school Scola scholē
K先生
SIです。
その節は大変お世話になりました。
その縁から、日本で2番目に古い国立大学K大学が大変好きになりました。
私の中ではT大学は何のその、世界に冠たるK大学です。
ここでは昨今の変化から、こんな市民もいるということをお伝えしたくて失礼を省みずメールいたしました。
K大学の擁壁とくに百万遍は自由の学風K大学の顔といってもいい場所です。
その百万遍のタテカンを、こともあろうに屋外広告物と判断する、京都市の姿勢は信じられないものです。
しかしその問題の、京都市条例においてさえも、
「 何人も、道路の路面に屋外広告物を表示してはならない。ただし、法定屋外広告物及び
公益、慣例その他の理由によりやむを得ないものとして別に定める屋外広告物については、この限りでない」
とあります。
市民に危険な立看板はもちろん否定されるべきですが、ここで取り上げるべきは危険か否かではなく、昨今の政治社会状況からいって意見の表明等の場が狭くなることそのことには大いに危惧を抱きます。
京都市条例のまず第一の主旨も、景観としての環境をまもるということであり、権力に迎合忖度し意見表明の場を絶つ、ことが主目的ではないはずです。
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在職中には先生の温厚な立ち姿そして言葉に感動を覚えました。
そんな中昨今の風の便りで、厳しい追及の場ではあると思いますが、学生との対面時の先生の姿、言動にに寂しいものを感じます。
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「 学校を意味する英語のスクールという言葉は、直接にはラテン語の「スコラ」に由来し、さらにギリシャ語の「スコレー」にさかのぼり、それは「閑暇」を意味する。勉強や学問にはたしかに時間の余裕がなくてはならないが、ただの暇つぶしなのではない。むしろ、生きていくための多忙な日常の仕事から切り離された状況において、その「生きていく」ことをじっくり振り返るためにこそ勉強や学問は存在しているのであり、そのための「スコレー」なのである 」
上記先生のお言葉にも言及されていますが、学校というものには幾分かの「スコレー」が必要ではないかと感じます。
そのスコレーこそがタテカンなのです。
決して危険な立看板を設置しない、ことを前提にぜひ再度学内で学生等との建設的協議を私からも切にお願いしたく思います。
「イヴァンよお前にやる花はない」プラハの花屋
REMEMBER3.11