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未完結の「否定」 加藤展洋「村上春樹は、むずかしい」

この本で著者は
村上春樹の「ノルウェーの森」と夏目漱石「こころ」は同種の語りの構造、主題でつながっている。
韓国の読書人、知識人の間では村上は野球帽をなかなか脱がない「若造り」な小説家とみられている。村上春樹はもちろん夏目漱石を含む太宰治川端康成永井荷風谷崎潤一郎などと並ぶ日本の近現代の文学の山稜に連なる知的内蔵量膨大な端倪すべからざる文学者 村上は日本の純文学の高度な達成の先端に位置する硬質な小説家の系譜に連なっている。違うのは彼が同時に国内で大衆的な人気、海外での評価、人気をもかちえている、という文学的に無視できないが最重要ではないただ一点だけである。
と書き始めた。
ここはちがうと思った。こころの先生が裏切ったという罪は「門」で宗助として世間から離れひっそりと彼ら夫婦は山の中にいる心を抱いて、都会の崖の下に住むことになるのだ。
「二人は呉服屋の反物を買って着た。米屋から米を取って食った。けれどもその他には一般の社会に待つところの極めて少ない人間であった。かれらは社会の存在を殆ど認めていなかった。彼らにとって絶対に必要なものは御互いだけで、その御互いだけが、彼らにはまた充分であった」
今の世からみれば隠遁というような生活を世間から強いられたところまでを漱石は描いたのである。

また村上春樹村上龍を比較し
村上春樹の「風の歌を聴け」はいわば小さな台風、明らかに才能、資質の点で村上春樹をしのぐ村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」を大きな台風ととらえ、なぜ小さな台風=村上春樹がその後日本を代表するような小説家に育っていくのか。ひとつは日本の戦後の文学史に現れた最初の、自覚的に「肯定的なことを肯定」=「否定性を否定」する作品だった。国家なるものを否定すること、富者なるものを否定すること、現代の社会を構成している理不尽なるものを否定すること。そしてその否定性の否定が作品のなかで「悲哀を浮かべている」ことだ、70年代の終わり、時代は変わり無自覚に肯定的な気分が社会に支配的となっていったと書く。

村上龍が堕落したのはテレビに出すぎた、いやテレビを見たからだろう。当時村上龍はその濃い顔を見ない日がないくらいテレビに出ていた。(当時は私もテレビを見ていた)
村上春樹の「悲哀」もまだ色濃くは浮かべていないのだがな・・(そこをU先生は強く批判するのだろう)

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この本後半に
1Q84は2009年にbook1・2が刊行され、2010年にbook3が刊行された。読者はこの小説に完結していないという「未了性」を持つと書く。その未了性は、一時期の「正義」に身を任せて人を殺害した人間が、その「正義」を離れたあとどう生きることができるかを語る小説が、はじまったばかりでとまっているからである。そして推理する村上春樹はbook4を途中まで執筆していたのではないか。2009年2月のエルサレム賞受賞スピーチで明かされた08年に起こった父親の死により1Q84book3の結末が、主人公が死の床にある父への自己告白で終わるまでにいったん変えられた。そこへ2011年東日本大震災が起こり、さらにbook4の刊行意図を取り下げさせた、と。
その後「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」主人公が20歳の時に起こった「ほとんど死ぬことだけを考え」る過酷な経験から16年後回復を目指しその淵源に立ち戻る彼の試みを描く。これがちょうど地下鉄サリン事件阪神大震災から東北大震災の16年と重なると書く。多崎つくるがその深い傷をいやされることを求めてフィンランドのを訪れる。フィンランドといえばオンカロがある地だ)
著者はこのように読み、そこ(近未来)では漱石にたとえたさらなる「大きな主題」が書かれると予想する。なら納得。村上春樹の否定は未完成なのである。
「父」「中国」「世の潮流にさまよう」小説なら読んでみよう。いやそうでなくとも読むか・・

 

 

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