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ある公立高等学校の変遷9 変節といってもいい変化

教育界の鴨沂高校にたいする評価は、「鴨沂高校、あっあそこは特別ですね」という学校歴史博物館学芸員の発言に代表される。

学校としての出自や歴史を鼻にかけることもしかり、また一方下記のような「民主教育」を通じて独特の校風を築いたこともあるのだろう。

「鴨沂」という校名は、鴨川のほとり(沂)というところから名付けられたときいたが、

新制高校として発足したときには既に京都府立第一女学校卒業生の会「鴨沂会」があった。

この名からつけられたのが正しいだろう。

IME漢字変換でもなかなか出てこない文字だ。

それでは前回までの進学率検討の一助として今回は、その鴨沂高校を舞台に、この時代を見てみよう。

「鴨沂の歩み」から紐解く教育

前回長時間対話したO先生は生徒部への配属ということだった。

私が高校生だったころ、まったくの惰性ノンポリクラブ一途生徒だったので、アセンブリーなどはよく欠席したもので自慢できないことであるが生徒部の先生から教育的指導も受けた。

鴨沂高校では入学の折には以下のような小冊子が配られた。

 鴨沂の教育(原文のまま) 

全国で数多くある高等学校の中で特に「自由の学園」として鴨沂高校は京都の人々だけでなく全国的にも有名です。

これは京都の高等学校が高等教育を行なう上で最も大切な「 高高三原則」を終戦後からずっと守って来たからです。

この「高校三原則」は「男女共学 制」・「小学区制」・「総合制」から成り立っており、現在この三原則が守られているのは全国でただ一つ京都だけです。

「男女共学制」とは言うまでもなく今までの小中学校の中で経験されてきたように男子と女子が共に学ぶことによって互いの価値を正しく認め合い、その特性を伸ばし、人間として互いに高めあって正しい人格を形成していくために必要な制度です。

「小学区制」とは皆さんが鴨沂高校に入学して来た様に一つの地域に一つの高校といったもので、その地域に住む生徒はその高校に進学するという制度です。

[大学区制」とは一地域にいくつかの高校があり、成績により学校が決まります。 そのため一流校、二流校といった学校差がつ きます。

例えば東京都では東大合格者が日比谷・小山台・九段等の有名校にかたまりその他の高校は全くありません。

 ここでは日比谷をのぞく学校が互いに補習授業をはじめとする色々な方策で東大の入学率をよくしようとして学校全体が競争し合う状態にあります。

そして高校教育が完全に大学入試のための予備教育となっています。

また、一流校に男子が集中するため自然に男女共学制も破壊されています。

 それに比較して京都は京大合格者がすべての高校に平均しており、他府県のように学校同志の競い合いがありません。

だからこれは一流校、二流校など各学校に格差をつけて進学本位とか就職本位とかの学校ができないために必要なのです。

「総合制」とは専門学校を特別につくらずに学校の中でそれぞれ自分の選択によって専門の授業が受けら れる様にした制度で、鴨沂にみるならば商業課と普通課が一緒にあることです。

 これは、高校が単なる大学の予備校になったり、また技術を身につける職業訓練所の様になるのを防ぎます。

またその高校に入った時からその人の将来が決められてしまうより、高校生と して三年間自分の特性を生かして自由に学んだ中で自分で自分の進路を決めていくようにするためにも重要なことです。

また、鴨沂高校では普通課と商業課の人が一緒になって授業、H・Rが行なえる様に流動講座制になっています。

 流動講座制というのは一科目の授業が終るごとに教室と講座人数が変るものです。

これは前記の「総合制」 に関連しています。

たとえ総合制が実施されていても講座が固定されていると普通課組と商業課組とが分裂してしまい、互いの間に対立心がおこるといった結果になります。

現に京都のある高校では講座制が行なわれていな いため普通課と商業課とが完全に学校内で分裂しており、普通課は進学一本、それに対応して商業課だけがクラブ活動をやっている様な状態になっています。

 この様なわけへだてのある教育では真の民主教育とはいえないし、 楽しい高校生活を送ることが出来ません。

しかしH・Rにおいて金曜日を除いては一日十分しか会う機会がないため名前も覚えられないといった風潮が見られますが、行事等を通じてここで普通課と商業課とのつながりが生まれるので、H.R運営は確実に行なっていかねばなりません。

また、鴨沂では自主的判断をやしなうため に他校にはみられない様な多くの行事や週一 回のAがあります。

 鴨沂における自主活動には、A、H・R、行事、クラブ活動などがあります。毎日学校にきても授業のみをうけていては高校生活の楽しさは味わえず、世にいう灰色の高校生活となってしまいます。

そしてものを考え、判断することができないましては自分の人生も考えられない人間になってしまいます。高校生活では勉強にはげみ、そしてそれと並行に自主的判断をやしなう必要があります。

人の意見をきき、思想を高めて自分の考え意見を発表することにより社会を 正しく批判できる人間にならねばなりません。

また、H・Rに参加することにより勉学を共にする友の他にまた別の友人を見いだせます。

H・R単位で行事などに参加するためH ・Rに出席しクラスメートとかたく団結する事により、H・Rを楽しぐ意義あるものにする事が必要です。

 またクラブ活動に参加することにより、上級生と交流でき個人ではできない亊を経験できます。

 以上のような自主活動は鴨沂高校の基盤となっていますから、これらに参加することは自治会員として当然の事になります。

 以上のべた自主活動を行う上において特に間違っている事に対してはそれに批判を加えた意見を訴えなくては前進がありません。

これらを行うのに特に鴨沂では「言論の自由」 が認められています。

A、H・Rをはじめ全校生徒に訴えたい時はビラを配るか銀座通りに掲示をしたりします。

 これが鴨折が「自由の学園」と言われるゆえんなのです。

 しかしこ れらの自由(権利)を行使すれば必ずそれに裏づけされる義務・責任を果さなければなり ません。

最近では「自由」のみを主張する傾 向があり、自由が利己主義・無責任といったものに変貌しつつ、自らの自由に制約を加えて来ています。

 「自由な学園」であるからこそ、自分の意見と行動に民主的な確立されたものがなくてはなりません。

 特に「言論の自由」においてはあくまでも基本的人権を重んじたもの、建設的なものでなくては、鴨沂の 「自由・自主制」を発展させていくことは出 来ません。

 破壊的・反動的なものは自主活動の前進につながりません。

また、服装の自由にしても勝手きままな物を着てもよい、というのではありません。

 あくまでも「高校生らし い」という事が基本になります。 鴨沂の「自由」には責任ある態度をもち、 それを社会に対して誇れる「自由」にしてい くことが我々の課題なのです。

多分生徒の文章だろう。
注)「A」はアセンブリーのこと。

「H・R」はホームルーム。ロングとショートのH・Rがありロングは週一回1時間、ショートは毎日10分

アセンブリーとは英語で「社交・宗教などの特別の目的の集会、会合、会議、小学校などの朝礼、集合(すること)、集まり、(米国のある州議会の)下院、立法議会」などの意味だ。

中村保雄先生の「鴨沂の歩み」 第一号の巻頭言

以下は鴨沂高校旧教職員の会という組織で鴨沂の教育を記録しようと発刊された「鴨沂の歩み」1号からの文章である。

 鴨沂の歩みーその在り方を中心に 中村保雄 鴨沂高校は、旧制の府立第一高女・第一中学・嵯峨野高女の三校が合併し、新制高校として昭和二十三年秋に発足した。これは進駐軍の指令により新制中学を充実させるためにとられた統合処置である。
そしてその制度は「地域制・男女共学制・総合制」だった。
 しかしそうであっても、とくに本校は発足当初からその運営を旧制高校がもつ自由の精神をかかげていた。そのため教職員は、自由な討論によって諸事を決定しようとする。
筆者はそうした空気が醸し出される発足当時より二年余をへた昭和二十五年暮に転勤してきたが、もちろんその職員会議の活発な討論、とくに学校長をまき込んで進められる様子は、今も忘れない。
したがってそうした空気は、ホームールームを中心とする生徒の教育にも引きつがれていた。
そしてそれは勉学にも及び、昭和二十年代後半までは大学進学率もよく。東の日比谷、西の鴨沂とまでいわれたのも、その現れであろう。
 ところで昭和三十年代に入ると、その様子は徐々に変化してきた。高校全入制運動の中で大学生が底辺層まで拡大してくると、発足当初の雰囲気も少しづつ失われてくるのも事実である。
そのため教員側が積極的な指導で運営しようとしても、なかなか進捗しないと いう悩み、いいかえると教員側の自信のなさにもつながってゆく。たしか全国的に三原則が崩れようとした二十年代後半と思うが、生徒部の責任者であったSSさんと教務部の筆者とが、他地方の高校教育の実情を調べにゆくことにした。それは東京都・名古屋市・ 大阪市の各数校に及ぶものである。しかしそこで得たものは、本校の教育の進め方に誤りのなかったことが確認できた。その自信と努力とは、筆者が退職する昭和五十五年頃まで引き継がれていたように思う。
 なお筆者が昭和四十七年から三年間、府の研究所に転じた時、所員の多くが京都府の教育の在り方を心配していた。そのため府立高校卒業生で、社会人となって府外で活躍している人たちに「府立高校で学んだ良さと悪さ」を中心に調査をしたことがある。ここではくわしく報告する紙数もないが、その回答の多くが社会に出て。他府県高校出身者に比べ て、京都の教育の良さがよくわかったというものである。この中には本校出身者も多く含まれていることはいうまでもない。
 さてこの度の本誌は、「鴨沂の歩み」を生徒と教師の証言でたどることを意図して編集したものである。編集に当たっては、鴨沂高校発足以来の生徒と教師の貴重な証言が多数掲載されている、『OUR SCHOOL OHKI』第十号(学園誌)・第十一号(生徒自治会誌)の特集から引用させていただいた。この点を明記するとともに、本誌を通して鴨沂高校の良さを再認識していただきたいと思う。

この中にでてくるSS先生は以下のSS先生です。
ちなみに中村保雄先生は数学担当でのちに校長になられた。また能面研究の権威でもありました。そちらの方が有名かも。「能面」

「鴨沂の歩み」第二号の巻頭言 上田正昭先生

続いて「鴨沂の歩み」2号から

自由と民主主義と人権と 鴨沂高校旧教職員の会 会長 上田正昭 

 鴨沂高等学校旧教職員の会は、毎年の秋に、懇親会を開催してまいりましたが、一九九三年の秋には、鴨沂高校の歴程を記録として共有すべく『鴨沂の歩みー生徒と教師の証言』 を編集して発行しました。多くの教職員や当時生徒であった方々から幸いにも好評をえてさらに創生期の記録もまとめるべきではないかという意見が寄せられました。

 一九九三年の秋の懇親会で、中村保雄先生のつぎの会長に、はからずも私か選ばれましたが、一九九四年十一月の懇親会のおりに、明年の戦後五十年の節目に、鴨沂高校発足のころ、すなわち鴨沂高校の創生期を中心にした記録を『鴨沂の歩みー生徒と教師の証言』 につづく冊子として発行することが、参会の皆さんのおおかたの意向となりました。

 当会の事務局長であるAT先生を中心に、編集の話し合いがたびたび問催され、①創 生期を中心とする生徒と教師の記録、②当時の生徒と教師の座談会、③「鴨沂新聞」からの採録、④新制高校確立期の教育および校内関係史・資料、⑤戦後教育史における昭和二 十年代の位置を内容とする記録を発行する運びとなりました。 この間多忙のなかを編集の実務にたずさわっていただいた関係者の方々に会の皆さん 共々、篤く御礼を申します。また依頼にこたえて、貴重な寄稿あるいは座談会参加を快諾された生徒・教師の方々に改めて感謝の意を表します。

 この記録の座談会の冒頭でも申しましたが、鴨所高校在職十三年間の想い出には、いまもなお忘れがたい数多くの出来事がありました。私見になりますが、自由とは何か、民主主義とは何か、人権とは何かを肌で学んだのは、鴨所高校在職のおりおりでした。たとえば私が鴨沂高校で最初で最後の担任であったクラスにいた在日朝鮮人生徒との出会い(そ の後は教務・生徒部・評議員などをつとめました)、部落生徒の実情に目を向けようとし た映画『部落』の制作など、韓国・朝鮮問題や部落問題を学んだのも、鴨折高校に在職していたからこそのありがたい教育実践でした。

 すばらしい多くの先生方とのまじわり、活動力・創造力にあふれた生徒の皆さんとの交 流、そのひとつひとつが懐かしく回想されます。

 旧教職員の会の方々も、それぞれに印象の深い鴨沂生活があったにちがいありません。 鴨沂高校創生期のありようは、新制高校の発足時と形成期の理念と現実を照射します。戦後教育史における昭和二十年代の位置とその意義をあざやかに浮きぼりにする作業となりましょう。この冊子がたんなる想い出の文集にとどまることなく、新制高校の過去と現在の探究に寄与する記録となることを期待します。

訃報:上田正昭さん88歳=京都大名誉教授、歴史学者 - 毎日新聞


「黒犬」という記号があったこと、そしてなるほどと感心したこともよく記憶している。部落問題研究会の略称「部落研=Black犬」か変化したのだ。
鴨沂高校アセンブリーでは本当によく被差別部落問題が取り上げられた。

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鴨沂高校外壁石垣

 

「高校教師は訴える」SS先生

黒犬と惰性ノンポリクラブ一途だった私にはほとんど接点はなかった。しかしよく教育的指導を受けたSS先生、そのSS先生の著書「高校教師は発言する」に以下当時の状況が書かれていた。

差別問題をめぐって  鴨沂では、昭和四十一年四月上旬差別ピラがまかれようとした。内容は言葉にできないほど極めて露骨な差別の内容をもったものであったが、この事件が生徒はもちろん、教職員の部落問題に対する意識の根底を洗いざらす生徒会活動となって発展した。
(中略)
 昭和四十二年一月に入って、三回の職員会議、三回の研修会をもって、差別ピラの本質を討論からやりなおす事で、教職員の意志統一をはかり、全校教職員、生徒の学習会を準備した。
一般生徒が十分討議できるように生徒全員を三九分科会にわけた。各分科会には各学年生徒普商生徒が平等になるような配置を実施した。各分科会は生徒司会者二名、記録者一名、教職 員二名(助手も含む)によって運営された。
 討論の質は、司会者によって大きく左右される。とくに、テーマに対する生徒の興味、認識の度合が低い場合には、司会者の影響力は大きい。
 各分科会二名、三九分科会で約八〇名近く の司会者集団を育てることは、簡単なものではなかった。
研究集会をめざして、同和教育研究会、生徒部、部落研、生徒自治会は全力をあげて連日、司会者集団の研究会、教師集団の協議をもって取り組んだ。
 当日、大量の欠席者が出た。一年七四名、二年一五八名、三年四一八名計六五四名という多数であった。三年生は約三分の二も討諭集会に不参加となったわけである。
特に三年の普通科 生徒の欠席が顕著であった。全員が欠席するというクラスが三つぐらいあった。
 部落について不十分な認識をもった教員がその上に立っているため、学校と生徒との間に大きな溝があったからであろう。往復運動にはならなかった。この結果、一部反発が生じ混乱が出てきた。この克服のためには生徒の身の回りの、生徒の居住する地域で現実に学び、それを教材として理論化していく作業が必要であった。
 ″橋のない川″などを休暇中の読書として課題に出すだけに終わって、各教科の内容として組みこまれていないというような弱点があった。しかし、教師の獲得した経験は大きかった。何回かの学習会の中で逃げたり、またごまかすことのできない立場に立たされ、回答をせまられるような経験は今までの鴨沂民主教育の中でなかったことである。助言者としての教職員と司会者としての生徒がともに学習した経験も初めてであった。今までの民主教育の限界を知ったことも大きな経験であった。教師一人一人が逃げることができないところでの思考行動、そこ から民主教育の内容は質的転換をするものである。 日常、多様化路線の中で選別されている商業科生徒の対応の姿勢は、普通科生徒よりも具体的であり、研究集会の欠席はごく少なく、つねに積極的に差別反対の主張をし、つねに解放の立場に立った。ときには涙を流して悔しがり、ときには全身ふるわせて怒りを表現し、ときには冷静に反論したことは注目すべきことであった。
普通科生徒が一般的にいって観念的理解者であり、部落に対して同情論を主張する者が多かった。
 一月三十一日、生徒三十数名參加のもとで、教職員会議が聞かれ、のべ五十数名の生徒が三時問あまりににわたって発言、教職員に各種問題につき訴えた。三年生は、期末試験、入学試験を目前に控えながら出席、冷静に発言、民主教育確立のため教職員の努力をうながした。
 教職員は、次の統一見解を全員一致で決定し今後の出発点した。
 本校における同和教育について 一月三十一日の教職員会識に多数の生徒諸君が出席し鴨沂の教育についてたくさんの問題を訴えました。わたしたちは検討の結果満場一致で次のことを決議しました。
  • 四月の差別ビラについては許すことのできない内容を持ったものであると考えます。これらのピラが本校でまかれたことは憲法、教育基本法を否定し民主教育に逆行する一部の社会風潮が学校内にあらわれたものであり、これに対処できる教育体 制が本校に不十分であったことを示しております。
  • 従来の講演、映画などの一方的な知識伝達のみでは生徒諸君の理解が十分得られ なかったことを反省します。
  • 部落研を始めとして差別のてっ廃のためにたたかっている生徒有志の自主活動に対しては、わたしたちはこれを支持し援助しなければならないと思います。
  • 教職員に出された部落研のアンケートにはわたしたちは回答すべき立場にあり、回答することこそ同和教育推進の一歩であると考えます。
  • 公開質剛状などのA先生問題は差別ピラに関する部落研のアンケートより発生したものであり、明らかに同和問題であります。公開質問状に回答することは生徒に対する教育の一部であって、当然答えることが正しいと認めます。
  -省略--‐‐
  • 生徒諸君から出された具体的な問題については、各関係者で直ちに方針を出して行きたいと思います。
  • わたしたちは生徒諸君の一人一人が差別をにくむとともにこれとたたかい、学校の中でももしまちがったことがあれば堂々とそれを取り上げてうったえることができる人になってもらいたいと思います。そうしてそのためにわたしたちと諸君が手を収り合って一体となって進んで行くことを決意しました。

当時校内にはなんだかまさしくこのような空気感が溢れていた。

その鴨沂が今回各先生に聞くと変化したようだ。他校は分からないが、少なくとも鴨沂高校は変化した。

頭書にあげたO先生は鴨沂高校生徒自治会会報「OurSchoolOHKI」の創刊を主導されたそうだ。

後年になるが1994年そのOurSchoolOHKIの記事で「学校」上映に関する事件が載っている。この件は毎日新聞でも取り上げられた。

 「京都・鴨沂高」毎日新聞記事  京郡府立鴨沂高校(京都市上京区、小谷嘉明校長) のPTAなどが企画した 山田洋次監督の文部省特選映画「学校」の上映・講演会をめぐり、小谷校長が「山田監督は今年四月の京都府知事選で革新候補を 応援した」という理由で、同校講堂の会場使用を断っていたことが、三十一日分かった。
映画上映は見送られ、 講演会だけ別会場で閧いたが、 関係者から「催しの内容も検討せず、施設借用を拒否したのはおかしい」と批判の声が上がっている。
 映画上映・講演会は、PTAとPTAOB会、前身の府立京都府一高女同窓会の三者が主催。 これまでも作家の水上勉氏の講演会を行うなど。年一回の恒例行事として実施してきた。
 関係者によると、 今年は一年生を対象にした山田監督の講演会と他の生徒やPTAらにも呼びかけた 「学校」上映会を五月二日に計画講堂の会場借用を学校側に申し入れた。
 ところが、小谷校長が四月中旬、知事選の話を持ち出し反対し、講堂使用を許可しなかった。 代替の広い会場を確保出来なかったため 上映会は中止・市内の別会場で同日、講演会だけ行った。
 山田監督は四月十日投開票の京都府知事選で落選した革新候補を推薦する団体のピラなどに推薦人として名前を連ねていた。
 小谷校長は「山田監督は政治的な主義主張を鮮明にしており、生徒に与える影響などを考えた」と話している。

参照 http://coboon.jp/memory.of.ouki/archives/author/memory-of-ouki/page/43

上記サイトに
「私もこの事件の時には他校にいましたが、そこでも演劇の団体鑑賞のパンフレットに山田洋次監督のコメントが掲載されていることを理由に生徒への配布を校長に止められました。

多分、校長一人の判断というよりも何らかの外部からの圧力があったのだとその時は感じました。」
との投稿がある。

件の校長は上部組織からの指示で講堂使用の許可をしなかったのだろう。

昔はこういうのを日和見といった。

一応理由は「政治的な主義主張を鮮明」とのことだが、とってつけたような理由だ。

まさしく校長自身が以下の文章などへの理解力があるのかが問われる。

文科省HP[高等学校教育の目的・目標]
  • 義務教育として行われる普通教育の成果を更に発展させて、豊かな人間性、創造性及び健やかな身体を養い、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと
  • 社会において果たさなければならない使命の自覚に基づき、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な知識、技術及び技能を習得させること
  • 個性の確立に努めるとともに、社会について広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと


以上鴨沂高校でもそうであったように、各高校では義務教育とは異なり一種の自由への芽生えを自覚した教育が往年行われた。

私的には近年この自由への芽生えを摘み取るような教育が行われている気がしてならない。

「制服」はまさしく管理者としての学校側の立場からの「制限」なのではないか。

私服よりもコストは安くなるみたいな弥縫策的いいわけはともかく、自覚を促さず十把一絡げにまとめる方向への圧力が強い。

その結果おとなしくいいなりになる、「個性の確立に努めるとともに、社会について広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する」人材を育てるという教育的だいご味に乏しい高校制度になっているのではないか。

 結局1970年ころになにがあったかは分からない。

しかし上記に見るように「高校」は変わった。

その変化が「大学進学率」や「京都大学合格者数」に影響したのかもわからない。

 鴨沂高校旧教職員の会は3年ほど前から親睦を中心とした部分を除き、休止となっている。

会員の先生も高齢となり、新しく加入する教員がいないそうだ。

 いわば「鴨沂」名付け親の京都府立第一高等女学校を1.0とするなら1970年ころが鴨沂高校2.0、そしてそれ以降特に制服採用以降は鴨沂高校3.0と校舎とともに変節した。

 京都では小学区制だからこその縁か、三代にわたり同じ高校という家族も多い。

往年はそうだったし、近年はこうなっている。

その中でも教育目標は変わっていなかった。

「鴨沂高校の教育目標」 世界の平和を希望し、すべての人々が幸福になりうる社会を目ざして、事実に基づいて真理を追究し、それに従って実践しようと努力する人間をつくる。
  1. 自発的・積極的に学習し、基礎学力を培い、かつ思考力を養成する。
  2. 自治的活動に進んで参加し、相互の人格を尊重し、正しい方法で討論して、その結果に基づき、責任を持って行動する習慣を養う。
  3. 現実社会に関する関心を高め、批判的精神を養成する。
  4. 勤労の誇りと喜びをもち、社会的活動に耐えるような体力を増進する。
  5. 芸術的関心を深め、豊かな情操を養う。
  6. 人間の尊厳という観点から、基本的人権についての科学的な認識を培う。

2014年から京都市と乙訓地域の通学区が1本になった。21校の公立高校の中から志望校を選択できる。

教師・教育制度・生徒どれも万全の結果をだしたい。

その覚悟が行政・教師・生徒それぞれにあるか、きっとそれが問われるのだ。
その高校に毎年新入生は入ってくる、未来に希望はある。

京都主要高校1950年から2009年の
東京大学への入学者総数
洛南高校 984
洛星高校 877
京都教育大付属 79
同志社高校 53
福知山高校 43
東舞鶴高校 42
綾部高校 38
堀川高校 36
鴨沂高校 34
洛北高校 33
西舞鶴高校 31
京都共栄学園 29
紫野高校 27
桃山高校 20
山城高校 19
宮津高校 15
朱雀高校 14
嵯峨野高校 12
乙訓高校 11
立命館高校 11
西京高校 9
京都成章高校 8
日吉ヶ丘高校 8
洛東高校 7
京都女子高校 6
洛陽高校 5
西乙訓高校 4
向陽高校 4
東山高校 4
ノートルダム女学院 4
莵道高校 3
塔南高校 3
峰山高校 3
伏見高校 3
亀岡高校 3
出典:東大合格高校盛衰史 光文社新書

 新生鴨沂高校図面

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京都府教育委員会HPより



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