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ある公立高等学校の変遷7 東京都日比谷高校

東京都・日比谷高校の場合

1968年以前の東京都立日比谷高等学校の通学区は第一学区で東京都千代田区・港区・品川区・大田区が通学エリアだった。この学区内には「日比谷高校」「九段高校」「一橋高校」「城南高校」「三田高校」「赤坂高校」「小山台高校」「八潮高校」「大崎高校」「大森高校」「雪谷高校」「田園調布高校」そして67年創立の「羽田高等学校」の13校があった。
 1952年からの制度は合同選抜制といわれ、同一学区内の12高校は合同して選抜を行い、学区全体の募集人数分の合格者(学区合格者)を決定。
その中から、合格者の希望にしたがって各学校の合格者が決定された。 具体的には、受験生は第一志望校と、第二志望校を書いて出願し、第一志望校で受験、その後合格発表。
合格発表は同時に学区合格者も発表され、その学区合格者は定員に達していない学校の中から第二志望校を順位をつけて三校まで記入し、本来の第一志望校に出願した。その結果を受けて各中学校から第二志望の受け入れ先が発表された。
1959年を例にあげると日比谷高校の募集定員は男300人、女100人つまり成績上位男300人以内、女100人以内であれば希望の高校・日比谷高校に行くことができるが、それ以下であれば第二希望以下の学校ということになった。

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1968年以前の日比谷高校の通学区

 

そして1968年から東京都は学校群制度を打ち出した。
日比谷高校は第一学区の中で、日比谷・三田・九段高校と第一群を構成した。その結果第一学区第一群(第11群という)の高校学力試験合格者は成績順に上記3校に振り分けられた。(13校のうちの一橋高校は忍岡、竹台高校、3校と第91群を構成し、第一学区・第五学区双方から受験可能となった)
 以下が1968年からの日比谷高校の学校群制度通学区。

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第一学区学校群を下記色で分類

 

第11群

 

第12群

 

第13群

 

第14群

 

第15群

(この図はご指摘いただき修正しました。2020-1)

この学校群制度では個別学校ではなく群単位で希望を提出、その群全体としての募集定員の合格者を出す。そして構成する学校数、例えば第11群なら3校、第13群なら2校に成績順で割り振ってゆく。
群の中の高校は毎年、その順位を変える。今年がA・B・C校の順であれば翌年はB・C・A校という順位となり、各高校が均等に成績順位による入学生の受け入れとなるように行われた。
しかしここで指摘されるのは日比谷高校が3校による群の構成となったこと。2校構成の群と3校構成の群では合格者を二分の一にするか三分の一にするか大きく異なってくる。その結果第11群では希望の学校に行けるのは3割強の確率となった。
 また東京都は学校群制度発足を機に、都立高校教職員の異動を大量に行う方針を打ち出し た。日比谷や戸山など都立高校進学校に偏って東大合格者が多いからという理由だった。
東大合格者が多いのは、生徒ばかりでなく教員も優れていたという理由付けでもある。進学校での長年の経験と蓄積から独自の受験指導ノウハウを確立 して、東大入試のプロとなったのだ。
 都は彼らを他校に移して、学校間格差解消をはかろうとした。
 1967年3月以下の高校では16年以上勤務する教員数とその割合は以下になる。
(全日制 文部省調査 資料は「東大合格高校盛衰史」小林哲夫 より)

  • 日比谷高23人(45.6%)
  • 西高20人(44.7%)
  • 戸山高22人(45.7%)
  • 新宿高25人(44.1%)
  • 石川高20人(43.8%)

そして日比谷高・西高・戸山高・新宿高にとってはこの教職員の移動と上記のように学校群制度によって、以前に比べ成績上位層の三分の一(ないし二分の一)しか受け入れられなくなったことを合わせ進学に大きく影響を及ぼした。一連の制度改正はいわゆる「日比谷潰し」といわれている。

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