外出が憚れる今、過去の旅を見つめ直すとどうなるだろうか・・
今回からは2013年7月の「再び東北巡りの旅」4回目
白神山地から津軽と巡ります。
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表中の赤字は乗車時間。合わせて駅間の距離と平均運行速度、駅数を掲載した。
【凡例】
駅 | 駅名 | |||||||||
区間 距離 |
駅間の営業キロ | |||||||||
時速 | 駅間の運行時速 | |||||||||
駅数 | 区間の駅数 | |||||||||
駅間 | 駅間の運行時間分 | |||||||||
6時 | 出発 | 列車番号 | ||||||||
所要時間 | 到着 |
検証 不老ふ死温泉
不老ふ死温泉は海岸に接した位置にあり、宿と日本海の間に露天風呂がある。
茶褐色の湯に浸り打ち寄せる波音を聞いていると思わず温泉の心地よさに唸る。
この露天風呂は混浴であるが、すぐ横一段高いところに背丈ほどの壁で分かれて女性用がある。
当然混浴に女性は入ってこない。
しかし日本海を展望する関係か女性用の床が1段高い。
女性でも頭一つ壁から上にでる。
なぜか女性用からずっと、波打つ日本海を、そしてわれわれがいる混浴風呂をも眺めている婦人がいた。不思議な温泉だ。
100人ほどが入れる夕食の場だけで複数箇所はある大きな宿である。
青森県とあって夕食には少しだが大間のマグロが出た。
大きな広間でわれわれ以外に若い男性という三人の静かな夕食であった。
平日であったが海水浴シーズンとあってかなり大勢の宿泊客が見受けられた。
しかし情緒ある温泉というわけで無く町の巨大なドライブインという風情であった。
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翌日は(難読駅)艫作まで送迎があり、ここから出発。
艫作-山形 | ||||||||||
駅 | 艫 作 |
深 浦 |
鯵 ヶ 沢 |
五 所 川 原 |
川 部 |
弘 前 |
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区間 距離 |
95.6 | |||||||||
時速 | 31.0 | |||||||||
停車 駅数 |
26 | |||||||||
駅間 |
7'11 | |||||||||
7時 | 25 | |||||||||
3h 05 |
38 | 43 | 521D | |||||||
8時 | 39 | |||||||||
9時 | 07 | |||||||||
41 | ||||||||||
10時 | 14 | 20 | ||||||||
30 |
検証 津軽
五能線「艫作」(へなし)から弘前へ向かう。
岩木山を中心に円弧を描きながら列車は進む。
車中でにぎやかな4人組のおじさん達が同行であった。
共に名古屋の会社で働いていたがリタイヤし毎年のように同窓会を開き、今回は同じく不老ふ死温泉に泊まった。
車中でわれわれも一緒に和気あいあいと「艫作」から始まり、知っている難読地名を出し合いながらもカメラで岩木山を追いかける。
途中鯵ヶ沢では「話題の犬」といううたい文句で「わさお」君(の看板)を見た。
おじさん達はここでも看板のわさお君を肴に大いに盛り上がった。
とても忙しい人たちであった。
川部駅で、青森へ向かうおじさん達と別れ弘前へ。
しかし、列車の窓から見える岩木山は印象に残る山であった。青森の人にとっての心根というものかもしれない。
今津軽を走っている。
(前略)学校の裏へまわり、運動会のまんなかを横切つて、それから少女(注 たけの娘)は小走りになり、 一つの掛小屋へはいり、すぐそれと入違いに、たけが出て来た。
たけは、うつろな眼をして私を見た。
「修治だ。」私は笑って帽子をとった。
「あらあ。」それだけだった。笑いもしない。まじめな表情である。
でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、 さりげないような、へんに、あきらめたような弱い口調で、「さ、はいって運動会を。」
と言って、 たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、 たけはそれきり何も言わず、きちんと正坐してそのモンペの丸い膝にちゃんと両手を置き、 子供たちの走るのを熱心に見ている。
けれども、私には何の不満もない。
まるで、もう、安心してしまっている。
足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思う事が無かった。
もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。
平和とは、こんな気持の事を言うのであろうか。
もし、そうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。
先年なくなった私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であったが、 このような不思議な安堵感を私に与えてはくれなかつた。
世の中の母というものは、皆、その子にこのような甘い放心の憩いを与えてやっているものなのだろうか。
そうだったら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまっている。
そんな有難い母というものがありながら、病気になったり、なまけたりしているやつの気が知れない。 親孝行は自然の情だ。倫理ではなかった。
たけの頰は、やっぱり赤くて、そうして、右の眼蓋の上には、小さい罌粟粒ほどの赤いほくろが、ちゃんとある。
髪には白髪もまじっているが、でも、いま私のわきにきちんと坐っているたけは、 私の幼い頃の思い出のたけと、少しも変っていない。
あとで聞いたが、たけが私の家へ奉公に来て、 私をおぶったのは、私が三つで、たけが十四の時だったという。
それから六年間ばかり私は、たけに育てられ教えられたのであるが、 けれども、私の思い出の中のたけは、決してそんな、若い娘ではなく、 いま眼の前に見るこのたけと寸分もちがわない老成した人であった。
太宰治「津軽」より
REMEMBER3.11