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タテカンと強弱の同化

京都大学憲法にいう不断の努力

第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、
国民の不断の努力によつて、
これを保持しなければならない。
又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、
常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

京都市京都大学管理者の人たちにとって、悲しいかなもはやタテカンは学生だけのものではなく、近隣市民との共有となり、さらに「タテカン問題」を通じて改めて、京大当局としての姿勢が今注目されている。

タテカンは学生が市民に対して意見表明するツールであり、これはつまり学生と市民のつながりの場でもある。

この点を理解する人が事務当局にいないのではないか。今回のタテカン騒動は簡単には収まらない。

ちかごろの学生はこんなことを考え、こんなことを広めようとしているんだ、と市民がタテカンを通じて知の塔の足元をのぞく気分なのである。

逐次タテカンを撤去するという作業は、大学と大学が本来よって立つところの多くの市民とのつながりを遮断することにもつななる。

タテカンを暗闇に放り込もうとする行為は、大学自らをも暗闇へと導く。

中世ではあるまいし市民に対し閉じられた大学で何を研究するというのだ。

 

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京都大学の立場:強弱の両極分化

大学と社会 加藤周一(1990年「物理学者の社会的責任」)ヨーロッパの古い大学には神学・法学・医学三つの学部があり、神学とはもちろんカトリック神学で、中世ヨーロッパでは、すべての価値の体系がキリスト教と関連して生きてきた。
したがって神学部というのは価値の検討機関だったのです。
法学部は直接弁護士をつくりだすことよりも法律に関係のある知識の中心、専門知識の提供という意味がり、また医学部はもちろん医者養成機関という役割を持っていました。
 これら三つの学部を持ったヨーロッパの古い大学は官立ではなく政府からは独立していたが、日本の場合は歴史的にそうではなかった。
しかし政治権力からの独立ということが大学としての一つの大きな特徴であり、大学にあるその四つの役割、教育機関・研究機関・価値を知的に検討する機関・社会批判としての機関、この要素が大学に期待する役割となる。
 社会批判をするときに大切なのは学問の中立性であるが、しかしそのことにあまりに固執すると結局現状維持を支持する結果となってしまう。
一例として1960年代にアメリカでヴェトナム戦争への批判が盛んになったが、それが生まれたのは大学の内部から生まれ、学生たちと、歴史家や数学者、文学者の間から起こった戦争批判がその始まりとなった。
そんな中で、比較的ヴェトナム戦争に肯定的だったのが政治学者といわれる人々であり、ある集会で政治学者がいった。
「あなたがたはシェイクスピア因数分解に詳しいかもしれない。しかし世の中のことを知らない。アメリカの政治は複雑だからやたら反対ではなく、少し勉強したらどうか」
政治学者が批判的立場をとると学問の中立性に反するから、はっきりした意見をいわず客観的でいようということです。
 しかしどんな理由があろうと中立の立場をとるのも沈黙するのも政治的行為なのです。
反対しないことは、本人が意識しようとなかろうと現状容認を意味します。
 強さと弱さが共存する社会において、大学は強弱の両極分化をなるべく和らげるように、できるかぎり弱い方に情報を提供して助ける態度をとることが基本的に重要なのです。

 

REMEMBER3.11