1960年代から80年代、長期安定政権の時代は経済発展の時代でもあった。
対外関係については冷戦構造の中でアメリカと同盟関係を結ぶことの見返りに、
アメリカ市場に工業製品を売り込んで経済成長を追求するという路線をとっていた。
この路線はあまりに強固であり、政治的な選択の対象ではなく政治にとっての自明に前提であった。
したがって、政策の方向づけについて政党や政治家が選択肢を示し、
国民がその中から選択するという経験はほとんど皆無であった。
具体的な政策形成は官僚が仕切り政治家の仕事は個別的具体的な要求を官僚に取り次ぎ、
利益誘導を行うことであった。
*
自民党政権は経済成長の促進と富の平等な分配という二つの課題を、ある程度巧みに両立
させたと評価することができる。
そのからくりは民間部門では長期安定雇用と年功賃金の下で富が労働者にも分配された。
公共部門は非大都市圏に対する公共投資、農業や流通業などの後進セクターへの補助、保護などの政策を展開した。
こうした政策によって低生産性部門でも雇用が確保され、そのことが社会の平準化を促進した。
*
自民党の中には社会民主主義的ともいえるような再分配主義者と経済界の指示をうけた自由主義者など
政策的に対立する政治家が共存していた。
その時々の状況に応じて、自民党が政策的な重心をずらしながら、権力を維持してきた。
たとえて言えば、「さいころ博打の丁と半の両方に賭ける」ことを自民党はしてきたのである。
だから、自民党に負けはなかった。
*
自民党はそれぞれの省庁の官僚がしたいことを後押しし、実現することを自らの役割と考えた。
逆に官僚組織の金や権力を奪うような政策転換、たとえば地方分権、財政再建、規制緩和などの
政策を政党が主導で実行するということは、55年体制の自民党には不可能であった。
*
冷戦構造の崩壊
1989年にベルリンの壁が崩壊しさらに91年末にはソ連が解体した。
中国もこの時期から改革開放路線を驀進し始めた。社会主義の消滅は資本主義の勝利と喧伝され、
自民党にとっては慶賀すべき出来事のはずである。しかし、資本主義の勝利は皮肉なことに
自民党のアイデンティティを脅かした。
ピンチに陥ったときの体制選択論という便利な武器がもはや使えなくなったからである。
「反共」という大きな箍が外れたといってもよい。
このことは自民党に挑戦する勢力に対しても大きな影響を与えた。
自民党を批判する側にとって、体制選択のくびきが外れたことは自由度を大きく広げた。
市場経済と議会制民主主義という同じ枠の中で、自民党を批判し別の選択肢を示すことが可能となった。
そうなると広い意味での保守の中からも非自民の受け皿を提示する動きが始まった。
90年代前半の日本新党、新党さきがけ、新生党などがそうした動きの現われであった。
*
自民党機会主義
細川政権の誕生により自民党という政党は権力という接着剤がなければ簡単に瓦解するもろいものであるという教訓を
彼らはいやというほど学び取った。主義主張や節操をかなぐり捨て常に権力を守るために行動する。
議員の地位を守るためにはどんな手段でも使うという機会主義がそれ以前よりも強力に根づいた。
初めて味わった野党の苦境から脱するために、自民党は社会党と手を組むことをいとわなかった。
そして、植民地支配や侵略戦争に対する反省、被爆者や従軍慰安婦など戦争被害者に対するある種の補償などを受け入れた。
しかし、自民党ハト派化は権力復帰のための偽装でしかなかった。
社会党という足かせが外れると自民党は90年代末以降右傾化を強め、小泉首相の靖国神社(公式)参拝を
大半の政治家が指示するまでに至った。
*
マニュフェスト
マニュフェストという言葉はそもそもマルクスが「共産党宣言」で使ったことに示されるように、
何らかの世界観に基づく政治的な行動目標の宣言である。目指すべきよい社会とはどんなものかという基本的理念が
根底になければ、数値目標だの起源だのは無意味である。
仮にマニュフェストによる選挙が政党政治の基本ルールだというなら、
2005年の郵政解散こそ最もマニュフェストを軽視した選挙ということになる。
郵政民営化という単一争点で衆議院の絶対多数を獲得した自公連立政権は、その後、後期高齢者医療制度の導入
教育基本法改正、憲法改正のための国民投票法の制定など、国民に明示的に約束していない政策を次々と実現した。
これは国民にたいする詐欺である。しかし寡聞にしてマニュフェスト運動のリーダーから小泉批判を聞いたことはない。
*
ポピュリズム
近代のポピュリズムは、平等化のベクトルに沿って動いてきた。
指導的政治家は庶民の代表あるいは化身であった。
19世紀から20世紀初頭にかけてのアメリカでは、大企業の横暴に対抗する農民運動が活発化した。
そのスローガンは「share our wealth」であった。これがポピュリズムであった。
これに対してグローバリゼーションと新自由主義の時代(=ポスト近代)のポピュリズムは
正反対のベクトルに沿って動いているように見える。
現在の日本ではグローバリゼーションがもたらす経済的不平等はなかなか政治的争点化せず、
ポピュリズムは富の再分配や平等化の要求とは結びつかなかった。
「公務員・正規雇用」対「非正規・低賃金労働者」「都市の無党派層」対「農民・建設業者」という
全体の貧富のスケールからみれば小さな差異が争点化される一方「ヒルズ族」と「エワーキングプア」の間に存在
するような巨視的な不平等は放置された。
小泉純一郎という政治家は、まさに自民党内の抵抗勢力や官僚など、次々と敵をあぶり出し、庶民を政治的に
興奮させ続けた点で、天才的なポピュリストであった。
指導的政治家と庶民の同質性はもはや消滅している。庶民の生活が次第に窮乏化する中で、
たとえば石原ファミリーのようにしばしばセレブリティの側に属するリーダーは、庶民の代表あるいは化身とはいえない。
-「政権交代論」(概略)山口二郎-
対外関係については冷戦構造の中でアメリカと同盟関係を結ぶことの見返りに、
アメリカ市場に工業製品を売り込んで経済成長を追求するという路線をとっていた。
この路線はあまりに強固であり、政治的な選択の対象ではなく政治にとっての自明に前提であった。
したがって、政策の方向づけについて政党や政治家が選択肢を示し、
国民がその中から選択するという経験はほとんど皆無であった。
具体的な政策形成は官僚が仕切り政治家の仕事は個別的具体的な要求を官僚に取り次ぎ、
利益誘導を行うことであった。
*
自民党政権は経済成長の促進と富の平等な分配という二つの課題を、ある程度巧みに両立
させたと評価することができる。
そのからくりは民間部門では長期安定雇用と年功賃金の下で富が労働者にも分配された。
公共部門は非大都市圏に対する公共投資、農業や流通業などの後進セクターへの補助、保護などの政策を展開した。
こうした政策によって低生産性部門でも雇用が確保され、そのことが社会の平準化を促進した。
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自民党の中には社会民主主義的ともいえるような再分配主義者と経済界の指示をうけた自由主義者など
政策的に対立する政治家が共存していた。
その時々の状況に応じて、自民党が政策的な重心をずらしながら、権力を維持してきた。
たとえて言えば、「さいころ博打の丁と半の両方に賭ける」ことを自民党はしてきたのである。
だから、自民党に負けはなかった。
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自民党はそれぞれの省庁の官僚がしたいことを後押しし、実現することを自らの役割と考えた。
逆に官僚組織の金や権力を奪うような政策転換、たとえば地方分権、財政再建、規制緩和などの
政策を政党が主導で実行するということは、55年体制の自民党には不可能であった。
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冷戦構造の崩壊
1989年にベルリンの壁が崩壊しさらに91年末にはソ連が解体した。
中国もこの時期から改革開放路線を驀進し始めた。社会主義の消滅は資本主義の勝利と喧伝され、
自民党にとっては慶賀すべき出来事のはずである。しかし、資本主義の勝利は皮肉なことに
自民党のアイデンティティを脅かした。
ピンチに陥ったときの体制選択論という便利な武器がもはや使えなくなったからである。
「反共」という大きな箍が外れたといってもよい。
このことは自民党に挑戦する勢力に対しても大きな影響を与えた。
自民党を批判する側にとって、体制選択のくびきが外れたことは自由度を大きく広げた。
市場経済と議会制民主主義という同じ枠の中で、自民党を批判し別の選択肢を示すことが可能となった。
そうなると広い意味での保守の中からも非自民の受け皿を提示する動きが始まった。
90年代前半の日本新党、新党さきがけ、新生党などがそうした動きの現われであった。
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自民党機会主義
細川政権の誕生により自民党という政党は権力という接着剤がなければ簡単に瓦解するもろいものであるという教訓を
彼らはいやというほど学び取った。主義主張や節操をかなぐり捨て常に権力を守るために行動する。
議員の地位を守るためにはどんな手段でも使うという機会主義がそれ以前よりも強力に根づいた。
初めて味わった野党の苦境から脱するために、自民党は社会党と手を組むことをいとわなかった。
そして、植民地支配や侵略戦争に対する反省、被爆者や従軍慰安婦など戦争被害者に対するある種の補償などを受け入れた。
しかし、自民党ハト派化は権力復帰のための偽装でしかなかった。
社会党という足かせが外れると自民党は90年代末以降右傾化を強め、小泉首相の靖国神社(公式)参拝を
大半の政治家が指示するまでに至った。
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マニュフェスト
マニュフェストという言葉はそもそもマルクスが「共産党宣言」で使ったことに示されるように、
何らかの世界観に基づく政治的な行動目標の宣言である。目指すべきよい社会とはどんなものかという基本的理念が
根底になければ、数値目標だの起源だのは無意味である。
仮にマニュフェストによる選挙が政党政治の基本ルールだというなら、
2005年の郵政解散こそ最もマニュフェストを軽視した選挙ということになる。
郵政民営化という単一争点で衆議院の絶対多数を獲得した自公連立政権は、その後、後期高齢者医療制度の導入
教育基本法改正、憲法改正のための国民投票法の制定など、国民に明示的に約束していない政策を次々と実現した。
これは国民にたいする詐欺である。しかし寡聞にしてマニュフェスト運動のリーダーから小泉批判を聞いたことはない。
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ポピュリズム
近代のポピュリズムは、平等化のベクトルに沿って動いてきた。
指導的政治家は庶民の代表あるいは化身であった。
19世紀から20世紀初頭にかけてのアメリカでは、大企業の横暴に対抗する農民運動が活発化した。
そのスローガンは「share our wealth」であった。これがポピュリズムであった。
これに対してグローバリゼーションと新自由主義の時代(=ポスト近代)のポピュリズムは
正反対のベクトルに沿って動いているように見える。
現在の日本ではグローバリゼーションがもたらす経済的不平等はなかなか政治的争点化せず、
ポピュリズムは富の再分配や平等化の要求とは結びつかなかった。
「公務員・正規雇用」対「非正規・低賃金労働者」「都市の無党派層」対「農民・建設業者」という
全体の貧富のスケールからみれば小さな差異が争点化される一方「ヒルズ族」と「エワーキングプア」の間に存在
するような巨視的な不平等は放置された。
小泉純一郎という政治家は、まさに自民党内の抵抗勢力や官僚など、次々と敵をあぶり出し、庶民を政治的に
興奮させ続けた点で、天才的なポピュリストであった。
指導的政治家と庶民の同質性はもはや消滅している。庶民の生活が次第に窮乏化する中で、
たとえば石原ファミリーのようにしばしばセレブリティの側に属するリーダーは、庶民の代表あるいは化身とはいえない。
-「政権交代論」(概略)山口二郎-