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権力者の素顔 上

権力者の素顔

大いに頼りないが、我が国の最高権力者菅義偉の通った道を知っておこう。(文中敬称略)

 

1948(昭和23)年12月6日、菅義偉は秋田県雄勝郡秋ノ宮村(現湯沢市秋ノ宮)に父親和三郎と母親タツの間に第二子(長男)として生まれた。

父親和三郎は尋常小学校卒業で満州へ開拓団として渡り、敗戦後は故郷に帰った。

秋田に帰ってからは稲作ではなくいちご栽培専業となり、ニューワサという品種を全国的に販売し、町の町議も務めた。

母親タツは小学校の教師であったが結婚を機に退職した。

義偉には二人の姉と弟がいる。二人の姉は共に教師となっている。

菅 義偉 元官房長官・現総理 経歴
年齢 1948年生まれ
15 高校入学 1963 湯沢高等学校 高校
18 高校卒 1966 同校
25 大学卒業 1973 法政大学 大学
第一部法学部
38   1987 横浜市議 西区
46 衆議院議員 1996 衆議院議員 初当選 自民党
(以降8期連続当選
57   2006 総務大臣 内閣
58   2007 神奈川県支部連合会長 自民党
65   2014 内閣官房長官 内閣
71   2020 内閣総理大臣 内閣

権力者のプロフィールから

自身が伝える経歴1

私は秋田県の農家の長男坊として生まれ、中学の修学旅行でマリンタワーや氷川丸に乗ったのが横浜との最初の接点でした。

高校卒業後家出同然で上京、さまざまなアルバイトをしながら法政大学を卒業、 民間企業に就職し社会に出てみて、世の中を動かしているのは政治だと志をたてました。

伝手もないので母校法政大学OB会からのご縁で、 横浜の故小此木彦三郎議員の秘書として政治の世界に入りました。

中学の時に驚きの目で見た横浜で自分が職住するとは思ってもみませんでした。

秋田の雪深い田舎であっても菅家は祖父の喜久治が電力会社に勤めていたこともありそれほど家計が苦しかったようでもない。

菅家では冒険王という月刊の漫画雑誌が毎月配達されていて、級友たちは菅家にたちより冒険王を読んでいた。

高校卒業後上京する。

ここではだめだ「東京へ行けば何かが変わる」と秋田から逃げるように上京した。

しかし結果秋田時代と変わらぬ日々を板橋区の段ボール工場で過ごし、現実の厳しさを痛感して2ヶ月で工場を退職。

それから約2年後に法政大学に入学するまでの経緯については、報道によって食い違いが見られる。

朝日新聞記者の大鹿靖明が2009年に菅の両親に取材を行った際の記録によれば、工場を退職した菅は秋田の実家に戻り、大学進学を目指して受験勉強を始め、1969年法政大学に入った。

彼の出身学部が法学部か法学部(第二部)か、(本人の弁も含め)錯綜しているが、ここでは最初に見つけた第二部を採用した。

2020年9月16日付の法政大学HPに第一部法学部を卒業との発表があったので訂正します。

他意はない。

一説に菅は母親(タツ)や二人の姉の影響で教師になりたかったのだといわれる。

しかし教師になりたいという考えがもし菅の中にあったとするならば、後日ASEANをアルゼンチンなどという初歩的な常識を間違うような教養不足になるわけはない。

人を教えるということには少なくとも人並み以上の教養が必須なのだ。

その後菅自身も語っている。「母や姉だけではなく、叔父や叔母も教師だったので教師にだけはなりたくなかった。かといって農業を継ぐのも嫌でした」

何をするのも嫌になる年代というものがあるとするなら、この時期がそうだったのか。

法政大学学生の頃は空手に打ち込んだ。

1973年法政大学卒業後いったん建築設備会社株式会社ケーネスに入った。

その後ここではだめだと思うようになり、改めて法政大学の就職課に相談、法政大学OB自民党中村梅吉事務所を紹介され入所した。

ところがその後中村梅吉が突然体調を崩し選挙を諦めたので、予てからの知り合いであった同じ自民党の小此木彦三郎事務所に移籍秘書となった。

自身が伝える経歴2

38歳のとき、横浜市西区から市議選に立候補しました。

当時自民党は77歳の長老市議が息子に地盤を譲る予定でしたが、その息子が急死したのです。

私は不遜ながらもこれをうけて出馬を決意しましす。

ところが、引退表明していた長老市議が翻意し、再出馬の意向を表明しました。

すると自民党関係者からも私の出馬は反対されました。党の古い体質を見た気がしました。

私は妻と三人の子を抱える中で出馬し、世代交代を訴えて初当選しました。

人生の中で決断をする時期は当然あるだろうが、38才妻子をかかえて職を投げうって自民党の長老市議に対抗し立候補する、なまじっかな決意ではできない。

選挙の様子はどうだったのか。

1987年当時の横浜市西区選挙区有権者数は男性30615人、女性30560人、計61175人で横浜市として最も小さい選挙区だった。

そして投票率は男性56.82%、女性63.65%、計60.23%。

横浜市全域55.31%に比して高い投票率だった。

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当時の選挙公報を見てみると、

「読めるから話せるへ、小学生からの一貫した英会話教育の実践。」

菅義偉略歴
●昭和23年12月6日生
●法政大学法学部卒
●小此木彦三郎代議士秘書(現在に至る)
●通産大臣秘書官(世界各地での国際会議に出席
●趣味 スポーツ(空手2段) 釣り
●家族 妻、長男(5歳)次男(3歳)三男(1歳)

なんてことが書いてある。一応国際派だ。

国内で第二の大都市横浜市といえども1987年当時はこのような選挙公報が主流だったのかもしれない。

小学生からの英会話とうたっている割には、ご自身の英語はほとんど意味をなさないようだし、日本語の実力も並み以下だと思える。

その例

我らが誇る「権力者」の知性2020年の出来事菅義偉首相が26日の所信表明演説で、新型コロナウイルス対策を巡り医療資源を「重症者に重点化します」と言うべきところを「重症者にゲンテン化します」と言い間違える場面があった。
 野党席から、やじも飛んだ。
閣議決定された原稿と共同通信が照合したところ、衆参両院本会議でそれぞれ行った演説中に計6カ所のミスが確認された。
 衆院本会議では「減点化」に加え「薬価改定」を「薬価改正」と間違え、「打ち勝った」の「打ち」を読み飛ばした。
参院本会議では「重症化リスク」の「化」を抜かしたほか、「貧困対策」とすべきところを「貧困世帯」、「被災者」を「被害者」とした。

 菅義偉首相が19日のベトナムでの演説で、東南アジア諸国連合「ASEAN(アセアン)」を「アルゼンチン」と言い間違える一幕があった。

28日からの代表質問では自身のブレーン、小西美術工藝社のデービッド・アトキンソン社長の名前を「アトキンシンソン」といい間違えた。


1987年横浜市議会議員選挙の結果は以下の通り。

1987(昭和62)年 横浜市会議員選挙 西区 定数2名
順位 所属 候補者名 得票数 職業 結果
1 公明党 後藤洋一 9584 市議会議員 当選
2 自民党 菅義偉 8813 衆議院議員秘書 当選
3 日本社会党 常盤栄司 8158 建築総合企画  
4 民社党 金子勝雄 7855 市議会議員  
5 日本共産党 本田満(川辺満) 1999 団体役員  

これを見ると本人の説とは異なり自民党の長老は立候補していない。

多分最終的には自民党県連で調整が入ったのだろう。

ブログでは

しかし彼のブログでは

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菅義偉ブログ https://www.sugayoshihide.gr.jp/profile3.html より

「現職は自民党の有力議員」なんて書かれている。

(ちょっと誤解を生む書き方だ。子供の年齢も違っている。選挙公報とブログどちらが正しいのか?)

そして2回目1991年は以下

1991(平成3)年 横浜市会議員選挙 西区 定数2名
順位 所属 候補者名 得票数 職業 結果
1 自民党 菅義偉 12104 市議会議員 当選
2 公明党 後藤洋一 9565 市議会議員 当選
3 日本社会党 菅沢さとし 5329 会社員  
4 民社党 金子勝雄 3947 市民生委員  
5 神奈川県維新 菅野政明 633 大日本正義国修会  

得票数も伸び前回一位だった公明党を逆転しトップとなった。

この二回の市議会選挙を経て1996年衆議院議員となる。以来当選は8回を重ねる。

 

 

「イヴァンよお前にやる花はない」プラハの花屋

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