研ぎ澄まされない、弱い感性
昔、学生運動に与し権力を批判していた。
そして武器を持ち、「腕力」で正義を実現しようとしていた。
しかし挫折した。
何十年かを経て、今は生活のために自民党員にさえなった。
それでも、いまだにUSAのベトナム戦争に対する侵略は許せない。
こういった。
また、以前は学生運動にも参加していた。教員に就いた。
と聞くと、良識ある日本の未来を考える職業である。ゆえに深く憂慮する思考が先行する、はずだ。
しかし、今支持政党はジミントー。
このような方に連続して出会った。
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この人たちは正義に対する、考えが間違っている。
またひと時権力に対峙したことを踏まえ、
子どもたちの未来を考える教職についたこと、これもAだ。
そしてジミントーに投票する行動をBとする。
アメリカを非難する貴方の一票により、
忖度する自民党議員が選ばれ、
その輩が集まり、
凡庸な三世議員首相を選び続け、
結果今後独裁へと進む道筋を容認することとなるのは、
知能があるならば両立はしない。
つまりAとBは両立しない。
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その問題に対する究極の策は、
「なんでもいい、自身の研ぎ澄まされない、弱い感性に合致さえすればいい。
「正義」などどうとでも解釈できる」
ということだ。
そしてこのことは貴方たちにとっての終生の解釈は、
若いころの思考は誤っていた。
アメリカのヴェトナムに対する侵略が成功すればよかった。
そして今の政権が如何に独裁指向であろうと、情実からジミントー候補者に投票を続ける。
すなわち若いころも間違っていた、いまも正義からは外れている、
ということにしかなり得ない。
恥の上塗りかリフォームか
その昔転向があった。
あなたたちの場合は転向などではない、恥の上塗りそしてリフォームなのだ。
現在定義されているあなたの弱い感性が、若かりし当時にあっても正義の実現には生かされず、結果だけを短絡的に求めただけだ。
「日本における危機の言語学的解決法」
敗戦を終戦と呼び、占領軍を進駐軍と言いかえる。終戦という言葉はいくさの勝ち負けを明示しない。
敗けいくさは危機だが、いくさの終わりは平和の希望であろう。
占領軍は日本の法律と天皇の権威にも超越しておそろしいが、もしそれが進駐軍ならば日本国と天皇制の安全をまもってくれる有り難い存在である。
かくして多くの危機は、単語のさし換えという比較的単純な言語学的操作によって忽ち解決される、あるいは解決されたように見える。
しかも政治の世界では、問題が解決されることと、解決されたようにみえることとの間に、あまり大きなちがいはないだろう。
危機の言語学的解決法にはさらに複雑なものもある。
折にふれて人の唱える憲法改訂、第九条修正主義の議論である。
この方は専ら、「押し付け」に注目し、押し付け第二を採って、押し付け第一を捨てる。
アメリカが押しつけたもの(憲法)はイヤだから、アメリカが押しつけるもの(軍備増強)を歓迎するというのである。
危機は来り、去り、また来る。その度にわが日本国が、言語学的対策を生みだして、巧みにそれぞれの危機をのり超えてゆく。
どうしてそういうことが、日本国においてだけできるのだろうか。
おそらく、本居宣長翁もいったように言は事だからであり、それこそ「外人にはわからない」神ながらの道だからであろう。
加藤周一「山中人閒話」
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その事実を認めたくないことから、敢えて自身の弱みを強調する。
「自民党員であるけれども、かってのUSAのヴェトナム戦争に対する侵略はいまだに許せない」
と。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
REMEMBER3.11