教育界の鴨沂高校にたいする評価は、「鴨沂高校、あっあそこは特別ですね」という学校歴史博物館学芸員の発言に代表される。
学校としての出自や歴史を鼻にかけることもしかり、また一方下記のような「民主教育」を通じて独特の校風を築いたこともあるのだろう。
「鴨沂」という校名は、鴨川のほとり(沂)というところから名付けられたときいたが、
新制高校として発足したときには既に京都府立第一女学校卒業生の会「鴨沂会」があった。
この名からつけられたのが正しいだろう。
IME漢字変換でもなかなか出てこない文字だ。
それでは前回までの進学率検討の一助として今回は、その鴨沂高校を舞台に、この時代を見てみよう。
「鴨沂の歩み」から紐解く教育
前回長時間対話したO先生は生徒部への配属ということだった。
私が高校生だったころ、まったくの惰性ノンポリクラブ一途生徒だったので、アセンブリーなどはよく欠席したもので自慢できないことであるが生徒部の先生から教育的指導も受けた。
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鴨沂高校では入学の折には以下のような小冊子が配られた。
多分生徒の文章だろう。
注)「A」はアセンブリーのこと。
「H・R」はホームルーム。ロングとショートのH・Rがありロングは週一回1時間、ショートは毎日10分
アセンブリーとは英語で「社交・宗教などの特別の目的の集会、会合、会議、小学校などの朝礼、集合(すること)、集まり、(米国のある州議会の)下院、立法議会」などの意味だ。
中村保雄先生の「鴨沂の歩み」 第一号の巻頭言
以下は鴨沂高校旧教職員の会という組織で鴨沂の教育を記録しようと発刊された「鴨沂の歩み」1号からの文章である。
この中にでてくるSS先生は以下のSS先生です。
ちなみに中村保雄先生は数学担当でのちに校長になられた。また能面研究の権威でもありました。そちらの方が有名かも。「能面」
「鴨沂の歩み」第二号の巻頭言 上田正昭先生
続いて「鴨沂の歩み」2号から
訃報:上田正昭さん88歳=京都大名誉教授、歴史学者 - 毎日新聞
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「黒犬」という記号があったこと、そしてなるほどと感心したこともよく記憶している。部落問題研究会の略称「部落研=Black犬」か変化したのだ。
鴨沂高校アセンブリーでは本当によく被差別部落問題が取り上げられた。
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「高校教師は訴える」SS先生
黒犬と惰性ノンポリクラブ一途だった私にはほとんど接点はなかった。しかしよく教育的指導を受けたSS先生、そのSS先生の著書「高校教師は発言する」に以下当時の状況が書かれていた。
当時校内にはなんだかまさしくこのような空気感が溢れていた。
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その鴨沂が今回各先生に聞くと変化したようだ。他校は分からないが、少なくとも鴨沂高校は変化した。
頭書にあげたO先生は鴨沂高校生徒自治会会報「OurSchoolOHKI」の創刊を主導されたそうだ。
後年になるが1994年そのOurSchoolOHKIの記事で「学校」上映に関する事件が載っている。この件は毎日新聞でも取り上げられた。
京郡府立鴨沂高校(京都市上京区、小谷嘉明校長) のPTAなどが企画した 山田洋次監督の文部省特選映画「学校」の上映・講演会をめぐり、小谷校長が「山田監督は今年四月の京都府知事選で革新候補を 応援した」という理由で、同校講堂の会場使用を断っていたことが、三十一日分かった。
映画上映は見送られ、 講演会だけ別会場で閧いたが、 関係者から「催しの内容も検討せず、施設借用を拒否したのはおかしい」と批判の声が上がっている。
映画上映・講演会は、PTAとPTAOB会、前身の府立京都府一高女同窓会の三者が主催。 これまでも作家の水上勉氏の講演会を行うなど。年一回の恒例行事として実施してきた。
関係者によると、 今年は一年生を対象にした山田監督の講演会と他の生徒やPTAらにも呼びかけた 「学校」上映会を五月二日に計画講堂の会場借用を学校側に申し入れた。
ところが、小谷校長が四月中旬、知事選の話を持ち出し反対し、講堂使用を許可しなかった。 代替の広い会場を確保出来なかったため 上映会は中止・市内の別会場で同日、講演会だけ行った。
山田監督は四月十日投開票の京都府知事選で落選した革新候補を推薦する団体のピラなどに推薦人として名前を連ねていた。
小谷校長は「山田監督は政治的な主義主張を鮮明にしており、生徒に与える影響などを考えた」と話している。
参照 http://coboon.jp/memory.of.ouki/archives/author/memory-of-ouki/page/43
上記サイトに
「私もこの事件の時には他校にいましたが、そこでも演劇の団体鑑賞のパンフレットに山田洋次監督のコメントが掲載されていることを理由に生徒への配布を校長に止められました。
多分、校長一人の判断というよりも何らかの外部からの圧力があったのだとその時は感じました。」
との投稿がある。
件の校長は上部組織からの指示で講堂使用の許可をしなかったのだろう。
昔はこういうのを日和見といった。
一応理由は「政治的な主義主張を鮮明」とのことだが、とってつけたような理由だ。
まさしく校長自身が以下の文章などへの理解力があるのかが問われる。
- 義務教育として行われる普通教育の成果を更に発展させて、豊かな人間性、創造性及び健やかな身体を養い、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと
- 社会において果たさなければならない使命の自覚に基づき、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な知識、技術及び技能を習得させること
- 個性の確立に努めるとともに、社会について広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと
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以上鴨沂高校でもそうであったように、各高校では義務教育とは異なり一種の自由への芽生えを自覚した教育が往年行われた。
私的には近年この自由への芽生えを摘み取るような教育が行われている気がしてならない。
「制服」はまさしく管理者としての学校側の立場からの「制限」なのではないか。
私服よりもコストは安くなるみたいな弥縫策的いいわけはともかく、自覚を促さず十把一絡げにまとめる方向への圧力が強い。
その結果おとなしくいいなりになる、「個性の確立に努めるとともに、社会について広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する」人材を育てるという教育的だいご味に乏しい高校制度になっているのではないか。
結局1970年ころになにがあったかは分からない。
しかし上記に見るように「高校」は変わった。
その変化が「大学進学率」や「京都大学合格者数」に影響したのかもわからない。
鴨沂高校旧教職員の会は3年ほど前から親睦を中心とした部分を除き、休止となっている。
会員の先生も高齢となり、新しく加入する教員がいないそうだ。
いわば「鴨沂」名付け親の京都府立第一高等女学校を1.0とするなら1970年ころが鴨沂高校2.0、そしてそれ以降特に制服採用以降は鴨沂高校3.0と校舎とともに変節した。
京都では小学区制だからこその縁か、三代にわたり同じ高校という家族も多い。
往年はそうだったし、近年はこうなっている。
その中でも教育目標は変わっていなかった。
世界の平和を希望し、すべての人々が幸福になりうる社会を目ざして、事実に基づいて真理を追究し、それに従って実践しようと努力する人間をつくる。
- 自発的・積極的に学習し、基礎学力を培い、かつ思考力を養成する。
- 自治的活動に進んで参加し、相互の人格を尊重し、正しい方法で討論して、その結果に基づき、責任を持って行動する習慣を養う。
- 現実社会に関する関心を高め、批判的精神を養成する。
- 勤労の誇りと喜びをもち、社会的活動に耐えるような体力を増進する。
- 芸術的関心を深め、豊かな情操を養う。
- 人間の尊厳という観点から、基本的人権についての科学的な認識を培う。
2014年から京都市と乙訓地域の通学区が1本になった。21校の公立高校の中から志望校を選択できる。
教師・教育制度・生徒どれも万全の結果をだしたい。
その覚悟が行政・教師・生徒それぞれにあるか、きっとそれが問われるのだ。
その高校に毎年新入生は入ってくる、未来に希望はある。
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京都主要高校1950年から2009年の 東京大学への入学者総数 |
洛南高校 |
984 |
洛星高校 |
877 |
京都教育大付属 |
79 |
同志社高校 |
53 |
福知山高校 |
43 |
東舞鶴高校 |
42 |
綾部高校 |
38 |
堀川高校 |
36 |
鴨沂高校 |
34 |
洛北高校 |
33 |
西舞鶴高校 |
31 |
京都共栄学園 |
29 |
紫野高校 |
27 |
桃山高校 |
20 |
山城高校 |
19 |
宮津高校 |
15 |
朱雀高校 |
14 |
嵯峨野高校 |
12 |
乙訓高校 |
11 |
立命館高校 |
11 |
西京高校 |
9 |
京都成章高校 |
8 |
日吉ヶ丘高校 |
8 |
洛東高校 |
7 |
京都女子高校 |
6 |
洛陽高校 |
5 |
西乙訓高校 |
4 |
向陽高校 |
4 |
東山高校 |
4 |
ノートルダム女学院 |
4 |
莵道高校 |
3 |
塔南高校 |
3 |
峰山高校 |
3 |
伏見高校 |
3 |
亀岡高校 |
3 |
出典:東大合格高校盛衰史 光文社新書 |
新生鴨沂高校図面
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REMEMBER3.11
不断の努力「民主主義を守れ」