馳浩文部科学相が「(国歌を斉唱しないと表明したのは)国立大学としてちょっと恥ずかしい」と述べた話題。
*
氏は1984年3月 - 専修大学文学部国文学科卒業
1984年4月 - 母校、星稜高等学校の国語科(古典)教諭に就任
1984年7月 - ロサンゼルスオリンピックのレスリング・グレコローマンスタイルのライトヘビー級で出場、予選敗退した。
1985年8月 - 星稜高等学校を退職、ジャパンプロレスに入団
1987年 - 新日本プロレスに移籍。在籍中にIWGPジュニアヘビー級王座、IWGPタッグ王座を獲得する等活躍。道場では若手レスラーのコーチを務めた。
1995年7月 - 自由民主党幹事長の森喜朗にスカウトされ、第17回参議院議員通常選挙に石川県選挙区から自民党の推薦を受けて無所属で立候補し、民主改革連合現職の粟森喬を破り初当選する。当初は会派「自民党・自由国民会議」、2か月後に自民党総裁選で小泉純一郎の推薦人名簿に名を連ねるために正式に自民党所属国会議員となった。
1984年4月 - 母校、星稜高等学校の国語科(古典)教諭に就任
1984年7月 - ロサンゼルスオリンピックのレスリング・グレコローマンスタイルのライトヘビー級で出場、予選敗退した。
1985年8月 - 星稜高等学校を退職、ジャパンプロレスに入団
1987年 - 新日本プロレスに移籍。在籍中にIWGPジュニアヘビー級王座、IWGPタッグ王座を獲得する等活躍。道場では若手レスラーのコーチを務めた。
1995年7月 - 自由民主党幹事長の森喜朗にスカウトされ、第17回参議院議員通常選挙に石川県選挙区から自民党の推薦を受けて無所属で立候補し、民主改革連合現職の粟森喬を破り初当選する。当初は会派「自民党・自由国民会議」、2か月後に自民党総裁選で小泉純一郎の推薦人名簿に名を連ねるために正式に自民党所属国会議員となった。
*
もちろん履歴に国立大学との接点はない。当然出身校である、専修大学では歌っていたのだろう(いやそんなはずはないかその経験知を途中で捻じ曲げているんだ)
氏には謹んで悪魔の辞典から
「愛国心」は「ならず者の最後の拠りどころ」と提議されている。
賢明ではあるが誉められない辞書編集者に対して、払うべき敬意は払いつつも、それは考えあぐねた「最後の」拠りどころではなく安直な「最初の」拠りどころであると訂正させていただきたい。
がふさわしい。
REMEMBER3.11
不断の努力「民主主義を守れ」