京都市の景観条例とそれに対する京都大学の規制行為がいよいよ裁判に訴えられた。
京大タテカン訴訟 〜訴訟提起に際しての記者会見〜 - YouTube
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訴状を受けて京大総長湊長博氏は以下のように述べた。
それを「手ほどき」してみた。
――京大の自由な校風を表す一つにタテカン文化があったとの声があります。
タテカンがなくなって、どんな自由がなくなったか。誰かが何かを言いたい時にそれを公表する、世に出すのは自由です。
この時代、SNSもあるし、(タテカンを歩道に向けて立てられる)しかるべきスペースも作りました。
そういう状況のなかで、ああいうタテカンに自由のシンボルとしての価値があると言われても、のめません。
なぜなら、何度か非常に危ない場面を見ているからです。
ひもでとりつけた大きなタテカンが、風の強い日にバーンと倒れて、お年寄りが転びそうになったこともあります。
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――タテカンに関する規程を見直す考えはありますか。
タテカンが、情報や主張を発表する手段として、どれだけ効果があり、どれほどの意味があるかという議論を潰すつもりは全くありません。
もし、どうしても必要ならば、設置場所をもっと安全に、京都市とけんかしないですむように担保しますよ。そう言ってきたはずです。
僕らが大学に入ったのは1969年。
全共闘の時代は、あれ(タテカン)しかなかったんですよ。SNSなんてなかった。
賛否はありますが、当時のタテカンは論点が非常にはっきりしていたと思います。
どういう観点なのか、なんだか分からないタテカンを出すことは、京大の伝統的な文化ではないと思っています。
ある種のノスタルジアで主張されるのはフェアじゃありません。
「懐かしい、あれ」みたいなことを言われても。情緒論でなく、もう少し明快に言ってほしいです。
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――主張内容よりも、その雑多な景観が京大らしかったのでは。
京大らしい、いい景観だというコンセンサスがありますか。
あれが、京大の見慣れた景観のひとつというのは、僕は違うと思います。
本当にタテカンを経験した世代ですから。タテカンには、それぞれ組織の言い分があって、やりあっていたわけです。
それが、どこかの時点で、時代に必要なメッセージ性が、はっきり薄れましたね。
そうした歴史的経緯がある中で、「タテカンがないと寂しい」とか「京大らしさの象徴」とか、
「言いたいことが言えなくなった」などと言われても、論点が分かりません。
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最後に土地利用・環境規制に関する法制度を中心に研究されている高村学人教授のひとこと。
http://www.kyoto-up.org/archives/2743
「イヴァンよお前にやる花はない」プラハの花屋
REMEMBER3.11