1930年代のはじめから加えられた激しい弾圧は、左翼の知識人の「転向」を生みだした。30年代の後半から戦時中にかけては、広汎な知識人の側から権力との妥協がおこった。妥協は半ば外から強制され、自覚的に行われたが、半ばは内側から、無自覚に行われた。内側からの無自覚な妥協は、日本の知識人における人と思想、人と知識、人と言葉との弱い関係を示すものである。知的活動、抽象的な概念、厳密であり包括的であろうとする概念の体系、世界を理解しかつ変えるための有効な手段、・・そういうものが、一方にあって、他方に、食べることや女と寝ることや、群居して制服を着用し、考える代わりに興奮すること、要するに官能的・感情的な経験の具体性があり、その両極の間にはほとんど関係がなかった。だから平時には前者が「インテリ」の資格であり、「非常時」には、「生活がイデオロギーに復讐する」ということになる。しかし、はじめから生活とイデオロギーとが密接であったならば、その一方が他方に「復讐する」はずはなかった。
「イデオロギー」、総じて知的活動が、飾りにすぎず、ほんとうの生活は、江戸以来の情緒的・官能的な直接的経験の世界であったということ。現代の流行語をもってすれば、知的に媒介されない生の「情念」の世界、その世界に生きる人々の「気分」を大げさな言葉でかきたて、それが文学の本命だとういことになりさえすれば、余は権力側からの「気分」方向づけの仕事が残るだけである。勇み肌の自己犠牲へ導くこともできるだろうし、金ピカの安っぽく飾りたてた美学へ赴かせることもできるだろう。一体何のための美学であり、自己犠牲であるか。しかしそれは知識の問題である。およそ知識の問題は、皇国の伝統に属さず、日本男児の本懐にあらず、ということに衆議一決した状態ほど、権力にとって好都合なものはあるまい。
加藤周一「稱心独語」
REMEMBER3.11