紙つぶて 細く永く

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弾丸金沢ver2

青春18切符で金沢行き。

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草津線所属のshinobitrainが停まってた 今日は忍びで湖西線

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天気は良かった

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比良付近 この辺りの琵琶湖からの朝日は美しく湖面に反射する

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少しずつ雪が舞い始め

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永原駅はすっかり津軽気分

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田も白い

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木々も雪をまとい

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地形からこの辺りは日本海からの冷気が琵琶湖にまで達する。そのため日本海側に降る雪の一部が滋賀県に侵入してくる。

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金沢に入っても雪

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金沢 駅そば「 加賀白山そば」白えびかき揚げうどんといなり2個の昼食

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今はクリスマスの飾りつけ

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京都駅8時15分 新快速敦賀行き3204M 敦賀9時50分
敦賀9時53分 普通福井行き237M 福井10時47分
福井11時13分 普通金沢行き337M 金沢12時42分
ここで昼食とお土産買物、雪でもあり駅構内散策
金沢14時30分 普通福井行き346M 福井15時58分
福井駅で時間があるので夕食の駅弁を買い、喫茶またお土産(羽二重餅が美味かった)

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ここにも似たようなクリスマス飾りつけ

福井16時46分 普通敦賀行き244M 敦賀17時35分
敦賀から未踏線小浜線

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敦賀17時44分 東舞鶴行き942M 東舞鶴19時38分
(この間1分 同じホーム向い側から発車)
舞鶴19時39分 綾部行き352M 綾部20時16分
(この間2分 同じホーム向い側から発車)
綾部20時18分 園部行き 園部21時17分
園部21時20分 京都行き 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

ある公立高等学校の変遷 資料2 高校三原則と進学率

京都府の高校三原則に関わった人達とその時代そして進学率を一覧にした

京都府知事 府教委委員長 府教育長 京都市長 学区制 京都府
進学率
全国
進学率
順位
木村惇
1947/4-1950/4
    神戸正雄
1947/4-1950/1
1947 新制高校発足 - -  
牧野虎次
1948/11-1949/10
天野利武
1948/11-1953/4
1948   - -  
1949 小学区改正 - -  
四方秀吉
1949/11-1950/10
- -  
1950 小学区改正 32.5 27.5 4
蜷川虎三
1950/4-1978/4
上田一夫
1950/11-1952/10
高山義三
1950/2-1966/2
1951   26.2 21.1 3
1952 小学区改正 - -  
山田俊三
1952/10-1953/9
- -  
1953   - -  
芦田重左衛門
1953/11-1956/9
細谷健治
1953/4-1958/1
  - -  
1954   19.5 17.2 5
1955 小学区改正 20.2 18.4 10
1956   22.0 19.5 7
小林英生
1956/10-1957/9
 
1957   16.9 15.3 11
芦田重左衛門
1957/10-1958/9
 
1958   15.8 15.8 17
小林英生
1958/10-1961/10
鈴木茂
1958/2-1960/4
 
1959   16.5 16.3 14
1960   16.0 16.5 15
谷口次郎
1960/4-1967/11
 
1961   17.3 17.2 12
原与作
1961/10-1962/4
 
1962   17.9 18.6 16
山田忠男
1962/4-1969/9
 
1963   19.1 20.1 17
1964   21.7 22.5 16
1965 小学区改正 24.3 24.5 12
1966   22.7 22.2 20
井上清
1966/2-1967/1
 
1967        
岡田実職務代理
1967/12-1969/7
富井清
1967/2-1971/2
  - -  
1968   22.9 22.2 16
有本武二
1969/10-1972/10
1969   23.8 22.3 17
仲島秀夫
1969/7-1971/8
 
1970   25.8 23.3 16
1971   29.1 25.7 12
大八木正治
1971/9-1975/3
船橋求己
1961/2-1981/7
 
1972   32.4 28.1 10
三島宗彦
1972/10-1975/8
 
1973   35.9 30.2 8
1974   37.5 31.2 7
山田忠男
1975/10-1976/10
1975 小学区改正 40.9 33.2 5
金子欣哉
1975/4-1976/3
乾昭三
1976/10-1979/10
1976   40.3 33.2 5
川本 邵
1976/4-1985/3
 
1977   41.4 33.4 5
1978   39.4 32.9 6
林田悠紀夫
1978/4-1986/4
 
大槻彌一郎
1979/10-1986/7
1979   38.9 32.1 5
 
1980   37.7 32.0 8
1981   36.8 31.5 8
今川正彦
1981/9-1988/8
 
1982   35.9 31.0 9
1983   34.9 29.7 8
1984   34.7 29.7 8
1985 バス停方式(注) 35.5 30.6 8
仲  勲
1985/4-1987/1
1986   36.1 30.4 8
荒巻禎一
1986/4-2002/4
谷口良三
1986/7-1988/7
 
1987   35.1 31.1 13
村上勝
1988/8-1991/10
西野是夫
1987/4-1992/4
 
1988   36.1 31.0 11
田辺朋之
1988/8-1996/1
 
1989   36.1 31.0 14
1990   33.8 30.6 13
1991   36.4 31.7 12
藤田一
1991/10-1994/7
 
1992   37.5 32.8 13
安原道夫
1992/4-1998/5
1993   39.8 34.6 12
1994   42.1 36.2 10
森田嘉一
1994/7-1999/12
 
1995   44.4 37.7 9
1996   45.8 39.1 7
藤田晢也
1999/12-2006/3
桝本頼兼
1996/1-2008/2
 
1997   48.4 40.8 5
武田盛冶
1998/6-2001/3
1998   51.8 42.6 4
 
1999   54.2 44.4 2
2000        

注)バス停方式 普通科1類への合格者が最寄りバス停名を申告、そのバス停単位で各高校入学者を割り振った。

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ある公立高等学校の変遷 資料1 多くが抱く誤解

京都の公立高校進学率について通学区に対する誤解は多い。
何人かの教師からも聞いたが、小学区制で通学区が変わる、すなわち地区によって大学進学率が変わっているのではないか?
という疑問だ。しかし数字を拾った結果は小学区で通学区の変化に連動するような進学数変化は(決定的では)なかった。
つまりA地区からの生徒が集まる年と、B地区からの生徒が集まる年では小学区である以上進学率に差はでない。これが東京の学校群制度のように同じ地区から例えば3校に生徒が割り振られるような形になれば、学力のある生徒も分散し進学者数も三分の一程度になる。

そこで一例として鴨沂高校について、資料が集まった1952年から1990年の京大合格者数と対応する通学区を掲載します。
鴨沂校章マークf:id:greengreengrass:20171227094756p:plainをクリックすると該当する年の通学区を開きます。
開いた通学区図は1年から3年生のそれぞれ異なるの通学区が混在する年には2図掲載しています。上が前回の通学区、下が該当年の通学区です。同一の場合は当年のみ掲載。
初年度1952年は通学区改正が1949年、1950年、1952年と行われたので3図となっている。

 

年度

京大合格者数

通学区

1952 調査できず
1953 42
1954 調査できず
1955 調査できず
1956 調査できず
1957 調査できず
1958 調査できず
1959 調査できず
1960 45
1961 調査できず
1962 32
1963 35
1964 31
1965 34
1966 20
1967 22
1968 22
1969 6
1970 26
1971 8
1972 8
1973 6
1974 8
1975 10
1976 8
1977 3
1978 9
1979 3
1980 6
1981 7
1982 7
1983 8
1984 4
1985 5
1986 0
1987 0
1988 2
1989 1
1990 1


同級生や多くの関係者から「凋落の原因」として通学区の変更を聞かされた。しかし一旦変更されたあと、次回の通学区変更時に元に戻るパターンでもなお低落していることもあり、通学区の変更と凋落の原因はむずびつかなかった。
 特にいわゆる「学校群」制度になってからはブランドとしての鴨沂高校の「人気」は凋落し、学力も進まなかったようだ。

公立校全般について考えるなら、人気私立高校の成績増進、長期勤務経験のある教師の移動(退職)、教育カリキュラムの変更、総体的な教育委員会としての注目度、大学進学率が変わらないとすれば難関校よりも一般校への入学増、国公立よりも校風の確立した私学へという流れ、これらの相乗効果で京都大学進学数が激減したのではないかと判断したいが、それにしてもこの数字は謎をはらむ・・

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REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

ある公立高等学校の変遷9 変節といってもいい変化

教育界の鴨沂高校にたいする評価は、「鴨沂高校、あっあそこは特別ですね」という学校歴史博物館学芸員の発言に代表される。

学校としての出自や歴史を鼻にかけることもしかり、また一方下記のような「民主教育」を通じて独特の校風を築いたこともあるのだろう。

「鴨沂」という校名は、鴨川のほとり(沂)というところから名付けられたときいたが、

新制高校として発足したときには既に京都府立第一女学校卒業生の会「鴨沂会」があった。

この名からつけられたのが正しいだろう。

IME漢字変換でもなかなか出てこない文字だ。

それでは前回までの進学率検討の一助として今回は、その鴨沂高校を舞台に、この時代を見てみよう。

「鴨沂の歩み」から紐解く教育

前回長時間対話したO先生は生徒部への配属ということだった。

私が高校生だったころ、まったくの惰性ノンポリクラブ一途生徒だったので、アセンブリーなどはよく欠席したもので自慢できないことであるが生徒部の先生から教育的指導も受けた。

鴨沂高校では入学の折には以下のような小冊子が配られた。

 鴨沂の教育(原文のまま) 

全国で数多くある高等学校の中で特に「自由の学園」として鴨沂高校は京都の人々だけでなく全国的にも有名です。

これは京都の高等学校が高等教育を行なう上で最も大切な「 高高三原則」を終戦後からずっと守って来たからです。

この「高校三原則」は「男女共学 制」・「小学区制」・「総合制」から成り立っており、現在この三原則が守られているのは全国でただ一つ京都だけです。

「男女共学制」とは言うまでもなく今までの小中学校の中で経験されてきたように男子と女子が共に学ぶことによって互いの価値を正しく認め合い、その特性を伸ばし、人間として互いに高めあって正しい人格を形成していくために必要な制度です。

「小学区制」とは皆さんが鴨沂高校に入学して来た様に一つの地域に一つの高校といったもので、その地域に住む生徒はその高校に進学するという制度です。

[大学区制」とは一地域にいくつかの高校があり、成績により学校が決まります。 そのため一流校、二流校といった学校差がつ きます。

例えば東京都では東大合格者が日比谷・小山台・九段等の有名校にかたまりその他の高校は全くありません。

 ここでは日比谷をのぞく学校が互いに補習授業をはじめとする色々な方策で東大の入学率をよくしようとして学校全体が競争し合う状態にあります。

そして高校教育が完全に大学入試のための予備教育となっています。

また、一流校に男子が集中するため自然に男女共学制も破壊されています。

 それに比較して京都は京大合格者がすべての高校に平均しており、他府県のように学校同志の競い合いがありません。

だからこれは一流校、二流校など各学校に格差をつけて進学本位とか就職本位とかの学校ができないために必要なのです。

「総合制」とは専門学校を特別につくらずに学校の中でそれぞれ自分の選択によって専門の授業が受けら れる様にした制度で、鴨沂にみるならば商業課と普通課が一緒にあることです。

 これは、高校が単なる大学の予備校になったり、また技術を身につける職業訓練所の様になるのを防ぎます。

またその高校に入った時からその人の将来が決められてしまうより、高校生と して三年間自分の特性を生かして自由に学んだ中で自分で自分の進路を決めていくようにするためにも重要なことです。

また、鴨沂高校では普通課と商業課の人が一緒になって授業、H・Rが行なえる様に流動講座制になっています。

 流動講座制というのは一科目の授業が終るごとに教室と講座人数が変るものです。

これは前記の「総合制」 に関連しています。

たとえ総合制が実施されていても講座が固定されていると普通課組と商業課組とが分裂してしまい、互いの間に対立心がおこるといった結果になります。

現に京都のある高校では講座制が行なわれていな いため普通課と商業課とが完全に学校内で分裂しており、普通課は進学一本、それに対応して商業課だけがクラブ活動をやっている様な状態になっています。

 この様なわけへだてのある教育では真の民主教育とはいえないし、 楽しい高校生活を送ることが出来ません。

しかしH・Rにおいて金曜日を除いては一日十分しか会う機会がないため名前も覚えられないといった風潮が見られますが、行事等を通じてここで普通課と商業課とのつながりが生まれるので、H.R運営は確実に行なっていかねばなりません。

また、鴨沂では自主的判断をやしなうため に他校にはみられない様な多くの行事や週一 回のAがあります。

 鴨沂における自主活動には、A、H・R、行事、クラブ活動などがあります。毎日学校にきても授業のみをうけていては高校生活の楽しさは味わえず、世にいう灰色の高校生活となってしまいます。

そしてものを考え、判断することができないましては自分の人生も考えられない人間になってしまいます。高校生活では勉強にはげみ、そしてそれと並行に自主的判断をやしなう必要があります。

人の意見をきき、思想を高めて自分の考え意見を発表することにより社会を 正しく批判できる人間にならねばなりません。

また、H・Rに参加することにより勉学を共にする友の他にまた別の友人を見いだせます。

H・R単位で行事などに参加するためH ・Rに出席しクラスメートとかたく団結する事により、H・Rを楽しぐ意義あるものにする事が必要です。

 またクラブ活動に参加することにより、上級生と交流でき個人ではできない亊を経験できます。

 以上のような自主活動は鴨沂高校の基盤となっていますから、これらに参加することは自治会員として当然の事になります。

 以上のべた自主活動を行う上において特に間違っている事に対してはそれに批判を加えた意見を訴えなくては前進がありません。

これらを行うのに特に鴨沂では「言論の自由」 が認められています。

A、H・Rをはじめ全校生徒に訴えたい時はビラを配るか銀座通りに掲示をしたりします。

 これが鴨折が「自由の学園」と言われるゆえんなのです。

 しかしこ れらの自由(権利)を行使すれば必ずそれに裏づけされる義務・責任を果さなければなり ません。

最近では「自由」のみを主張する傾 向があり、自由が利己主義・無責任といったものに変貌しつつ、自らの自由に制約を加えて来ています。

 「自由な学園」であるからこそ、自分の意見と行動に民主的な確立されたものがなくてはなりません。

 特に「言論の自由」においてはあくまでも基本的人権を重んじたもの、建設的なものでなくては、鴨沂の 「自由・自主制」を発展させていくことは出 来ません。

 破壊的・反動的なものは自主活動の前進につながりません。

また、服装の自由にしても勝手きままな物を着てもよい、というのではありません。

 あくまでも「高校生らし い」という事が基本になります。 鴨沂の「自由」には責任ある態度をもち、 それを社会に対して誇れる「自由」にしてい くことが我々の課題なのです。

多分生徒の文章だろう。
注)「A」はアセンブリーのこと。

「H・R」はホームルーム。ロングとショートのH・Rがありロングは週一回1時間、ショートは毎日10分

アセンブリーとは英語で「社交・宗教などの特別の目的の集会、会合、会議、小学校などの朝礼、集合(すること)、集まり、(米国のある州議会の)下院、立法議会」などの意味だ。

中村保雄先生の「鴨沂の歩み」 第一号の巻頭言

以下は鴨沂高校旧教職員の会という組織で鴨沂の教育を記録しようと発刊された「鴨沂の歩み」1号からの文章である。

 鴨沂の歩みーその在り方を中心に 中村保雄 鴨沂高校は、旧制の府立第一高女・第一中学・嵯峨野高女の三校が合併し、新制高校として昭和二十三年秋に発足した。これは進駐軍の指令により新制中学を充実させるためにとられた統合処置である。
そしてその制度は「地域制・男女共学制・総合制」だった。
 しかしそうであっても、とくに本校は発足当初からその運営を旧制高校がもつ自由の精神をかかげていた。そのため教職員は、自由な討論によって諸事を決定しようとする。
筆者はそうした空気が醸し出される発足当時より二年余をへた昭和二十五年暮に転勤してきたが、もちろんその職員会議の活発な討論、とくに学校長をまき込んで進められる様子は、今も忘れない。
したがってそうした空気は、ホームールームを中心とする生徒の教育にも引きつがれていた。
そしてそれは勉学にも及び、昭和二十年代後半までは大学進学率もよく。東の日比谷、西の鴨沂とまでいわれたのも、その現れであろう。
 ところで昭和三十年代に入ると、その様子は徐々に変化してきた。高校全入制運動の中で大学生が底辺層まで拡大してくると、発足当初の雰囲気も少しづつ失われてくるのも事実である。
そのため教員側が積極的な指導で運営しようとしても、なかなか進捗しないと いう悩み、いいかえると教員側の自信のなさにもつながってゆく。たしか全国的に三原則が崩れようとした二十年代後半と思うが、生徒部の責任者であったSSさんと教務部の筆者とが、他地方の高校教育の実情を調べにゆくことにした。それは東京都・名古屋市・ 大阪市の各数校に及ぶものである。しかしそこで得たものは、本校の教育の進め方に誤りのなかったことが確認できた。その自信と努力とは、筆者が退職する昭和五十五年頃まで引き継がれていたように思う。
 なお筆者が昭和四十七年から三年間、府の研究所に転じた時、所員の多くが京都府の教育の在り方を心配していた。そのため府立高校卒業生で、社会人となって府外で活躍している人たちに「府立高校で学んだ良さと悪さ」を中心に調査をしたことがある。ここではくわしく報告する紙数もないが、その回答の多くが社会に出て。他府県高校出身者に比べ て、京都の教育の良さがよくわかったというものである。この中には本校出身者も多く含まれていることはいうまでもない。
 さてこの度の本誌は、「鴨沂の歩み」を生徒と教師の証言でたどることを意図して編集したものである。編集に当たっては、鴨沂高校発足以来の生徒と教師の貴重な証言が多数掲載されている、『OUR SCHOOL OHKI』第十号(学園誌)・第十一号(生徒自治会誌)の特集から引用させていただいた。この点を明記するとともに、本誌を通して鴨沂高校の良さを再認識していただきたいと思う。

この中にでてくるSS先生は以下のSS先生です。
ちなみに中村保雄先生は数学担当でのちに校長になられた。また能面研究の権威でもありました。そちらの方が有名かも。「能面」

「鴨沂の歩み」第二号の巻頭言 上田正昭先生

続いて「鴨沂の歩み」2号から

自由と民主主義と人権と 鴨沂高校旧教職員の会 会長 上田正昭 

 鴨沂高等学校旧教職員の会は、毎年の秋に、懇親会を開催してまいりましたが、一九九三年の秋には、鴨沂高校の歴程を記録として共有すべく『鴨沂の歩みー生徒と教師の証言』 を編集して発行しました。多くの教職員や当時生徒であった方々から幸いにも好評をえてさらに創生期の記録もまとめるべきではないかという意見が寄せられました。

 一九九三年の秋の懇親会で、中村保雄先生のつぎの会長に、はからずも私か選ばれましたが、一九九四年十一月の懇親会のおりに、明年の戦後五十年の節目に、鴨沂高校発足のころ、すなわち鴨沂高校の創生期を中心にした記録を『鴨沂の歩みー生徒と教師の証言』 につづく冊子として発行することが、参会の皆さんのおおかたの意向となりました。

 当会の事務局長であるAT先生を中心に、編集の話し合いがたびたび問催され、①創 生期を中心とする生徒と教師の記録、②当時の生徒と教師の座談会、③「鴨沂新聞」からの採録、④新制高校確立期の教育および校内関係史・資料、⑤戦後教育史における昭和二 十年代の位置を内容とする記録を発行する運びとなりました。 この間多忙のなかを編集の実務にたずさわっていただいた関係者の方々に会の皆さん 共々、篤く御礼を申します。また依頼にこたえて、貴重な寄稿あるいは座談会参加を快諾された生徒・教師の方々に改めて感謝の意を表します。

 この記録の座談会の冒頭でも申しましたが、鴨所高校在職十三年間の想い出には、いまもなお忘れがたい数多くの出来事がありました。私見になりますが、自由とは何か、民主主義とは何か、人権とは何かを肌で学んだのは、鴨所高校在職のおりおりでした。たとえば私が鴨沂高校で最初で最後の担任であったクラスにいた在日朝鮮人生徒との出会い(そ の後は教務・生徒部・評議員などをつとめました)、部落生徒の実情に目を向けようとし た映画『部落』の制作など、韓国・朝鮮問題や部落問題を学んだのも、鴨折高校に在職していたからこそのありがたい教育実践でした。

 すばらしい多くの先生方とのまじわり、活動力・創造力にあふれた生徒の皆さんとの交 流、そのひとつひとつが懐かしく回想されます。

 旧教職員の会の方々も、それぞれに印象の深い鴨沂生活があったにちがいありません。 鴨沂高校創生期のありようは、新制高校の発足時と形成期の理念と現実を照射します。戦後教育史における昭和二十年代の位置とその意義をあざやかに浮きぼりにする作業となりましょう。この冊子がたんなる想い出の文集にとどまることなく、新制高校の過去と現在の探究に寄与する記録となることを期待します。

訃報:上田正昭さん88歳=京都大名誉教授、歴史学者 - 毎日新聞


「黒犬」という記号があったこと、そしてなるほどと感心したこともよく記憶している。部落問題研究会の略称「部落研=Black犬」か変化したのだ。
鴨沂高校アセンブリーでは本当によく被差別部落問題が取り上げられた。

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鴨沂高校外壁石垣

 

「高校教師は訴える」SS先生

黒犬と惰性ノンポリクラブ一途だった私にはほとんど接点はなかった。しかしよく教育的指導を受けたSS先生、そのSS先生の著書「高校教師は発言する」に以下当時の状況が書かれていた。

差別問題をめぐって  鴨沂では、昭和四十一年四月上旬差別ピラがまかれようとした。内容は言葉にできないほど極めて露骨な差別の内容をもったものであったが、この事件が生徒はもちろん、教職員の部落問題に対する意識の根底を洗いざらす生徒会活動となって発展した。
(中略)
 昭和四十二年一月に入って、三回の職員会議、三回の研修会をもって、差別ピラの本質を討論からやりなおす事で、教職員の意志統一をはかり、全校教職員、生徒の学習会を準備した。
一般生徒が十分討議できるように生徒全員を三九分科会にわけた。各分科会には各学年生徒普商生徒が平等になるような配置を実施した。各分科会は生徒司会者二名、記録者一名、教職 員二名(助手も含む)によって運営された。
 討論の質は、司会者によって大きく左右される。とくに、テーマに対する生徒の興味、認識の度合が低い場合には、司会者の影響力は大きい。
 各分科会二名、三九分科会で約八〇名近く の司会者集団を育てることは、簡単なものではなかった。
研究集会をめざして、同和教育研究会、生徒部、部落研、生徒自治会は全力をあげて連日、司会者集団の研究会、教師集団の協議をもって取り組んだ。
 当日、大量の欠席者が出た。一年七四名、二年一五八名、三年四一八名計六五四名という多数であった。三年生は約三分の二も討諭集会に不参加となったわけである。
特に三年の普通科 生徒の欠席が顕著であった。全員が欠席するというクラスが三つぐらいあった。
 部落について不十分な認識をもった教員がその上に立っているため、学校と生徒との間に大きな溝があったからであろう。往復運動にはならなかった。この結果、一部反発が生じ混乱が出てきた。この克服のためには生徒の身の回りの、生徒の居住する地域で現実に学び、それを教材として理論化していく作業が必要であった。
 ″橋のない川″などを休暇中の読書として課題に出すだけに終わって、各教科の内容として組みこまれていないというような弱点があった。しかし、教師の獲得した経験は大きかった。何回かの学習会の中で逃げたり、またごまかすことのできない立場に立たされ、回答をせまられるような経験は今までの鴨沂民主教育の中でなかったことである。助言者としての教職員と司会者としての生徒がともに学習した経験も初めてであった。今までの民主教育の限界を知ったことも大きな経験であった。教師一人一人が逃げることができないところでの思考行動、そこ から民主教育の内容は質的転換をするものである。 日常、多様化路線の中で選別されている商業科生徒の対応の姿勢は、普通科生徒よりも具体的であり、研究集会の欠席はごく少なく、つねに積極的に差別反対の主張をし、つねに解放の立場に立った。ときには涙を流して悔しがり、ときには全身ふるわせて怒りを表現し、ときには冷静に反論したことは注目すべきことであった。
普通科生徒が一般的にいって観念的理解者であり、部落に対して同情論を主張する者が多かった。
 一月三十一日、生徒三十数名參加のもとで、教職員会議が聞かれ、のべ五十数名の生徒が三時問あまりににわたって発言、教職員に各種問題につき訴えた。三年生は、期末試験、入学試験を目前に控えながら出席、冷静に発言、民主教育確立のため教職員の努力をうながした。
 教職員は、次の統一見解を全員一致で決定し今後の出発点した。
 本校における同和教育について 一月三十一日の教職員会識に多数の生徒諸君が出席し鴨沂の教育についてたくさんの問題を訴えました。わたしたちは検討の結果満場一致で次のことを決議しました。
  • 四月の差別ビラについては許すことのできない内容を持ったものであると考えます。これらのピラが本校でまかれたことは憲法、教育基本法を否定し民主教育に逆行する一部の社会風潮が学校内にあらわれたものであり、これに対処できる教育体 制が本校に不十分であったことを示しております。
  • 従来の講演、映画などの一方的な知識伝達のみでは生徒諸君の理解が十分得られ なかったことを反省します。
  • 部落研を始めとして差別のてっ廃のためにたたかっている生徒有志の自主活動に対しては、わたしたちはこれを支持し援助しなければならないと思います。
  • 教職員に出された部落研のアンケートにはわたしたちは回答すべき立場にあり、回答することこそ同和教育推進の一歩であると考えます。
  • 公開質剛状などのA先生問題は差別ピラに関する部落研のアンケートより発生したものであり、明らかに同和問題であります。公開質問状に回答することは生徒に対する教育の一部であって、当然答えることが正しいと認めます。
  -省略--‐‐
  • 生徒諸君から出された具体的な問題については、各関係者で直ちに方針を出して行きたいと思います。
  • わたしたちは生徒諸君の一人一人が差別をにくむとともにこれとたたかい、学校の中でももしまちがったことがあれば堂々とそれを取り上げてうったえることができる人になってもらいたいと思います。そうしてそのためにわたしたちと諸君が手を収り合って一体となって進んで行くことを決意しました。

当時校内にはなんだかまさしくこのような空気感が溢れていた。

その鴨沂が今回各先生に聞くと変化したようだ。他校は分からないが、少なくとも鴨沂高校は変化した。

頭書にあげたO先生は鴨沂高校生徒自治会会報「OurSchoolOHKI」の創刊を主導されたそうだ。

後年になるが1994年そのOurSchoolOHKIの記事で「学校」上映に関する事件が載っている。この件は毎日新聞でも取り上げられた。

 「京都・鴨沂高」毎日新聞記事  京郡府立鴨沂高校(京都市上京区、小谷嘉明校長) のPTAなどが企画した 山田洋次監督の文部省特選映画「学校」の上映・講演会をめぐり、小谷校長が「山田監督は今年四月の京都府知事選で革新候補を 応援した」という理由で、同校講堂の会場使用を断っていたことが、三十一日分かった。
映画上映は見送られ、 講演会だけ別会場で閧いたが、 関係者から「催しの内容も検討せず、施設借用を拒否したのはおかしい」と批判の声が上がっている。
 映画上映・講演会は、PTAとPTAOB会、前身の府立京都府一高女同窓会の三者が主催。 これまでも作家の水上勉氏の講演会を行うなど。年一回の恒例行事として実施してきた。
 関係者によると、 今年は一年生を対象にした山田監督の講演会と他の生徒やPTAらにも呼びかけた 「学校」上映会を五月二日に計画講堂の会場借用を学校側に申し入れた。
 ところが、小谷校長が四月中旬、知事選の話を持ち出し反対し、講堂使用を許可しなかった。 代替の広い会場を確保出来なかったため 上映会は中止・市内の別会場で同日、講演会だけ行った。
 山田監督は四月十日投開票の京都府知事選で落選した革新候補を推薦する団体のピラなどに推薦人として名前を連ねていた。
 小谷校長は「山田監督は政治的な主義主張を鮮明にしており、生徒に与える影響などを考えた」と話している。

参照 http://coboon.jp/memory.of.ouki/archives/author/memory-of-ouki/page/43

上記サイトに
「私もこの事件の時には他校にいましたが、そこでも演劇の団体鑑賞のパンフレットに山田洋次監督のコメントが掲載されていることを理由に生徒への配布を校長に止められました。

多分、校長一人の判断というよりも何らかの外部からの圧力があったのだとその時は感じました。」
との投稿がある。

件の校長は上部組織からの指示で講堂使用の許可をしなかったのだろう。

昔はこういうのを日和見といった。

一応理由は「政治的な主義主張を鮮明」とのことだが、とってつけたような理由だ。

まさしく校長自身が以下の文章などへの理解力があるのかが問われる。

文科省HP[高等学校教育の目的・目標]
  • 義務教育として行われる普通教育の成果を更に発展させて、豊かな人間性、創造性及び健やかな身体を養い、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと
  • 社会において果たさなければならない使命の自覚に基づき、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な知識、技術及び技能を習得させること
  • 個性の確立に努めるとともに、社会について広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと


以上鴨沂高校でもそうであったように、各高校では義務教育とは異なり一種の自由への芽生えを自覚した教育が往年行われた。

私的には近年この自由への芽生えを摘み取るような教育が行われている気がしてならない。

「制服」はまさしく管理者としての学校側の立場からの「制限」なのではないか。

私服よりもコストは安くなるみたいな弥縫策的いいわけはともかく、自覚を促さず十把一絡げにまとめる方向への圧力が強い。

その結果おとなしくいいなりになる、「個性の確立に努めるとともに、社会について広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する」人材を育てるという教育的だいご味に乏しい高校制度になっているのではないか。

 結局1970年ころになにがあったかは分からない。

しかし上記に見るように「高校」は変わった。

その変化が「大学進学率」や「京都大学合格者数」に影響したのかもわからない。

 鴨沂高校旧教職員の会は3年ほど前から親睦を中心とした部分を除き、休止となっている。

会員の先生も高齢となり、新しく加入する教員がいないそうだ。

 いわば「鴨沂」名付け親の京都府立第一高等女学校を1.0とするなら1970年ころが鴨沂高校2.0、そしてそれ以降特に制服採用以降は鴨沂高校3.0と校舎とともに変節した。

 京都では小学区制だからこその縁か、三代にわたり同じ高校という家族も多い。

往年はそうだったし、近年はこうなっている。

その中でも教育目標は変わっていなかった。

「鴨沂高校の教育目標」 世界の平和を希望し、すべての人々が幸福になりうる社会を目ざして、事実に基づいて真理を追究し、それに従って実践しようと努力する人間をつくる。
  1. 自発的・積極的に学習し、基礎学力を培い、かつ思考力を養成する。
  2. 自治的活動に進んで参加し、相互の人格を尊重し、正しい方法で討論して、その結果に基づき、責任を持って行動する習慣を養う。
  3. 現実社会に関する関心を高め、批判的精神を養成する。
  4. 勤労の誇りと喜びをもち、社会的活動に耐えるような体力を増進する。
  5. 芸術的関心を深め、豊かな情操を養う。
  6. 人間の尊厳という観点から、基本的人権についての科学的な認識を培う。

2014年から京都市と乙訓地域の通学区が1本になった。21校の公立高校の中から志望校を選択できる。

教師・教育制度・生徒どれも万全の結果をだしたい。

その覚悟が行政・教師・生徒それぞれにあるか、きっとそれが問われるのだ。
その高校に毎年新入生は入ってくる、未来に希望はある。

京都主要高校1950年から2009年の
東京大学への入学者総数
洛南高校 984
洛星高校 877
京都教育大付属 79
同志社高校 53
福知山高校 43
東舞鶴高校 42
綾部高校 38
堀川高校 36
鴨沂高校 34
洛北高校 33
西舞鶴高校 31
京都共栄学園 29
紫野高校 27
桃山高校 20
山城高校 19
宮津高校 15
朱雀高校 14
嵯峨野高校 12
乙訓高校 11
立命館高校 11
西京高校 9
京都成章高校 8
日吉ヶ丘高校 8
洛東高校 7
京都女子高校 6
洛陽高校 5
西乙訓高校 4
向陽高校 4
東山高校 4
ノートルダム女学院 4
莵道高校 3
塔南高校 3
峰山高校 3
伏見高校 3
亀岡高校 3
出典:東大合格高校盛衰史 光文社新書

 新生鴨沂高校図面

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京都府教育委員会HPより



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REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

ある公立高等学校の変遷8 1970年になにがあったか

1970年に何があったか

前回まで京都市の公立高校13校と東京日比谷高校の歴史を眺めた。そして1960年代と1970年代の間で京都大学進学率の大きな下落が見えてきた。

京都大学合格者(サンデー毎日その他より集計) 東大合格
  鴨沂 洛東 洛北 紫野 堀川 嵯峨野 桃山 山城 朱雀 日吉ヶ丘 乙訓 塔南 日比谷
1965 34 10 22 33   20 20 15 20 15 5     181
1966 20 5 37 31 20 20 15 15 15 20 15   11 128
1967 22 11 26 37 15 19 14   16 15 10     134
1968 22 11 28 43 15 19   18 14 20 9 9 20 131
1969 6 13 14 31 14 15 13 5 7 6 6 7 6 中止
小計 247 50 288 347 64 93 89 53 72 76 45 16 37 1425
1970 26 10 20 31 15 10 9 10 10 14 10 6 10 99
1971 8 7 14 18 9 20 6 6 6 9 5 12   57
1972 8 7 11 17 9 13 7   8     5 5 52
1973 6 5 10 15 10       8 5 10 8 6 29
1974 8 3 15 13 5 9 5 5 10 7 12 10 9 27
1975 10 3 4 19 7 11 5 2 8 5 7 7 7 16
1976 8 2 11 8 8 9 4 7 7 5 3 13 8 17
1977 3 5 9 11 2 7 2 2 4 9 4 10   14
1978 9 3 8 15 9 9 2       3 7   14
1979 3 4 14 9 3   4 2 6 4 2 6 2 18
小計 89 49 116 156 77 88 44 34 67 58 56 84 47 343
1980 6    2                1  1   10
1981 7   7 3 4 5 3 2 5 4   9 2 4
1982 7   6 5 2 4   2 2     4 2 5
1983 8   2 7 3 4       2   4   5
1984 4   2 1   4 2   4     3   6
1985 5   3                 3    
1986     5   7   2       6 2   10
1987     3     5     2 3       10
1988 2 2 4 6   1 2 1   1 1 5   10
1989 1   1 3   1   3 2   1 2 1 11
1990 1   2 3 1 5 2 1 1 2 1 2 1 8
1991 1 1 5 3   1 1 1 2   1     7
1992     2 4   1 3 2 2 2 2   1 8

1970年頃になにがあったのか・・。
まず教育界の話題では、

  • 学習指導要領の数次にわたる改訂・系統重視(1958年) ・教育の現代化(1968年)
  • 高等専門学校制度の創設(1962年)
  • 短期大学の恒久化(1964年)
  • 私立大学に対する経常費助成の制度化(1970年)
  • 教員給与改善(人確法)(1974年)
  • 主任制の導入(1976年)
  • 学習指導要領の改訂(1977年 ゆとりと充実:教育内容の精選と授業時数の削減)
  • 40人学級の実現(1980年)
  • 京都では1965年と1975年に通学区の改定が行われている。

世上を騒がせた「ゆとり教育」は1977年からで少し時期がずれる。
京都市内で1955年から適用された高校通学区 

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1955年からの京都市通学区

次に1965年以下のように通学区が改定された。

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1965年からの京都市通学区

1975年からは以下に変わった。1970年は丁度この間にあたる。

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1975年からの京都市高校通学区

1975年に京都市立向陽高等学校が新設され各校とも前回以上に通学区の変更は大きかった。とはいえ少なくとも公立13校+新設1校を見た場合エリア全体の変動はない。その中で鴨沂高校と洛北高校の間でエリアが入れ替わったことが目に付く。もちろんこのような学校間の移動はある。しかし1975年に入学した生徒が大学受験を迎えるのは1978年となる。そのため時代経緯を見ると、この1965年から1980年の間に学校間通学区の差が下記のように最大8割にも上る多大な影響を4校に及ぼしたとも考えにくい。

公立4校+私学2校について
1970年以前と比較した
1970年以後の京大合格者比率
日比谷高校は東大合格者数での比較
鴨沂 18.0%
洛北 20.1%
紫野 22.5%
桃山 24.7%
洛星+洛南 98.95%
日比谷 23.9%


視点を変える。
1970年頃の話題には事欠かない。
社会面、映画では、「イージーライダー」日本公開は1970年、同じこの年には「いちご白書」も公開されていた。
 またアメリカンニューシネマ代表作の「卒業」が1968年日本公開。そして同年「2001年宇宙の旅」公開
1968年日本初の心臓移植(和田心臓移植事件)
「プラハの春」ソ連のチェコ侵入が1968年、
1969年南ベトナム共和国臨時革命政府樹立そしてアメリカの敗北。
同じく連続射殺事件永山則夫逮捕。
1969年東大入試中止
1970年国産初の人工衛星おおすみ打ち上げ。世界で4番目の人工衛星打上げ国となった。
同年三島由紀夫が極東国際軍事裁判法廷となった自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺
1971年成田闘争最盛期
1972年あさま山荘事件
社会的にはこのあたりの時代だ。


そもそも高校教師の1校当たり勤務年数と進学実績が絡むものか否かもわからないし時代背景に関係するのか、そのあたりの教育技術的側面を聞いてみようとまず母校を訪れた。
おもえば多くの卒業生の中でさしたる「錦を掲げ」たこともない私が大きな顔をして、母校の教師に教育成果を聞きただすということはいまから思うとまったくの赤面ものであった。
 そんな中、私の疑問について丁寧に説明をいただき小冊子までいただいた。
しかし残念ながら当然そんな解決法はなかった、疑問は氷解しなかった。

訪れた母校は何の変哲もない都市の中にある並みの一高校に変節していた。
まず制服に変わっていた。
また校地も、現時点では異なる場所にある。
伝統ある京都府立第一高等女学校から引き継がれた校舎の耐震修理工事で、旧成安女子高校跡地に仮移転している。
校舎も四分の一程度は耐震補強され残るようだ。1936年建築から長く使われ、くぼんだ階段の框は、裏返して使うそうだ。
しかし、それでも「強度不足」ということで、雨の日の練習で廊下を走りまわった旧校舎の四分の三つまり大半は解体された。

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卒業生から寄付された絵画や美術品も帰ってくる、旧講堂や九条家の門はほぼそのままの形で残る。ウィーンの杜は整備されて残っていない。地下食堂が旧図書館に移転する。校地の狭さは相変わらずであるが、1970年以前の面影は建物からほぼなくなりそうである。
2018年夏には耐震工事に合わせた改築も終わり、元の地に移転するそうである。

 

勤務年数と教育の質

東京都立日比谷高等学校については、1968年学校群制度が導入され、そして東京都教育委員会により同じ学校に15年以上継続勤務の教師の移動が行われその結果、教育三要素のうちの「教師」「生徒」におおきな変化が起こった。そのため日比谷高校では東大進学数は激減し、1970年前に比べ70年後は一年換算で23.9%と大きく下がることとなった。
 上に述べたように京都市では1965年と1975年に通学区の若干の変更があったのだが、では教師の在籍年数はどうだろうか。
鴨沂高校において1965年時点で15年近い在籍教師の履歴を拾い出した。
MN先生 国語 21年 1950年-1971年
JI先生 化学 21年 1950年-1971年
TN先生 数学 21年 1950年-1971年(洛北高校 転勤)
MI先生 商業 24年 1950年-1974年
KT先生 数学 24年 1950年-1974年
TS先生 音楽 20年 1950年-1970年
JN先生 美術 20年 1950年-1970年
SA先生 英語 23年 1950年-1973年
YM先生 英語 24年 1950年-1974年
AS先生 体育 24年 1950年-1974年
KN先生 商業 22年 1950年-1972年(桃山高校 転勤)
NS先生 理科 24年 1950年-1974年
TI先生 英語 24年 1950年-1974年
YN先生 数学 21年 1951年-1972年(教育研究所 転勤)
YK先生 商業 19年 1951年-1970年(京都学園大学 転勤)
RK先生 理科 23年 1951年-1974年
SS先生 数学 17年 1951年-1968年
SU先生 社会 17年 1951年-1968年(京都大学 転勤)
TN先生 家庭 23年 1951年-1974年
SK先生 体育 18年 1956年-1974年

計20名
1965年当時の在籍教師は75名であるから26.7% 長期在籍者が多いとは思うが、もちろん日比谷の45.6%よりは少なく、かつその多くは半強制的異動ではなく、定年や自己都合による退職をされている。
そこで教師としての経験年数と教育指導の関連資料を探した。

といったが教師の1校当たりの勤務年数なんてどこにもそのような統計を取っているところはない。それどころか教師の生涯勤務年数すら満足に取られていない。
教師の勤務年数は集計するに価するものではないらしい。わずかに以下の資料をみつけた。

「我が国の教育水準」(文科省1971年度調査資料)教員は、その勤務年数との関連において何校くらいの勤務校(最初の赴任校を含む)を経験しているであろうか。
その実態を公立小・中学校,公・私立高等学校,国・私立大学について見ると下図(3-19)のとおりである。
 これによると、国立大学を除いて、各学校種類とも勤務年数が長くなるにつれて勤務校数も多くなり、また、教育段階が高くなるほど勤務校数は少なくなっていることなどが知られる。
勤務年数26~30年の教員の平均勤務校数を比較すると、公立小・中学校5.2校で最も多く、次いで公立高等学校3.4校、私立高等学校2.4校、国立大学1.8校である。

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この調査では26年以上勤務の場合、公立高校では3.4校となっている。平均すると1校当たり8年というところだろうか。

またBlogで、神奈川県では以下のように最長12年との規定という記載もある。

最近では「行政」への異動や他校種(小学校や中学校)への異動も勧奨されるようになり、不安は大きくなるばかりです。1校の勤続年数も4・5年ほど前までは最長15年でしたから、一旦進学校などに勤務すると満期が来るまで居座り続けるのは常識でした。それが12年になったときには、大量の人が異動を余儀なくされたものです。反対に底辺校で8年以上も勤務する人は少なく、平均4・5年で異動をしていたのです。ところが、上が12年になったのに合わせるように、下も8年と期間が延長されたので(上で述べましたが)、すでに底辺校を4・5年で出た人にも再度底辺校への転勤の可能性が出てきてしまったのです。

教員の転勤の実態(その1)


 その後勤務年数と教育の方法について、当時を知る先生にあってみた。その方法は・・

鴨沂高等学校には「旧教職員の会」という組織があった。鴨沂高校を最後として退職された先生を中心にした親睦会のようなものだ。

そして会報を出されている。

その会報「鴨沂のあゆみ」は2010年に4号合本となった。

その事務局をされていたS先生とO先生に話が聞けた。

S先生は鴨沂高校に在籍された時期が遅く問題の1970年ころは他校に在籍されていた。

O先生はまさしく1970年ころからの在籍であった。

O先生とは長く話せた。「私はその問題についての資料を持ち合わせていません」という一言を最初に述べられて、O先生と論は進んだ。

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REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

 

日本の鉄道はこのままでいいのだろうか 番外 初乗り運賃

線路は続く 目次

線路は続く7 鉄道相互乗り入れ初乗り運賃について

鉄道路線は続くことを考えると相互乗り入れ路線は当然一本の線路である。
異なる路線に入り込むのだが、乗客の立場にたてば同じ車両に乗り続けているのでまさしく一つの線路を走っている感覚だ。
 たとえば京都宇治市の大久保駅から近鉄電車に乗るとする。目指すは(JR)京都駅だ。
 近鉄京都線、大久保駅で京都駅までの切符300円を購入し、ホームで待っていると列車が入ってきた、列車に乗る。
ここで同じ京都駅に行くにも車内放送に注意しないと運賃が異なることになる。途中の竹田駅から地下鉄線経由で(地下鉄)京都駅まで行く場合と、近鉄京都線で(近鉄)京都駅まで行く場合で運賃が大きく異なる。
ややこしいことに(地下鉄)京都駅も(近鉄)京都駅も(JR)京都駅の地下と地上2階の関係だ。

 

あなたが乗ったのが、上の近鉄マルーン色なら運賃は300円で京都駅に行くかも。

 

しかしステンレスに上の緑の帯の列車なら間違いなく、京都駅まで運賃は520円。

ところがさらに困ったことに上記近鉄マルーンは京都市営地下鉄に乗り入れている列車もある。それに乗れば竹田駅から分かれて静かに地下鉄線路に入って行く。京都で降りると残念ながら買った切符で不足運賃を請求される。
不足運賃はいくらでしょうか・・
大久保-(地下鉄)京都駅間は520円だから520円マイナス300円で差額220円というのは不正解、正しくは260円です。
近鉄電車の運賃300円は近鉄の路線でのみ有効となり、近鉄大久保から竹田間の運賃は260円であり残り40円は生かされない。

 

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大久保からJR京都駅まで300円で行こうと思っていたのに、結果560円支払うことになる。ああ1.86倍かかってしまった。

かなりの相互乗り入れ路線で初乗り運賃割引を実施されているが、京都市営地下鉄と近鉄間では割引を適用しない方針だ。相互乗り入れ区間の初乗り運賃加算自体についての批判もある。

乗り継ぎ時の「初乗り運賃」加算はおかしい | 通勤電車 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

市バス相互や市バス京都バス乗り継ぎも割引されるようになったくらいだから、京都市交通局・近鉄両社にはぜひ一考を促したい。
というかゾーン制等根本的に列車運賃を考え直すべきだ。

 

線路は続く 目次

2020・21年発表JR各社の決算比較

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/g/greengreengrass/20210729/20210729102747.png

各社2021年運輸収入数字後は2020年比
  • JR北海道 
    2020年3月発表決算
    運輸収入「875億円」:赤字「▲521億円
    2021年3月発表決算
    運輸収入「510億円」58.3%:赤字「▲814億円
  • JR四国
    2020年3月発表決算
    運輸収入「260億円」:赤字「▲136億円
    2021年3月発表決算
    運輸収入「146億円」56.2%:赤字「▲231億円
  • JR東海
    2020年3月発表決算
    運輸収入「1兆4222億円」:鉄道部門利益額「6167億3300万円」
    2021年3月発表決算
    運輸収入「5274億円」37.1%:鉄道部門利益額「▲1819億9600万円
  • JR東日本
    2020年3月発表決算
    運輸収入「1兆9692億円」:鉄道部門利益額「2540億9500万円」
    2021年3月発表決算
    運輸収入「9543億円」48.5%:鉄道部門利益額「▲6508億2700万円
  • JR西日本
    2020年3月発表決算
    運輸収入「9318億円」:鉄道部門利益額「1054億1200万円」
    2021年3月発表決算
    運輸収入「4807億円」51.6%:鉄道部門利益額「▲2476億3400万円
  • JR九州
    2020年3月発表決算
    運輸収入「1652億円」:鉄道部門利益額「200億8900万円」
    2021年3月発表決算
    運輸収入「897億円」54.3%:鉄道部門利益額「▲366億1000万円
  • JR貨物
    2020年3月発表決算
    運輸収入「1429億円」:鉄道部門利益額「85億500万円」
    JR貨物
    2021年3月発表決算
    運輸収入「1336億円」93.5%:鉄道部門利益額「▲90億6400万円
  • 2020年7社
    運輸収入合計 4兆7680億37百万円
  • 2021年7社
    運輸収入合計 2兆2515億28百万円  47.2%
    営業損益合計 ▲1兆2306億25百万円

ある公立高等学校の変遷7 東京都日比谷高校

東京都・日比谷高校の場合

1968年以前の東京都立日比谷高等学校の通学区は第一学区で東京都千代田区・港区・品川区・大田区が通学エリアだった。この学区内には「日比谷高校」「九段高校」「一橋高校」「城南高校」「三田高校」「赤坂高校」「小山台高校」「八潮高校」「大崎高校」「大森高校」「雪谷高校」「田園調布高校」そして67年創立の「羽田高等学校」の13校があった。
 1952年からの制度は合同選抜制といわれ、同一学区内の12高校は合同して選抜を行い、学区全体の募集人数分の合格者(学区合格者)を決定。
その中から、合格者の希望にしたがって各学校の合格者が決定された。 具体的には、受験生は第一志望校と、第二志望校を書いて出願し、第一志望校で受験、その後合格発表。
合格発表は同時に学区合格者も発表され、その学区合格者は定員に達していない学校の中から第二志望校を順位をつけて三校まで記入し、本来の第一志望校に出願した。その結果を受けて各中学校から第二志望の受け入れ先が発表された。
1959年を例にあげると日比谷高校の募集定員は男300人、女100人つまり成績上位男300人以内、女100人以内であれば希望の高校・日比谷高校に行くことができるが、それ以下であれば第二希望以下の学校ということになった。

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1968年以前の日比谷高校の通学区

 

そして1968年から東京都は学校群制度を打ち出した。
日比谷高校は第一学区の中で、日比谷・三田・九段高校と第一群を構成した。その結果第一学区第一群(第11群という)の高校学力試験合格者は成績順に上記3校に振り分けられた。(13校のうちの一橋高校は忍岡、竹台高校、3校と第91群を構成し、第一学区・第五学区双方から受験可能となった)
 以下が1968年からの日比谷高校の学校群制度通学区。

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第一学区学校群を下記色で分類

 

第11群

 

第12群

 

第13群

 

第14群

 

第15群

(この図はご指摘いただき修正しました。2020-1)

この学校群制度では個別学校ではなく群単位で希望を提出、その群全体としての募集定員の合格者を出す。そして構成する学校数、例えば第11群なら3校、第13群なら2校に成績順で割り振ってゆく。
群の中の高校は毎年、その順位を変える。今年がA・B・C校の順であれば翌年はB・C・A校という順位となり、各高校が均等に成績順位による入学生の受け入れとなるように行われた。
しかしここで指摘されるのは日比谷高校が3校による群の構成となったこと。2校構成の群と3校構成の群では合格者を二分の一にするか三分の一にするか大きく異なってくる。その結果第11群では希望の学校に行けるのは3割強の確率となった。
 また東京都は学校群制度発足を機に、都立高校教職員の異動を大量に行う方針を打ち出し た。日比谷や戸山など都立高校進学校に偏って東大合格者が多いからという理由だった。
東大合格者が多いのは、生徒ばかりでなく教員も優れていたという理由付けでもある。進学校での長年の経験と蓄積から独自の受験指導ノウハウを確立 して、東大入試のプロとなったのだ。
 都は彼らを他校に移して、学校間格差解消をはかろうとした。
 1967年3月以下の高校では16年以上勤務する教員数とその割合は以下になる。
(全日制 文部省調査 資料は「東大合格高校盛衰史」小林哲夫 より)

  • 日比谷高23人(45.6%)
  • 西高20人(44.7%)
  • 戸山高22人(45.7%)
  • 新宿高25人(44.1%)
  • 石川高20人(43.8%)

そして日比谷高・西高・戸山高・新宿高にとってはこの教職員の移動と上記のように学校群制度によって、以前に比べ成績上位層の三分の一(ないし二分の一)しか受け入れられなくなったことを合わせ進学に大きく影響を及ぼした。一連の制度改正はいわゆる「日比谷潰し」といわれている。

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REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

QGIS電子地図操作 第7回 wikiからGoogleEarthそしてGIS

QGISで地図を作成する途中、国土数値情報に希望するファイルがない時がある。たとえば古い施設で現在廃校となっている学校のような例だ。今回は東京都立九段高等学校を探し出した。
wikipedhiaで調べると2008年度で閉校したとある。同じWikipediaの記事中に北緯東経の緯度経度情報下記が記載されていた。

f:id:greengreengrass:20171209103204p:plain

Wikipedia九段高校

この情報をクリックすると「GeoHack」ページに飛ぶ。そこでGoogleEarthアイコンをクリックするとGoogleEarthが開き上記の施設がGoogleEarth地図上に表示される。

f:id:greengreengrass:20171209104037p:plain
今回の例ではなぜかレイヤー名が文字化けをしている。
このままQGISに読み込むと九段高校のName欄が同じように文字化けをしているので「ラベル表示」をしても文字化けで読めない。
QGIS側で属性テーブルの編集や、新しい「フィールド」の追加で正しい名前を入れる等やってみたがなぜか編集すらできなかった。窮余の策でこの文字化け部分を書き換えてみた。

f:id:greengreengrass:20171209105109p:plain
そしてこのレイヤーを「名前をつけて保存」しQGISに読み込んだ。

f:id:greengreengrass:20171209105524p:plain
無事「Name」が変わっていた。
wikiからGoogleEarthそしてQGISの連携でこのような作業ができる。

 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

国営放送

やはりそう出たか、というのが感想です。
一切NHKは見ませんというかたの言い分ももちろんあるが、百歩譲って「契約」として考えると、

  • 毎日最低ニュース報道番組のみ見ますという視聴者と、
  • 朝ドラから演歌番組、ブラタモリやBS世界の鉄道、日本風土記、まんぷく農家メシ等多くの番組を楽しみ、時間が重なるときは録画してめいっぱい見ています、

という視聴者が同じ受信料ておかしくない?
わかり易く説明すると、

  • 月間30時間しか見ない視聴者と、
  • 月間180時間見る視聴者

が同じ契約料金て成り立つわけはない・・こんな論理が納得されるわけはない。
 ここでNHKは社会保険の論理を出してくる。社会保険は強制的に毎月一定額を負担しているでしょうという論理だ。医者に掛かろうとかかるまいと。
ところがどっこい社会保険は医療を受ける際には、万全の安心感がある。最高の医療を受けられるという期待がある。お宅の放送はどうなの、忖度のない最高の放送が提供できるの・・?
またテレビという機械は民間放送を見るためにも必需な機会なのである。
最高裁の判決によると、テレビを買った時からNHKとの受信契約が発効する可能性もあるということだ。それならば主に民間放送を見るためにこの機械をかったという理由から受信料の中から民間放送にも「支払われる」ことが筋道ではないか。それもかなりの割合で・・
だれかが、「この判決によりNHKは大きな足かせを履かせられた。国民の知る権利を十二分に果たすための番組作りをしていかなければならなくなったからだ」
といっていたが、まあそのような番組を期待しても希望薄だね。
あいかわらず、忖度報道、、民放に負けじと教養の落とし合いをする番組作りなのじゃないかなあ。
 これを機に民放ではできない「国民の知る権利を果たす」番組のみを制作する様に心を改めます、といってもまだ信じられないなあ。

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私はNHKよりも、CNNやBBC、朝日新聞東京新聞、Youtubeの報道を信用する。(多くの海外メディアはwebで日本語版を流している)
しかも、やめたければ止められる、無視するなら無視できる、又は無料だし・・
でもNHKは番組なんか無視しても支払ってと追っかけてくるんだろうなあ。

以下追記

疑問1 
携帯電話でみるワンセグはもちろん、車のテレビ付きナビも契約の対象になる。だれがそこまで探すねん。これらも自主申告になるのだろう。
疑問2 
例えば親子孫の3世代の家庭があるとする、そして旧来から親が契約をしているので、3世代がその1契約をもとにテレビ視聴を行っていた。
ところが契約をしていた親が亡くなった、しかし切り替えが面倒で契約はそのまま子が受信料を支払い続けた。こんな例の場合、契約名義と実際の視聴者名が異なることになる。NHK受信料委託収集業者(正式名?)は表札をみて、この家は支払っているか確認するのだろうから、ピンポンとチャイムを押されることになるんだろう。

だから、スクランブル放送にすればいいんだ。
それが無理なら課金制にする、見た番組だけに値する受信料を支払う。たとえば携帯電話が、話した時間分の電話代を翌月支払うように、見た番組に相当する受信料を集計し支払う。
大河ドラマは1放送50p、連続ドラマは1放送10p、ニュースは1放送15p、ブラタモリは1放送200p、ふるさと歌祭りは1放送1p、世界の鉄道は1放送50pテレビ体操は1放送50p、日本風土記は1放送200pてな具合だ。
システム的には可能だ。きっとそうなれば全く視聴されない番組なんかもでてくるのだろう。けっこうNHKにとっては励みになるかも。

 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

ある公立高等学校の変遷6 進学率から見えるもの

前回は1950-1995年の都道府県別進学率を見た。全体でいうならば京都府の教育は進学率という面では高い成果が見られた。
次にはより細かく、主要高校の大学進学率について見てみる。下記に資料が入手できた1965年以降の各高校京都大学合格者を掲載した。この年代の資料を見るので新しい新設高を除いた京都市内の主要13高校を取り上げた。
参考資料として「東京都立日比谷高校」の東京大学合格者数も併載した。

京都大学合格者(サンデー毎日その他より集計)東大合格

京都大学合格者(サンデー毎日その他より集計) 東大合格
  鴨沂 洛東 洛北 紫野 堀川 嵯峨野 桃山 山城 朱雀 日吉ヶ丘 乙訓 塔南 日比谷
1965 34 10 22 33   20 20 15 20 15 5     181
1966 20 5 37 31 20 20 15 15 15 20 15   11 128
1967 22 11 26 37 15 19 14   16 15 10     134
1968 22 11 28 43 15 19   18 14 20 9 9 20 131
1969 6 13 14 31 14 15 13 5 7 6 6 7 6 中止
小計 247 50 288 347 64 93 89 53 72 76 45 16 37 1425
1970 26 10 20 31 15 10 9 10 10 14 10 6 10 99
1971 8 7 14 18 9 20 6 6 6 9 5 12   57
1972 8 7 11 17 9 13 7   8     5 5 52
1973 6 5 10 15 10       8 5 10 8 6 29
1974 8 3 15 13 5 9 5 5 10 7 12 10 9 27
1975 10 3 4 19 7 11 5 2 8 5 7 7 7 16
1976 8 2 11 8 8 9 4 7 7 5 3 13 8 17
1977 3 5 9 11 2 7 2 2 4 9 4 10   14
1978 9 3 8 15 9 9 2       3 7   14
1979 3 4 14 9 3   4 2 6 4 2 6 2 18
小計 89 49 116 156 77 88 44 34 67 58 56 84 47 343
1980 6    2                1  1   10
1981 7   7 3 4 5 3 2 5 4   9 2 4
1982 7   6 5 2 4   2 2     4 2 5
1983 8   2 7 3 4       2   4   5
1984 4   2 1   4 2   4     3   6
1985 5   3                 3    
1986     5   7   2       6 2   10
1987     3     5     2 3       10
1988 2 2 4 6   1 2 1   1 1 5   10
1989 1   1 3   1   3 2   1 2 1 11
1990 1   2 3 1 5 2 1 1 2 1 2 1 8
1991 1 1 5 3   1 1 1 2   1     7
1992     2 4   1 3 2 2 2 2   1 8

 

 


この結果から上記公立高校は京都大学入学者数で長期低落傾向にあることは否めない事実である。
 このことについて多数の説明では進学に特化した私学がこの時期以降勢いを増したということを指摘される。
そしてまた上の表から読み取れる大きな特徴としては、1970年を境に公立高校の京都大学合格者数が激減していることが上げられる。
資料の整っている期間(1965年-1979年)の上記13校京都大学合格者数移動平均を求めると以下になる。

京都大学合格者
  公立13校 洛星+洛南
1965 199 63
1966 214 68
1967 207 70
1968 220 72
1969 193 62
1970 189 62
1971 150 62
1972 132 68
1973 101 63
1974 99 61
1975 101 58
1976 104 63
1977 88 69
1978 78 75
1979 69 83
3年間の移動平均

1970年といえばすでに団塊の世代が高校卒業を終えている頃になる。

社会的には「70年安保闘争」があり、そのあおりで1969年東大入試が中止となった。

しかし京都で東京大学についていえば他府県への進学・下宿住まいというハードルもあることから、かねてから地元にあるゆえに京都大学への指向が高いのでこの影響も少ない。

制度上の面から変化を考えるなら、1963年に京都市立塔南高等学校が創立され京都市教育委員会は独自に京都市立高校の単独制移行を実施、特に商業科工業科を中心に通学区域の変更となった。
これを受けて、1965年には京都市域の小学区制としての通学区が変更された。
教育の成果は、「教師」「教育制度」「生徒」という3つの要素から成り立っているので、「生徒」が変わることで3分の1を超える多大な影響ではないだろう。
 つまるところ1970年前後にこの「教師」「教育制度」「生徒」3要素それぞれにかかわる大きな変化があったのだろうと推測する。
 進学に特化した私立高校がこの時期以降勢いを増した影響と解説する向きが多いが、上記数字を分析すると、1965年から1979年としての私立高校からの合格者数増と公立高の合格者数減は反比例ないし関連した動きを見せていないので、長期的にはともかく、この時期の京都大学合格者について両者の相関関係は強くないと思われる。
上記洛星・洛南の合格者数との比較参照 
 また上記13校のうち70年前後で合格者数に大きく差がついたのは、以下に見るように「鴨沂」「洛北」「紫野」「桃山」の順となる。

13校+1それぞれの1970年以前と比較した1970年以後の京大合格者比率
*日比谷高校は東大合格者数での比較
鴨沂 18.0%
洛北 20.1%
紫野 22.5%
桃山 24.7%
山城 32.1%
38.2%
朱雀 46.5%
嵯峨野 47.3%
洛東 49.0%
堀川 60.2%
日吉ヶ丘 62.2%
塔南 65.3%
乙訓 262.5%
洛星+洛南 98.95%
日比谷 23.9%

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1965年から75年までの鴨沂・洛北・紫野・桃山の通学区

調べていてある公立高校に同一の現象をみつけた。東京の日比谷高校である。京都の公立高校と同じように1970年の前と後で進学先:東京大学合格者数に大きな変化が見られた。

1970年 何があったのだろう。

強いて関連する数字を探してみた。

高等教育機関の種類と数の増加(カッコ内は私立)(1955~1990年)

大学・短大 高等専門学校
1955年 492(326)
1960年 525(354) 19(2)*62年
1970年 862(688) 60(4)
1980年 963(753) 62(4)
1990年 1100(996) 62(4)

教育段階別の生徒・学生数の推移(1948~1990年):単位千人

幼稚園 小学校 中学校 高校 短大・大学
1948年 199 10775 4793 1203 12
1950年 224 11191 5333 1935 270
1960年 742 12591 5900 3239 709
1970年 1675 9493 4717 4232 1670
1980年 2407 11827 5094 4622 2206
1990年 2008 9373 5369 5623 2612

上の表は全国の10年毎の大学短大の数と在学学生数の変化である。上記2表とも「日本の教育史の概観」斉藤 泰雄より作成

1960年1970年の比較をしてみると、大学数は 1.6倍 学生数は2.35倍と飛躍的に伸びている。いわゆる大学への門が広くなることにより、難関校を避けより緩い門に集まる、ということなのか。京都府内の大学定員の拡大との比較検討をしてみる。


下の表で京都府の各大学定員の増加数と公立13校の京大合格者数を年度順に並べてみた。

年度 京都府大学定員 公立13校京大合格者
1965 66822 199
1966 73408 214
1967 81657 207
1968 88673 220
1969 94406 193
1970 97243 189
1971 99634 150
1972 102551 132
1973 106397 101
1974 111924 99
1975 115318 101
1976 116772 104
1977 117455 88
1978 115097 78
1979 114333 69


そして京都府の各大学定員と公立13校の京都大学合格者数を関連グラフにしてみた。

f:id:greengreengrass:20171204173757p:plain

京都府内大学定員と全国大学数は1979年を100とし、
公立13校京大合格者は1965年を100とした。


大学への門が広くなるとともに、京都大学等難関校進学者が少なくなる因果関係(のようなもの)が見えたのかもしれない。

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REMEMBER3.11

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