 2 2 4 9 4 10   14
1978 9 3 8 15 9 9 2       3 7   14
1979 3 4 14 9 3   4 2 6 4 2 6 2 18
小計 89 49 116 156 77 88 44 34 67 58 56 84 47 343
1980 6    2                1  1   10
1981 7   7 3 4 5 3 2 5 4   9 2 4
1982 7   6 5 2 4   2 2     4 2 5
1983 8   2 7 3 4       2   4   5
1984 4   2 1   4 2   4     3   6
1985 5   3                 3    
1986     5   7   2       6 2   10
1987     3     5     2 3       10
1988 2 2 4 6   1 2 1   1 1 5   10
1989 1   1 3   1   3 2   1 2 1 11
1990 1   2 3 1 5 2 1 1 2 1 2 1 8
1991 1 1 5 3   1 1 1 2   1     7
1992     2 4   1 3 2 2 2 2   1 8

1970年頃になにがあったのか・・。
まず教育界の話題では、

  • 学習指導要領の数次にわたる改訂・系統重視(1958年) ・教育の現代化(1968年)
  • 高等専門学校制度の創設(1962年)
  • 短期大学の恒久化(1964年)
  • 私立大学に対する経常費助成の制度化(1970年)
  • 教員給与改善(人確法)(1974年)
  • 主任制の導入(1976年)
  • 学習指導要領の改訂(1977年 ゆとりと充実:教育内容の精選と授業時数の削減)
  • 40人学級の実現(1980年)
  • 京都では1965年と1975年に通学区の改定が行われている。

世上を騒がせた「ゆとり教育」は1977年からで少し時期がずれる。
京都市内で1955年から適用された高校通学区 

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1955年からの京都市通学区

次に1965年以下のように通学区が改定された。

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1965年からの京都市通学区

1975年からは以下に変わった。1970年は丁度この間にあたる。

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1975年からの京都市高校通学区

1975年に京都市立向陽高等学校が新設され各校とも前回以上に通学区の変更は大きかった。とはいえ少なくとも公立13校+新設1校を見た場合エリア全体の変動はない。その中で鴨沂高校洛北高校の間でエリアが入れ替わったことが目に付く。もちろんこのような学校間の移動はある。しかし1975年に入学した生徒が大学受験を迎えるのは1978年となる。そのため時代経緯を見ると、この1965年から1980年の間に学校間通学区の差が下記のように最大8割にも上る多大な影響を4校に及ぼしたとも考えにくい。

公立4校+私学2校について
1970年以前と比較した
1970年以後の京大合格者比率
日比谷高校は東大合格者数での比較
鴨沂 18.0%
洛北 20.1%
紫野 22.5%
桃山 24.7%
洛星+洛南 98.95%
日比谷 23.9%


視点を変える。
1970年頃の話題には事欠かない。
社会面、映画では、「イージーライダー」日本公開は1970年、同じこの年には「いちご白書」も公開されていた。
 またアメリカンニューシネマ代表作の「卒業」が1968年日本公開。そして同年「2001年宇宙の旅」公開
1968年日本初の心臓移植(和田心臓移植事件)
プラハの春ソ連チェコ侵入が1968年、
1969年南ベトナム共和国臨時革命政府樹立そしてアメリカの敗北。
同じく連続射殺事件永山則夫逮捕。
1969年東大入試中止
1970年国産初の人工衛星おおすみ打ち上げ。世界で4番目の人工衛星打上げ国となった。
同年三島由紀夫極東国際軍事裁判法廷となった自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺
1971年成田闘争最盛期
1972年あさま山荘事件
社会的にはこのあたりの時代だ。


そもそも高校教師の1校当たり勤務年数と進学実績が絡むものか否かもわからないし時代背景に関係するのか、そのあたりの教育技術的側面を聞いてみようとまず母校を訪れた。
おもえば多くの卒業生の中でさしたる「錦を掲げ」たこともない私が大きな顔をして、母校の教師に教育成果を聞きただすということはいまから思うとまったくの赤面ものであった。
 そんな中、私の疑問について丁寧に説明をいただき小冊子までいただいた。
しかし残念ながら当然そんな解決法はなかった、疑問は氷解しなかった。

訪れた母校は何の変哲もない都市の中にある並みの一高校に変節していた。
まず制服に変わっていた。
また校地も、現時点では異なる場所にある。
伝統ある京都府立第一高等女学校から引き継がれた校舎の耐震修理工事で、旧成安女子高校跡地に仮移転している。
校舎も四分の一程度は耐震補強され残るようだ。1936年建築から長く使われ、くぼんだ階段の框は、裏返して使うそうだ。
しかし、それでも「強度不足」ということで、雨の日の練習で廊下を走りまわった旧校舎の四分の三つまり大半は解体された。

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卒業生から寄付された絵画や美術品も帰ってくる、旧講堂や九条家の門はほぼそのままの形で残る。ウィーンの杜は整備されて残っていない。地下食堂が旧図書館に移転する。校地の狭さは相変わらずであるが、1970年以前の面影は建物からほぼなくなりそうである。
2018年夏には耐震工事に合わせた改築も終わり、元の地に移転するそうである。

 

勤務年数と教育の質

東京都立日比谷高等学校については、1968年学校群制度が導入され、そして東京都教育委員会により同じ学校に15年以上継続勤務の教師の移動が行われその結果、教育三要素のうちの「教師」「生徒」におおきな変化が起こった。そのため日比谷高校では東大進学数は激減し、1970年前に比べ70年後は一年換算で23.9%と大きく下がることとなった。
 上に述べたように京都市では1965年と1975年に通学区の若干の変更があったのだが、では教師の在籍年数はどうだろうか。
鴨沂高校において1965年時点で15年近い在籍教師の履歴を拾い出した。
MN先生 国語 1950年-1971年
JI先生 化学 1950年-1971年
TN先生 数学 1950年-1971年(洛北高校 転勤)
MI先生 商業 1950年-1974年
KT先生 数学 1950年-1974年
TS先生 音楽 1950年-1970年
JN先生 美術 1950年-1970年
SA先生 英語 1950年-1973年
YM先生 英語 1950年-1974年
AS先生 体育 1950年-1974年
KN先生 商業 1950年-1972年(桃山高校 転勤)
NS先生 理科 1950年-1974年
TI先生 英語 1950年-1974年
YN先生 数学 1951年-1972年(教育研究所 転勤)
YK先生 商業 1951年-1970年(京都学園大学 転勤)
RK先生 理科 1951年-1974年
SS先生 数学 1951年-1968年
SU先生 社会 1951年-1968年(京都大学 転勤)
TN先生 家庭 1951年-1974年
SK先生 体育 1956年-1974年

計20名
1965年当時の在籍教師は75名であるから26.7% 長期在籍者が多いとは思うが、もちろん日比谷の45.6%よりは少なく、かつその多くは半強制的異動ではなく、定年や自己都合による退職をされている。
そこで教師としての経験年数と教育指導の関連資料を探した。

といったが教師の1校当たりの勤務年数なんてどこにもそのような統計を取っているところはない。それどころか教師の生涯勤務年数すら満足に取られていない。
教師の勤務年数は集計するに価するものではないらしい。わずかに以下の資料をみつけた。

「我が国の教育水準」(文科省1971年度調査資料)教員は、その勤務年数との関連において何校くらいの勤務校(最初の赴任校を含む)を経験しているであろうか。その実態を公立小・中学校,公・私立高等学校,国・私立大学について見ると下図(3-19)のとおりである。  これによると、国立大学を除いて、各学校種類とも勤務年数が長くなるにつれて勤務校数も多くなり、また、教育段階が高くなるほど勤務校数は少なくなっていることなどが知られる。勤務年数26~30年の教員の平均勤務校数を比較すると、公立小・中学校5.2校で最も多く、次いで公立高等学校3.4校、私立高等学校2.4校、国立大学1.8校である。

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この調査では26年以上勤務の場合、公立高校では3.4校となっている。平均すると1校当たり8年というところだろうか。

またBlogで、神奈川県では以下のように最長12年との規定という記載もある。

最近では「行政」への異動や他校種(小学校や中学校)への異動も勧奨されるようになり、不安は大きくなるばかりです。1校の勤続年数も4・5年ほど前までは最長15年でしたから、一旦進学校などに勤務すると満期が来るまで居座り続けるのは常識でした。それが12年になったときには、大量の人が異動を余儀なくされたものです。反対に底辺校で8年以上も勤務する人は少なく、平均4・5年で異動をしていたのです。ところが、上が12年になったのに合わせるように、下も8年と期間が延長されたので(上で述べましたが)、すでに底辺校を4・5年で出た人にも再度底辺校への転勤の可能性が出てきてしまったのです。

教員の転勤の実態(その1)


 その後勤務年数と教育の方法について、当時を知る先生にあってみた。その方法は・・

鴨沂高等学校には「旧教職員の会」という組織があった。鴨沂高校を最後として退職された先生を中心にした親睦会のようなものだ。そして会報を出されている。
その会報「鴨沂のあゆみ」は2010年に4号合本となった。
その事務局をされていたS先生とO先生に話が聞けた。S先生は鴨沂高校に在籍された時期が遅く問題の1970年ころは他校に在籍されていた。O先生はまさしく1970年ころからの在籍であった。
O先生とは長く話せた。「私はその問題についての資料を持ち合わせていません」という一言を最初に述べられて、O先生と論は進んだ。

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