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ある公立高等学校の変遷5 大学進学率

前回「ある公立高等学校の変遷4」まで、1950年から1975年の京都市域の公立高校の通学区変遷を調べた。
 それぞれの学校でより良い教育、その結果としての高い人格形成を求めて教育制度改革が行われてきた。
 私もその中を漂流し、不安にかられ、(あとから気づいたことだが)教師に恵まれ、(すごい)環境に助けられた。
自身の立場はともかく、このシリーズをなにげなく取り組み始めたころには考えられなかった、京都の中等教育の素顔や魅力を強く意識し始めている。

京都府の通学区制は10年を単位として修正を重ねられた。
 まず敗戦後混乱の中1947年にまず整備され、1955年に一応の確立を見た。そして1965年、1975年と節目に修正され1985年からは類別コースが実施され大きく変貌した。
 その成果の一つの側面として、今回卒業後の大学進学に注目する。
京都府では敗戦前から高等学校について小学区制が敷かれ戦後も1985年類別コースが実施されるまで、小学区制は維持されていた。その中で進学についての意識はどう変わったか。
 文科省の「学校基本調査」により、公立高校からの大学進学率を見てみる。
以下に1950年からの全国の都道府県別大学進学率を表にした。
(4年制大学、短期大学、高等学校専攻科への進学者)

1950-1995年通算進学率(年度により都道府県単位資料がない)
(累計38年間)
累計 各年
地域 進学者 卒業生 進学率 順位 5位内 10位内
北海道 594,998 2,426,682 24.5% 34 0 3
青森 134,019 679,445 19.7% 46 0 1
岩手 132,418 663,542 20.0% 45 0 0
宮城 202,648 921,706 22.0% 39 1 2
秋田 122,938 597,221 20.6% 43 0 0
山形 124,624 617,842 20.2% 44 0 0
福島 208,468 986,274 21.1% 41 0 0
茨城 246,428 1,104,034 22.3% 38 0 0
栃木 215,782 850,244 25.4% 31 0 0
群馬 183,609 846,526 21.7% 40 0 0
埼玉 413,567 1,761,021 23.5% 37 0 1
千葉 433,834 1,681,777 25.8% 29 0 0
東京 1,711,910 5,097,596 33.6% 7 12 24
神奈川 762,437 2,399,644 31.8% 14 15 23
新潟 215,535 1,144,464 18.8% 47 0 1
富山 167,874 525,365 32.0% 13 1 14
石川 161,538 497,705 32.5% 11 3 11
福井 117,087 358,955 32.6% 10 5 15
山梨 123,856 431,769 28.7% 24 0 0
長野 241,191 1,013,790 23.8% 36 0 0
岐阜 273,053 876,592 31.1% 17 0 0
静岡 451,168 1,511,207 29.9% 20 0 0
愛知 899,849 2,495,200 36.1% 4 16 38
三重 214,868 717,903 29.9% 18 0 0
滋賀 137,426 439,091 31.3% 16 0 4
京都 352,697 1,063,898 33.2% 8 7 22
大阪 1,123,623 3,308,567 34.0% 5 16 26
兵庫 796,914 2,086,462 38.2% 1 37 38
奈良 180,524 475,532 38.0% 2 29 34
和歌山 137,705 465,078 29.6% 22 0 4
鳥取 90,628 302,952 29.9% 19 0 3
島根 100,986 374,676 27.0% 26 0 1
岡山 296,827 904,403 32.8% 9 0 22
広島 455,223 1,251,815 36.4% 3 28 31
山口 227,458 764,856 29.7% 21 0 3
徳島 121,697 384,407 31.7% 15 2 10
香川 152,835 474,214 32.2% 12 3 15
愛媛 244,553 720,316 34.0% 6 13 25
高知 88,145 332,180 26.5% 27 0 0
福岡 588,235 1,997,445 29.4% 23 1 4
佐賀 110,847 445,477 24.9% 33 1 1
長崎 202,786 772,765 26.2% 28 0 1
熊本 200,468 829,807 24.2% 35 0 3
大分 182,078 639,096 28.5% 25 0 0
宮崎 133,755 525,089 25.5% 30 0 0
鹿児島 232,742 932,141 25.0% 32 0 0
沖縄 95,893 456,271 21.0% 42 0 0
全国 14,607,744 50,153,042 29.2%      
文科省「学校基本調査」より

 


上記表から見てみると、この38年間通算で最も進学率の高い県は38.2%(兵庫県)そして最も低い県は18.8%(新潟県)、その差19ポイントとなった。
100人中40人近い進学者と100人中20人に届かない進学者と大きく差が見えた。
都道府県の中では、総合で兵庫県が最も進学率が高い。集計された38年の間、すべての年で上位10位以内に入り、かつ上位5位以内の回数は37回。
次に高い進学率は奈良県。10位以内が34/38、5位以内は29/38となる。
愛知県もすべての年で10位以内となっている。
また東京都は歴年7位で、10位以内が24/38、5位以内は12/38となる。
主題テーマである京都府を見てみると、記録のある38年間の集計では順位8位、また各年ごとでは全国10位以内が22回、5位以内は7回となっている。

教育の成果は、「教師」「教育制度」「生徒」という3つの要素から成り立っている。
その2番目の「(高校)教育制度」について京都府では見てきたように、小学区制・総合制・男女教学という「高校三原則」が貫かれてきた。
 その結果、とくに初期のころは年度が異なれば、大半の新入生の通学地域が入れ替わり、異なる地域=中学の生徒が集まるという時代と、高校新設が落ち着き通学区域が毎年ほぼ変わらない(中学からの)新入生という時代があった。この影響が進学にどのような変化をもたらしたかはある意味想像でしかない。入学してから卒業するまでに3年間のタイムラグがあるからだ。
 上記総合的な表からいえることは京都府の教育は、進学という意味からは高い結果を生んだということになる。

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REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

ある公立高等学校の変遷4 1965・75年の通学区

1965(昭和40)年の通学区(町エリアで通学区分割があるところについては地図上は不正確)

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1963年に京都市立塔南高等学校が創立され京都市教育委員会は独自に京都市立高校の単独制移行を実施、塔南高校には伏見高校・洛陽高校から普通科コースが移設、西京高校の普通科は堀川高校へ移設、堀川高校の商業科が廃止、生徒は西京商業高校へ移籍された。

沿革 | 京都市立堀川高等学校 堀川同窓会

それに伴って伏見高校と洛陽高校・西京高校はそれぞれ単独制となり伏見工業高等学校・洛陽工業高等学校・西京商業高等学校と改称された。
そして1965年の通学区は下図となる。
矢印Aの朱雀第七校区のように近くの朱雀・堀川・桂・塔南ではなく乙訓高校への通学区となっている割り振りもあり相当調整がおこなわれたようだ。阪急電車での通学だったのかな。
 また矢印B北区小野郷からは山城高校への通学だった。このルートにはJRバスがある。 この小野郷地区と左京区北部地区(久多や広河原、花脊)から該当する高校へ通学(矢印C)する生徒向けとして、1968年に右京区花園に市の施設「北辰寮」が設けられた。(1995年に廃止 注1)

(注1)右記記事注を参照 ある公立高等学校の変遷2 1950-52年の高校通学区 - 紙つぶて 細く永く

 中には下鴨地区(下鴨中通の東西)や朱雀地区(山陰線南北)のように高校への遠近・高校各校ごとの人数によって小学校区をさらに分けられていた地区も数か所ある。

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1965年の各高校の通学区図一覧

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1965(昭和40)年鴨沂高校通学区 川東地区を除く左京区南部

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1965(昭和40)年洛北高校通学区 静市地区以外の左京区中部・北部

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1965(昭和40)年紫野高校通学区 中川・小野郷地区以外の北区と左京区静市地区、下鴨地区一部

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1965(昭和40)年山城高校通学区 北区中川地区と北区南西部、上京区北部

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1965(昭和40)年嵯峨野高校通学区 花園を除く右京区の中北部と、北区小野郷地区

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1965(昭和40)年朱雀高校通学区 上京区中東部と中京北部

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1965(昭和40)年堀川高校通学区 中京区中東部下京区北部左京区川東地区

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1965(昭和40)年洛東高校通学区 東山区北部と現在の山科区

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1965(昭和40)年日吉ヶ丘高校通学区 東山区中部から伏見区北部

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1965(昭和40)年塔南高校通学区 下京区から南区、伏見区西部

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1965(昭和40)年桂高校通学区 右京区南部と大原野を除く西京区

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1965(昭和40)年乙訓高校通学区 現在の西京区南部・南区西部・下京区南西部

 *

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1965(昭和40)年桃山高校通学区 伏見区南部

1949年4月からの京都市における公立高校は以下の12校。
山城高校・朱雀高校・桃山高校・西京高校・日吉ヶ丘高校・洛陽高校・伏見高校・桂高校・城南高校

1965年時点では公立高校は以下の17校となった。
洛北高校・鴨沂高校・山城高校・桃山高校・桂高校・朱雀高校・嵯峨野高校・洛東高校・乙訓高校・紫野高校・堀川高校・西京高校・塔南高校・伏見工業高校・洛陽工業高校・日吉ヶ丘高校・城南高校(伏見工業高校・洛陽工業高校には普通科がなく、京都市内から城南高校への通学区はない)

 

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http://demography.blog.fc2.com/blog-entry-366.html から加工

1965年から1875年にかけては京都市の人口も増えたので、京都府立北嵯峨高等学校と京都府立向陽高等学校が増設され、1975年には京都市及び市から南地域の高等学校数は19校となった。その結果通学区は以下のように変更された。

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1975年からの京都市高校通学区
出典:政府統計の総合窓口(e-Stat)(http://www.e-stat.go.jp/

1975年時点での京都市が通学区となっている公立高校は18校。
洛北高校・鴨沂高校・山城高校・桃山高校・桂高校・朱雀高校・嵯峨野高校・洛東高校・紫野高校・堀川高校・西京高校・塔南高校・伏見工業高校・洛陽工業高校・日吉ヶ丘高校・北嵯峨高校・向陽高校・東宇治高校(伏見工業高校・洛陽工業高校・西京商業高校には普通科がない)
その影響もあり通学圏が大幅に変更となり、全体的に山科区や右京区、さらに京都伏見区から宇治市にかけての人口増に対応し南にシフトする区域変更が行われた。
左京区北部大原学区からの通学区は洛北高校から鴨沂高校へと変更となった。
下図にあるようにさらに遠方左京区北部久多・広河原・花脊地区からは嵯峨野高校への通学区域となった。北辰寮から近いという前提だろうか。

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1975年の各高校通学区図一覧

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1975(昭和50)年鴨沂高校通学区 左京区南部・左京区大原八瀬地区
山科区陵ヶ岡校区・上京区春日学区

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1975(昭和50)年洛北高校通学区 静市地区以外の左京区中部・北部

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1975(昭和50)年紫野高校通学区 中川・小野郷・金閣寺地区以外の北区と
左京区静市地区、下鴨地区一部・上京区北部

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1975(昭和50)年北嵯峨高校通学区 高雄地区以外の右京区と現在の西京区嵐山東学区

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1975(昭和50)年嵯峨野高校通学区 右京区東部と、北区金閣寺衣笠地区、
上京区北西部、中京区西部、左京区花脊久多地区

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1975(昭和50)年山城高校通学区 右京区北部、北区中川地区と南西部、上京区中部から西部

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1975(昭和50)年朱雀高校通学区 中京西部、上京区中東部、北区出雲路地区

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1975(昭和50)年堀川高校通学区 中京区中東部南西部下京区西部と東部、
左京区錦林地区、東山区西部から北部

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1975(昭和50)年洛東高校通学区 現在の山科区(勧修・山階西・百々学区以外)

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1975(昭和50)年日吉ヶ丘高校通学区 南区東部、北部除く東山区と現在の山科区百々学区

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1975(昭和50)年塔南高校通学区 下京区中部と東部、南区の大部分、伏見区北部

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1975(昭和50)年桂高校通学区 西京区南部と右京区南部、中京区西部

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1975(昭和50)年向陽高校通学区 現在の西京区大原野・樫原学区と南区久世地区、伏見区久我・羽束師地区

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1975(昭和50)年桃山高校通学区 羽束師を除く伏見区南部

1975(昭和50)年4月では京都市内からの通学公立高等学校は
普通科で15校、洛北高校・鴨沂高校・山城高校・桃山高校・桂高校・朱雀高校・嵯峨野高校・洛東高校・紫野高校・堀川高校・塔南高校・日吉ヶ丘高校・北嵯峨高校・向陽高校・東宇治高校


商業科で8校、洛北高校・鴨沂高校・山城高校・桃山高校・朱雀高校・洛東高校・乙訓高校・西京高校
となった。

 

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ある公立高等学校の変遷3 に戻る1955年の通学区 - 紙つぶて 細く永く

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

今月の容量がいっぱいになりました。

このところ画像(図)を処理する事がおおかったがついに、はてなフォトライフ容量がいっぱいになった。不要な画像(図)を「フォトライフ」から削除する方法が、あるのだが、数十枚削除してもなぜか欲しいだけの容量増加にならない。
それで書き溜めた記事UPは休業。

閑話休題
ツイッターにも通じる、レスポンスの速さがなぜか判断の速さとなり、資料をざっと読みで、早い判断を下し、結果的に「間違い助長している」という風潮が多く見られると、じっくり考え思っている。
なにか(ざっと読みすると)支離滅裂に思えるかもしれない文章だな。
調べりゃわかるのに調べない、感情のままに流されているんだ。だれかが「資料をざっと読みで、早い判断を下し」た結果を、自身では検証せずにオウム返しに我が知り顔に周囲に語っている。

昨日訊いた話には沖縄米軍嘉手納基地についての誤謬がある。どうもこのおっさん(あ失礼間違った、自身の無知がでたスンマセン)百田氏の無理やりいいとこどり判断が広く出回っているみたい。

自民党の勉強会>危険への接近論 再び  百田氏「2年前に沖縄のことで散々たたかれた。あの時は自民党の私的な勉強会。講演が終わった後の雑談で、『私は目の敵にされてるんで、沖縄の二つの新聞社はつぶさなあかんのですけど。ははは』と言った。弾圧というのは公的権力、あるいは暴力で封じること。私はただの作家。記者は言論弾圧の意味をもう一度考えてほしい。普天間基地の周囲は、1970年の航空写真では何も写っていない。ほとんど畑。沖縄全体の人口は戦後70年で1・9倍に増えているが、普天間基地宜野湾市)は6倍。基地の近くに住めば商売ができると」
那覇市立歴史博物館の担当者飛行場は、まだ沖縄戦終結していない45年6月、住民が収容所に入っているうちに、米軍が土地を占領して建設を始めた。住民は10月以降に順次、帰村が許されたが、多くの地域は元の集落に戻れず、米軍に割り当てられた飛行場周辺の土地で、集落の再編を余儀なくされた。
 市立歴史博物館の担当者は百田氏の発言に「人々が戦争で追い出され、何もなくなるまでの過程が抜け落ちている」として認識不足を指摘した。

www.okinawatimes.co.jp

*  例をたとえるのも違いすぎる気がするが、巷には下記のように米軍基地と養豚場を比べて論を張ることもある。


例題
Aの施設が、先に存在した。そのあとで住み込む人たちBが現れた。B地区の住人はAから吐き出される各種問題に意義を申し立てた。

解釈
先にAが存在したということは、Bの住人が住み始めるときにその各種問題はBも認識していたはずでる、つまり後から済んだ住人たちはその各種問題の発生状態を「了解」して住んだのだ。住み始めた後にその問題をことさら大きく問題視するのは、何か裏に「(不当な)利益」を生む要因に魅力を感じたに違いない。

 Aのところに自在に「米軍基地」や「養豚場」など施設を入れてみる。Bのところに自在に「周辺住民」やあるいは特定の地区を入れてみる。そして同列に時系列を捻じ曲げて評価する手法だ。
わかり易いように、対策も打たず同じ状態で1年に1度の害を出す場合のことを考えてみる。
過去50年からある時点までのカウントでは、害の合計は50度になる。
つまり50年住み続けている住人Cはその時点で50度の被害になる。新しくその時点で住み始めた住人Dを想定すると、この住人Dは毎年1度の害を受けることになる。
そして20年経たとする、すると住人Cは70度の被害、住人Dは20度の被害である。これに住人Cについては問題施設受け入れに自身の意志が働かなかったことを加点する。Dについては任意でその地区に住み始めたことを考慮しこの加点を低くあるいはなしとする。このように被害を算定する場合は、事前に住むあるいは事後に住むにかかわらず被害算定されるということになる。
つまり事後に住むか、旧来から住んでいるかなんて関係なく居住することで被害を受ける事実があれば被害程度に対する、各種対策を施される必要性がある、ということになる。
これを事後に任意で住んだ場合、それまでに発生した害を認識していたことを持って居住開始後に発生する害まで容認したことにする話だ。

昔、養豚場の近くに住んでいたことがある。公団住宅だった。したがって自身で立地を選んだわけではない。時折猛烈に鼻を衝くにおいが漂っていた。あれはたまらない・・。
少し論点がそれたが、事実を捻じ曲げることに長けた天性の瞬間番組構成者、百田氏の講演会演説についていうなら、少しも盲点を突いたものでないということになる。

それにしても講演で記者の娘までを取り上げて論及する、おぞましい思考を持つ人間だなあ・・。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、なんて気分なんだろうね。

こんな人が経営委員をしていた、某国営放送もこの論に与するのだろう。

 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

ビーフシチュー

今週のお題「得意?料理」

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人参は乱切り

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玉ねぎはみじん切り へたを残して包丁を入れると涙なし

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油で炒める。調味料なし

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国産牛肉カレーシチュー用を塩コショウで(少しピンボケ)

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シチューソース・ケチャップ少し・固形スープの素で玉ねぎが溶けるくらいまで2時間位煮込む

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人参はしっかり残す。じゃがいもは入れない。こんな感じ

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ネタはこれ。キューピーでなければだめ。

 

 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

時系列で考えればわかりやすい・・が、短絡した筋道では

朝日新聞記事による時系列検証

 

民進党分裂に至る政治劇は、代表の前原誠司が9月17日午前、東京都知事小池百合子に送った1通の携帯メールから始まった。 この日の朝、朝日新聞などが臨時国会冒頭での衆院解散の可能性を大きく報じていた。「近々、お目にかかれれば幸いです」。 京都市の自宅で新聞を精読した前原は、意を決して小池にメールを打った。 前原が小池にメールを送っていたころ、ネットメディア会社代表の上杉隆は、民進で総合選挙対策本部長代行を務めていた玄葉光一郎に接触していた。 上杉は元衆院議員の故鳩山邦夫の秘書を務め、小池とは1994年の新進党結党以来の付き合いだった。
 当時、小池側近の衆院議員だった若狭勝らが新党結党の準備を進めていたが、小池自身は距離をおいていた。 ところが、解散報道を受けて、小池も新党代表として国政に関与することを模索しはじめている――。上杉の玄葉への説明はこんな内容だった。
「若狭新党なら恐れるに足らずだが、小池新党なら話は違う」。前原は玄葉から報告を受け、合流に向けた調整を水面下で進めることを決めた。
前原には、昨年の参院選で一定の成果を上げた共産党自由党社民党との野党共闘路線の継続も、選択肢としてあった。
 だが、民進内では、共産との連携に反発する勢力が離党の機をうかがっていた。政党支持率も1桁でジリ貧だった。
(A)リーダーとしてのミス一つ 何故ならどちらの路線が正解だったかは後で明らかになっている。

9月26日深夜のことだ。 前日の25日には、安倍晋三が28日召集の臨時国会冒頭で衆院を解散すると表明。
小池も新党「希望の党」を立ち上げて、自ら代表に就くと発表していた。
新党との合流協議を急ぐ前原が上杉の携帯電話を鳴らし、急きょ設定された秘密会談。 前原は民進100億円超の資金や党職員の提供を申し出たが、小池は断った
(B)真実か怪しい のちに政策協定書9項「希望の党の公認候補になるに当たり、党に資金提供をすること」なんてことが出てくる。


そして、注文をつけた。 「全員(の合流)は困る。私は、憲法と安全保障は絶対に譲れません」 憲法改正と安保政策は、小池の保守政治家としての生命線だ。
「護憲の方はご遠慮願いたい」と言う小池に、前原は応じた。 「それは当たり前。うちにも護憲なんているかどうか……」
(C)リーダーとしてのミス二つ 所属員を把握できていない。「偽メール事件」しかりこの人は何回もその前例がある。思考力が及ばないのかも。


小池は、民進の体質が新党に継承されることを懸念していた。 民進は、これまでも自民から旧社会党出身者まで抱える「寄り合い所帯」ぶりが、党の一体感を損なってきた。 護憲政党ではないが、いざ党内で議論を始めれば対立が表面化しかねない。
 小池の思いを推し量った上杉が旧民主党の「排除の論理」を例に出した。 鳩山由紀夫菅直人が1996年に民主党を結党した際、看板のかけ替えとの批判を受けないために一部のメンバーの参加を拒んだ。 上杉は「『三権の長』経験者を排除するのはどうですか」と話したという。
(D)この時と手法が異なるより大きな問題は下記の「政策協定書」だ。そしてこれらの提案と上記「全員(の合流)は困る」を受けてからの下記議員総会での説明は明らかに、虚偽だ。

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9月28日民進両院議員総会
 政権交代可能な政治の一翼をめざしてきた野党第1党を分裂させた小池の「排除」発言の原点は、この夜の密談にあった。 小池側にも、政治経験の豊かな有力な候補を抱えていないという事情があった。 交渉でネックになったのが、小選挙区の候補者調整だった。前原側は約300の小選挙区を「民進200、新党100」の割合で割り振るよう要求。 一方の小池側は「150、150」と主張し、平行線をたどった。 それでも、前原は民進全員での合流をめざそうとした。ほら詭弁が出てきた)
小選挙区であぶれたとしても比例区がある。小池と、何度か電話でやりとりした。 小池は「『第2民進党』になったら、両方沈んじゃうわよ」と言って、全員の受け入れには難色を示し続けた。 互いに警戒していた。
前原は「小池側にハシゴを外されること」を恐れていた。小池も「民進に抱きつかれたら困る」(小池側近)と考えていた。 「これから会見します」。小池は同25日の記者会見で希望の党の立ち上げを表明する直前、前原に電話を入れた。 記者からの質問に答える形で、前原との連携についても話すという。 前原は民進幹部らに「小池さんが民進との合流について会見する」と連絡した。しかし、小池の言葉は前原たちにとって甘いものではなかった。 「前原代表とは日本新党以来の知り合いで、コミュニケーションは取れると思う。 でも、党を丸ごとというよりかは、政策にご同意いただけるのかどうかが必要になってくる。さもなければ組織をつくる意味がない」
「排除リスト」と「踏み絵」の流出
野合と見られることを嫌った小池と、多くの民進出身者を合流させることをめざした前原。思惑が異なる2人の要求を満たす「しかけ」が政策協定書だった。小池色を前面に打ち出しつつ、民進の主張とも矛盾がない書面を民進出身者らと交わすことで、双方の心配を一挙に解消するはずだった。
(E)冷静に考えればわかる。これは立候補者の意志に反して虚偽の署名をするしかない解決法で、選良の選挙に際しこのような手法がまかり通るわけはない。かりに署名しても選挙後に大量の造反が出ることは目に見えている。


 ところが、しかけが完成する前に、事態は思わぬ方向に転がり始める。 前原は、希望への合流方針の了承を取り付けた9月28日の民進両院議員総会で、安全保障法制を「憲法違反」と確認。(ああ二枚舌)
「安倍政権を止めなければならない」「我々の理想の社会を実現するため、大きなプラットフォームを我々自身がつくる」と説明していた。 翌29日午前。前原と小池は東京・新宿の京王プラザホテルで会談し、公認候補の調整と政策のすり合わせを進めることを確認した。 最初に記者団の前に姿を見せた前原は「(民進出身者を)全員公認したいという思いは(小池に)伝わっている」と強調した。(さらに二枚舌)
一方の小池は記者団
(この記者団の中にフリージャナリスト横田一氏がいた。彼が「さらさら」発言を引き出した。その後彼は、何の理由か「小池新党」側から無視され続けている)
に、「全員を受け入れることはさらさらない」と述べ、前原の発言を一蹴した。 両者の思惑は隔たったままなのに、政権交代可能な勢力としての希望への期待ばかりが高まっていた。 小池の「排除」発言が飛び出したのは、その日午後。小池周辺は「前原の『抱きつき』に、(小池は)いらだっていた」と言う。 
 さらに間を置かず、「三権の長」経験者に枝野幸男ら十数人の名前を加えた「排除リスト」が永田町に出回った。
前原も、小池も関知していない出所不明の文書。(しらぬは亭主ばかりなり)
前原は周辺に「フィクションだ」と怒りをあらわにしたが、民進出身者たちは浮足だった。 若狭が民進との協議を経て完成させる手はずだった政策協定書のたたき台も流出した。 民進が一貫して反対してきた安保法について「基本的に容認する」と記されていたため、民進に宗旨替えを迫る「踏み絵」との受け止めが広がった。 「排除」と「踏み絵」に反発した枝野が新党「立憲民主党」を立ち上げた。 無所属での立候補に踏み切る議員も相次いだ。「排除」どころでなくなり、「踏み絵」も民進側との協議を経て穏当な内容
(「現下の厳しい国際情勢に鑑み、現行の安全保障法制については、憲法に則り適切に運用する。その上で不断の見直しを行い、現実的な安全保障政策を支持する」これのどこが穏当かな)
になったが、分裂への流れは押しとどめようがなかった。 前原は「排除リストだとか踏み絵だとか、われわれが『本物ではない』と言い続けても、現実に物事が決まらないなかで疑心暗鬼が高まってしまった」と振り返った。 前原の決断を了とした連合会長の神津里季生(りきお)は「政策と公認の『門』を狭めた小池さん周辺の罪は極めて重い」と言った。 小池は衆院選投開票日の10月22日、出張先のパリで「政党たるもの、政策が一致するのは当然の話だと考えているが、言葉の選び方は注意するべきだった」と総括した。 だが、その後は多くを語らないまま、今月14日、党の代表を辞し、自ら劇場の幕を引いた。

この時系列で進んだ。9月28日の「民進両院議員総会」の前後をしっかり把握しないと・・やはり検証の結果は投票者の肌感覚は当を得ていたということになるなあ。

 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

ある公立高等学校の変遷3 1955年の通学区

1949年から1952(昭和24-27)年の通学区を見てきたが、1953年から1954年の資料がない。

次に1955年の全体通学区が以下になる。

図中の実線は1950年から現在までの鉄道路線京都市内には市電が走っている。

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1953年に洛東高校が創立され、以下現在の左京区川東地区、東山区の一部、山科区伏見区東部にあたる地区が洛東高校の通学区となった。

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1955年(昭和30)洛東高校の通学区 左京区川東地区、東山区北部、山科区


ついで各学校の通学区を見て行こう。

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1955(昭和30)年鴨沂高校通学区 左京区南部と洛北高校の通学区を除いた左京区北部

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1955(昭和30)年洛北高校通学区 左京区中部

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1955(昭和30)年紫野高校通学区 北区と上京区北部

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1955(昭和30)年山城高校通学区 北区南西部と中京区北西部、上京区北部

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1955年(昭和30)嵯峨野高校通学区 現在の右京区と北区中川・小野郷地区

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1955(昭和30)年西京高校通学区 中京区西部と上京区南部、右京区の一部

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1955(昭和30)年朱雀高校通学区 上京区全体、中京区北部、北区一部

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1955(昭和30)年堀川高校通学区 中京区と下京区北部

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1955(昭和30)年日吉ヶ丘高校通学区 中京区一部と現在の東山区

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1955(昭和30)年伏見高校通学区 下京区南部、南区東部と伏見区北部

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1955(昭和30)年洛陽高校通学区 南区西部

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1955(昭和30)年桂高校通学区 現在の西京区と南区

 

この辺りで高校の変遷を整理しておこう。
戦後の教育制度改革で一旦旧制の以下中学校は下記の様に新制の各高等学校として発足された。

1948(昭和23)年4月開学した京都市内の公立高校
                       旧制嵯峨野高等女学校
                       旧制伏見女子商業学校
                     旧制城巽第二女子商業学校
    京都市立藤森高等学校        旧制私立菊花高等女学校

(後日追記)この新制高校設置に伴う困難は想像以上のものだった。下記参照

誰が学校を建てたのか その3 「文部官僚の号泣」 | 甲斐良治の「食と農の底力!」

しかし急きょ設置された上記高等学校も、新制中学の校舎不足に伴っての校舎明け渡しやGHQ京都軍政部からの指示もあり、上記多くの高等学校は再編された。変遷図については以下の図参照

公立高校変遷図 京都府立編.pdf - Google ドライブ

公立高校変遷図 京都市立編.pdf - Google ドライブ

1948年の公立高校は以下30校

洛北高等学校・鴨沂高等学校・洛南高等学校・山城高等学校・双陵高等学校・桃山高等学校・柏原高等学校・伏見商業高等学校・桃山女子高等学校・伏見高等学校・桂高等学校 ・朱雀高等学校・二条高等学校・城南高等学校・鳥羽高等学校・堀川高等学校・中京高等学校城陽高等学校・城巽商業高等学校・専修高等学校・西京高等学校西陣商業高等学校 ・御池商業高等学校伏見工業高等学校・四条商業高等学校・深草工業高等学校洛陽工業高等学校・九条工業高等学校・美術高等学校・藤森高等学校

そして1949年4月には公立高校は以下の12校となった。

洛北高校(修正記載)・鴨沂高校山城高校・朱雀高校・桃山高校・堀川高校西京高校・日吉ヶ丘高校・洛陽高校・伏見高校・桂高校・城南高校

ある公立高等学校の変遷4 に進む1965・75年の通学区 - 紙つぶて 細く永く

ある公立高等学校の変遷2 に戻る1950-52年の高校通学区 - 紙つぶて 細く永く

 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

高雄まで

11月19日紅葉を求めて保津峡から高雄まで散策。

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保津峡駅の紅葉

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水中紅葉

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清滝

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台風の影響か倒木がある

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食事も一杯

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おなじみ杉並木

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ぽつんとつがいの鴨

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高雄に近づいてきた

 

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真言宗神護寺

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やはり赤の深みが違う

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REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

ある公立高等学校の変遷2 1950-52年の高校通学区

かって「15の春は泣かせない」というキャッチコピーの高校通学区制度があった。
住居地によって通学できる複数の公立高校で入学者を振り分けられる高校入試制度が総合選抜制度。
しかし京都では西の文部省ともいわれた京都蜷川府政でさらに厳格に、居住地から通学できる高等学校は1校となる「小学区制」が1985年まで実施された。
その制度による新制高等学校発足1949年の京都市内高校通学区地図が以下の図。

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各高校への通学区を色分けした。(醍醐地区は不明)

高校は市内に集中している。15才になる人口を小学校校区毎に分けて通学高校を分けている(図で色分けした)。地図中の高校名称は現在のもの。

 そして翌1950年の通学区は以下に変更された。下図は全体図

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混乱の中で1949(昭和24)年通学区を決定したが、1950年の通学区はさらに混乱し、1年、2年、3年でそれぞれことなる学校への通学ともなった。これは1年の時に通った高校と異なる高校に2年生として通学するということでもあり、市民保護者からかなりの苦情もでたようだ。

1950(昭和25)年の京都市公立高校通学区
下図は1950年鴨沂高校洛北高校にかかる通学区 洛北高校については戦後すぐ校舎を新制中学に明け渡し、鴨沂高校内に間借りをし両校合わせて3000名以上の生徒が昼夜の2部制授業で開校した。 そのため1949年には洛北高校通学区がなかった。1950年からは元の府立第一中学校舎となり洛北高校としての通学区となった。
下記グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。

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次に1950年山城高校洛北高校の通学区 グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。

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こちらが1950年山城・嵯峨野・西京高校の通学区 グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。

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次に1950年桂・西京高校通学区 グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。

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1950年堀川・朱雀高校通学区 グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。

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1950年日吉ヶ丘高校通学区 現在の東山区山科区

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そして1950年伏見・桃山高校通学区 グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。

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1951(昭和26)年は通学区変更がなかった。
1952(昭和27)年には混乱した通学区からの反省か全学年同じ通学区となった。

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これ以降左京区北部久多や広河原、花脊が京都市内への通学区として組み入れられた。1952年は洛北高校の通学区となった。この距離では多分下宿しないと通えなかっただろう。
 そのため高校入学を機に一家あげての離村等もあったようだ。1975年の調査による離村状況についての資料(坂口 慶治「京都市近郊山地における村化の機構と要因」以下URL )が詳しい。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/27/6/27_6_579/_pdf

京都市では、このような事情もふまえ小野郷地区と左京区北部地区(久多や広河原、花脊)から該当する高校へ通学する生徒向けとして、1968年に右京区花園に市の施設「北辰寮」が設けられた。(1995年に廃止 注1)

(注1)現在京都市では北辰寮廃止に伴い、花脊中学・宕蔭中学地区の生徒が市内に下宿する場合の補助金制度がある。下記参照

http://www.city.kyoto.lg.jp/kyoiku/cmsfiles/contents/0000184/184749/24hekiti.pdf


1952(昭和27)年の京都市公立高校通学区

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1952(昭和27)年鴨沂高校通学区 左京区南部と上京区の一部、それに山科区が加わった。

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1952(昭和27)年洛北高校通学区 左京区北部から中部

1952(昭和27)年4月に京都市によって紫野高校が開設され通学区は以下となった。

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1952(昭和27)紫野高校通学区 北区全般

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1952(昭和27)山城高校通学区 北区一部と右京区の一部

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1952(昭和27)嵯峨野高校の通学区も広大になっているが路線バスがある。

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1952(昭和27)朱雀高校通学区 中京区全般

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1952(昭和27)堀川高校通学区 上京区と中京区

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1952(昭和27)日吉ヶ丘高校通学区 東山区

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1952(昭和27)伏見高校通学区 下京区南部、南区東部、伏見区北部

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1952(昭和27)年洛陽高校通学区 下京区南部と南区

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1952(昭和27)年桂高校通学区 現在の西京区と南区の一部

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1952(昭和27)年桃山高校通学区 北部を除く伏見区

出典:政府統計の総合窓口(e-Stat)(http://www.e-stat.go.jp/

 

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REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

民衆に寄って

「10月27日、州議会による一方的な独立宣言に踏み切り、中央政府から解任されたプッチダモン前州首相は 「フランコ独裁以降、最悪の攻撃」と語り、歴史的な「恨み」の構図をラホイ首相と自分との関係になぞらえた。
州庁舎前のデモに加わっていた事務職の女性(22)は「曽祖父がカタルーニャ語を話したことで投獄された。
フランコ時代の圧政が繰り返されないためにも独立すべきだ」と語気を強める。
だが、私がバルセロナの街中を歩いて感じるのは必ずしも独立への熱気ではなかった。 むしろ、独立の是非をめぐって深まる社会の分断だった。
州議会では議員の過半数を独立派が占めていたが、最新の世論調査でも独立支持は49%にとどまる。
カタルーニャ語母語とするのは州人口の約3~4割。 そんな現状にもかかわらず、独立派が主導する州の公教育ではすべての教科がカタルーニャ語で教えられ、 スペイン語の授業は週2、3時間だけしかない。」
(ヨーロッパ総局長・石合力)

カタルーニャ民族主義の専門家で、独立に反対する大学教授ハビエル・バライコアさん(54)は 「カタルーニャフランコ時代も経済発展を続け、その当時も多くの人が彼を支持していた。
住民の迫害意識は、州のテレビのプロパガンダや公教育によって高まった面もある」と指摘する。
カタルーニャ民謡「鳥の歌」は、強い抵抗の意思をにじませて高音に向かう旋律と、半音で悲しげに下降する旋律を繰り返す。 フランコ政権下のスペインでの演奏を拒んだカタルーニャ生まれの大チェリストパブロ・カザルスが71年、 ニューヨークの国連大会議場で演奏。
カタルーニャの鳥は『ピース(平和)』と鳴く」という演説とともに世界に知れ渡った。
異なる文化圏やジャンルの人々にこの曲を自由にアレンジしてもらう 「連歌・鳥の歌」プロジェクトを展開した作曲家の井上鑑(あきら)さんは「カタルーニャ人のたくましさと繊細さ、 他者の気持ちを察する心の機微が、この旋律に映し出されている」。
フランコ政権下で姿を消したかと思われたカタルーニャ語も、人々が日常生活で丁寧に使い、 公用語として子供たちに伝える努力を続け、歴史的な復活を遂げた。文学にも勢いがある」
編集委員吉田純子

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同じ日に上記二つの文章が掲載された。一方は「カタルーニャ語母語とするのは州人口の約3~4割。しかし独立派の教育ではすべての教科がカタルーニア語で教えられ」と説く。
もう一方は「フランコ政権下で姿を消したかと思われたカタルーニャ語」と説く。
どちらが真実を捉えているのだろう。歴史的経緯によって事実は異なる面をも見せる。私はフランコによるスペインの悲劇を少なからず知ったので、下記のようなさらなる一説に同意する。

スペインにおける言語状況と言語教育 川上 茂信事情を知らない日本人ならカタルーニャ語バスク語スペイン語の「方言」であると思うかもしれない。
実際、フランコ体制下(1939-1975)で は「言語」と呼べるのはカスティーリャ語のみという考え方がとられ、同時に他の言語が弾 圧され、スペイン語の「カタルーニャ方言」などという言い方が使われたりしたのだが、現 行憲法が依拠しているのは、それとは異なる見方である。
つまり、フランコ時代に唯一の 「言語」とされ「スペイン語(lengua española)」の名を独占してきた言語は、他の言語と 対等のひとつの言語に過ぎず、したがって「カスティーリャ語」と呼ぶべきだという主張 と、カスティーリャ語は既に旧カスティーリャ王国の言語なのではなくスペイン全体の言語 であり、したがって「スペイン語」なのだという伝統的な考え方の対立が背景にあり、折衷 案として出てきたのがこの条文の表現なのだ。
そのため、言語名は「カスティーリャ語」だ がそれは「(公用)スペイン語」であるという分かりにくい言い回しが採用されることにな った。

参照:http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ilr/EU/EU_houkokusho/kawakami.pdf

それにしても「鳥の歌」はいい

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」