紙つぶて 細く永く

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ある公立高等学校の変遷3 1955年の通学区

1949年から1952(昭和24-27)年の通学区を見てきたが、1953年から1954年の資料がない。

次に1955年の全体通学区が以下になる。

図中の実線は1950年から現在までの鉄道路線京都市内には市電が走っている。

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1953年に洛東高校が創立され、以下現在の左京区川東地区、東山区の一部、山科区伏見区東部にあたる地区が洛東高校の通学区となった。

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1955年(昭和30)洛東高校の通学区 左京区川東地区、東山区北部、山科区


ついで各学校の通学区を見て行こう。

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1955(昭和30)年鴨沂高校通学区 左京区南部と洛北高校の通学区を除いた左京区北部

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1955(昭和30)年洛北高校通学区 左京区中部

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1955(昭和30)年紫野高校通学区 北区と上京区北部

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1955(昭和30)年山城高校通学区 北区南西部と中京区北西部、上京区北部

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1955年(昭和30)嵯峨野高校通学区 現在の右京区と北区中川・小野郷地区

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1955(昭和30)年西京高校通学区 中京区西部と上京区南部、右京区の一部

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1955(昭和30)年朱雀高校通学区 上京区全体、中京区北部、北区一部

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1955(昭和30)年堀川高校通学区 中京区と下京区北部

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1955(昭和30)年日吉ヶ丘高校通学区 中京区一部と現在の東山区

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1955(昭和30)年伏見高校通学区 下京区南部、南区東部と伏見区北部

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1955(昭和30)年洛陽高校通学区 南区西部

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1955(昭和30)年桂高校通学区 現在の西京区と南区

 

この辺りで高校の変遷を整理しておこう。
戦後の教育制度改革で一旦旧制の以下中学校は下記の様に新制の各高等学校として発足された。

1948(昭和23)年4月開学した京都市内の公立高校
                       旧制嵯峨野高等女学校
                       旧制伏見女子商業学校
                     旧制城巽第二女子商業学校
    京都市立藤森高等学校        旧制私立菊花高等女学校

(後日追記)この新制高校設置に伴う困難は想像以上のものだった。下記参照

誰が学校を建てたのか その3 「文部官僚の号泣」 | 甲斐良治の「食と農の底力!」

しかし急きょ設置された上記高等学校も、新制中学の校舎不足に伴っての校舎明け渡しやGHQ京都軍政部からの指示もあり、上記多くの高等学校は再編された。変遷図については以下の図参照

公立高校変遷図 京都府立編.pdf - Google ドライブ

公立高校変遷図 京都市立編.pdf - Google ドライブ

1948年の公立高校は以下30校

洛北高等学校・鴨沂高等学校・洛南高等学校・山城高等学校・双陵高等学校・桃山高等学校・柏原高等学校・伏見商業高等学校・桃山女子高等学校・伏見高等学校・桂高等学校 ・朱雀高等学校・二条高等学校・城南高等学校・鳥羽高等学校・堀川高等学校・中京高等学校城陽高等学校・城巽商業高等学校・専修高等学校・西京高等学校西陣商業高等学校 ・御池商業高等学校伏見工業高等学校・四条商業高等学校・深草工業高等学校洛陽工業高等学校・九条工業高等学校・美術高等学校・藤森高等学校

そして1949年4月には公立高校は以下の12校となった。

洛北高校(修正記載)・鴨沂高校山城高校・朱雀高校・桃山高校・堀川高校西京高校・日吉ヶ丘高校・洛陽高校・伏見高校・桂高校・城南高校

ある公立高等学校の変遷4 に進む1965・75年の通学区 - 紙つぶて 細く永く

ある公立高等学校の変遷2 に戻る1950-52年の高校通学区 - 紙つぶて 細く永く

 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

高雄まで

11月19日紅葉を求めて保津峡から高雄まで散策。

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保津峡駅の紅葉

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水中紅葉

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清滝

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台風の影響か倒木がある

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食事も一杯

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おなじみ杉並木

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ぽつんとつがいの鴨

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高雄に近づいてきた

 

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真言宗神護寺

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やはり赤の深みが違う

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REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

ある公立高等学校の変遷2 1950-52年の高校通学区

かって「15の春は泣かせない」というキャッチコピーの高校通学区制度があった。
住居地によって通学できる複数の公立高校で入学者を振り分けられる高校入試制度が総合選抜制度。
しかし京都では西の文部省ともいわれた京都蜷川府政でさらに厳格に、居住地から通学できる高等学校は1校となる「小学区制」が1985年まで実施された。
その制度による新制高等学校発足1949年の京都市内高校通学区地図が以下の図。

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各高校への通学区を色分けした。(醍醐地区は不明)

高校は市内に集中している。15才になる人口を小学校校区毎に分けて通学高校を分けている(図で色分けした)。地図中の高校名称は現在のもの。

 そして翌1950年の通学区は以下に変更された。下図は全体図

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混乱の中で1949(昭和24)年通学区を決定したが、1950年の通学区はさらに混乱し、1年、2年、3年でそれぞれことなる学校への通学ともなった。これは1年の時に通った高校と異なる高校に2年生として通学するということでもあり、市民保護者からかなりの苦情もでたようだ。

1950(昭和25)年の京都市公立高校通学区
下図は1950年鴨沂高校洛北高校にかかる通学区 洛北高校については戦後すぐ校舎を新制中学に明け渡し、鴨沂高校内に間借りをし両校合わせて3000名以上の生徒が昼夜の2部制授業で開校した。 そのため1949年には洛北高校通学区がなかった。1950年からは元の府立第一中学校舎となり洛北高校としての通学区となった。
下記グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。

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次に1950年山城高校洛北高校の通学区 グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。

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こちらが1950年山城・嵯峨野・西京高校の通学区 グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。

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次に1950年桂・西京高校通学区 グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。

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1950年堀川・朱雀高校通学区 グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。

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1950年日吉ヶ丘高校通学区 現在の東山区山科区

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そして1950年伏見・桃山高校通学区 グラデーション部分は学年によって通学区が異なっている。

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1951(昭和26)年は通学区変更がなかった。
1952(昭和27)年には混乱した通学区からの反省か全学年同じ通学区となった。

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これ以降左京区北部久多や広河原、花脊が京都市内への通学区として組み入れられた。1952年は洛北高校の通学区となった。この距離では多分下宿しないと通えなかっただろう。
 そのため高校入学を機に一家あげての離村等もあったようだ。1975年の調査による離村状況についての資料(坂口 慶治「京都市近郊山地における村化の機構と要因」以下URL )が詳しい。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/27/6/27_6_579/_pdf

京都市では、このような事情もふまえ小野郷地区と左京区北部地区(久多や広河原、花脊)から該当する高校へ通学する生徒向けとして、1968年に右京区花園に市の施設「北辰寮」が設けられた。(1995年に廃止 注1)

(注1)現在京都市では北辰寮廃止に伴い、花脊中学・宕蔭中学地区の生徒が市内に下宿する場合の補助金制度がある。下記参照

http://www.city.kyoto.lg.jp/kyoiku/cmsfiles/contents/0000184/184749/24hekiti.pdf


1952(昭和27)年の京都市公立高校通学区

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1952(昭和27)年鴨沂高校通学区 左京区南部と上京区の一部、それに山科区が加わった。

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1952(昭和27)年洛北高校通学区 左京区北部から中部

1952(昭和27)年4月に京都市によって紫野高校が開設され通学区は以下となった。

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1952(昭和27)紫野高校通学区 北区全般

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1952(昭和27)山城高校通学区 北区一部と右京区の一部

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1952(昭和27)嵯峨野高校の通学区も広大になっているが路線バスがある。

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1952(昭和27)朱雀高校通学区 中京区全般

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1952(昭和27)堀川高校通学区 上京区と中京区

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1952(昭和27)日吉ヶ丘高校通学区 東山区

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1952(昭和27)伏見高校通学区 下京区南部、南区東部、伏見区北部

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1952(昭和27)年洛陽高校通学区 下京区南部と南区

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1952(昭和27)年桂高校通学区 現在の西京区と南区の一部

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1952(昭和27)年桃山高校通学区 北部を除く伏見区

出典:政府統計の総合窓口(e-Stat)(http://www.e-stat.go.jp/

 

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REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

民衆に寄って

「10月27日、州議会による一方的な独立宣言に踏み切り、中央政府から解任されたプッチダモン前州首相は 「フランコ独裁以降、最悪の攻撃」と語り、歴史的な「恨み」の構図をラホイ首相と自分との関係になぞらえた。
州庁舎前のデモに加わっていた事務職の女性(22)は「曽祖父がカタルーニャ語を話したことで投獄された。
フランコ時代の圧政が繰り返されないためにも独立すべきだ」と語気を強める。
だが、私がバルセロナの街中を歩いて感じるのは必ずしも独立への熱気ではなかった。 むしろ、独立の是非をめぐって深まる社会の分断だった。
州議会では議員の過半数を独立派が占めていたが、最新の世論調査でも独立支持は49%にとどまる。
カタルーニャ語母語とするのは州人口の約3~4割。 そんな現状にもかかわらず、独立派が主導する州の公教育ではすべての教科がカタルーニャ語で教えられ、 スペイン語の授業は週2、3時間だけしかない。」
(ヨーロッパ総局長・石合力)

カタルーニャ民族主義の専門家で、独立に反対する大学教授ハビエル・バライコアさん(54)は 「カタルーニャフランコ時代も経済発展を続け、その当時も多くの人が彼を支持していた。
住民の迫害意識は、州のテレビのプロパガンダや公教育によって高まった面もある」と指摘する。
カタルーニャ民謡「鳥の歌」は、強い抵抗の意思をにじませて高音に向かう旋律と、半音で悲しげに下降する旋律を繰り返す。 フランコ政権下のスペインでの演奏を拒んだカタルーニャ生まれの大チェリストパブロ・カザルスが71年、 ニューヨークの国連大会議場で演奏。
カタルーニャの鳥は『ピース(平和)』と鳴く」という演説とともに世界に知れ渡った。
異なる文化圏やジャンルの人々にこの曲を自由にアレンジしてもらう 「連歌・鳥の歌」プロジェクトを展開した作曲家の井上鑑(あきら)さんは「カタルーニャ人のたくましさと繊細さ、 他者の気持ちを察する心の機微が、この旋律に映し出されている」。
フランコ政権下で姿を消したかと思われたカタルーニャ語も、人々が日常生活で丁寧に使い、 公用語として子供たちに伝える努力を続け、歴史的な復活を遂げた。文学にも勢いがある」
編集委員吉田純子

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同じ日に上記二つの文章が掲載された。一方は「カタルーニャ語母語とするのは州人口の約3~4割。しかし独立派の教育ではすべての教科がカタルーニア語で教えられ」と説く。
もう一方は「フランコ政権下で姿を消したかと思われたカタルーニャ語」と説く。
どちらが真実を捉えているのだろう。歴史的経緯によって事実は異なる面をも見せる。私はフランコによるスペインの悲劇を少なからず知ったので、下記のようなさらなる一説に同意する。

スペインにおける言語状況と言語教育 川上 茂信事情を知らない日本人ならカタルーニャ語バスク語スペイン語の「方言」であると思うかもしれない。
実際、フランコ体制下(1939-1975)で は「言語」と呼べるのはカスティーリャ語のみという考え方がとられ、同時に他の言語が弾 圧され、スペイン語の「カタルーニャ方言」などという言い方が使われたりしたのだが、現 行憲法が依拠しているのは、それとは異なる見方である。
つまり、フランコ時代に唯一の 「言語」とされ「スペイン語(lengua española)」の名を独占してきた言語は、他の言語と 対等のひとつの言語に過ぎず、したがって「カスティーリャ語」と呼ぶべきだという主張 と、カスティーリャ語は既に旧カスティーリャ王国の言語なのではなくスペイン全体の言語 であり、したがって「スペイン語」なのだという伝統的な考え方の対立が背景にあり、折衷 案として出てきたのがこの条文の表現なのだ。
そのため、言語名は「カスティーリャ語」だ がそれは「(公用)スペイン語」であるという分かりにくい言い回しが採用されることにな った。

参照:http://www.tufs.ac.jp/common/fs/ilr/EU/EU_houkokusho/kawakami.pdf

それにしても「鳥の歌」はいい

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

ある公立高等学校の変遷1 1949年の高校通学区

母校の同窓会が開かれることになりその歴史を調べようと思った。
しかし調べ始めると、京都というところは教育史的に見て日本全国でも大いなる存在となっていることが改めて分かった。(一部新しく判明したところ修正)
特に小学区制・総合制・男女教学という「高校三原則」を巡っては教育学的にも大変研究されているのだが、その評価を巡っては様々な意見がある。多くの府県が賛同し取り入れたが、結果巧く機能しないところが多く最後まで京都に残った。

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「公立高校入学者選抜政策の比較分析」より

そして行政文書を紐解くと、かねてから一般に解釈されている、京都府教育委員会は蜷川府政による「西の文部省」という評価が一面的には決めつけられないという気がしてきた。
それでも京都では先進的に高校通学区の「小学区制」が長い間堅持されてきた。
これはその小学区制を起点にして、進学との関係からながめてみる京都の公立高校の歴史的な流れである。

1945年の敗戦を受けて旧制中学校が廃止され、新制高等学校が発足した。

京都府では高校の正式名称は全部高校ではなく「高等学校」となる。しかし以下では略して「高校」とする。

1948(昭和23)年に下記学校が廃止された。

京都府告示第三百一号左の中学校は昭和23年3月31日限り廃止した。 
昭和23年5月7日 京都府知事 木村 淳

同時に下記学校が新設された。

京都府告示第二百九十九号京都府立高等学校を昭和23年4月1日左の通り設置した。 
昭和23年5月7日 京都府知事 木村 淳
    京都府立鴨沂高等学校 旧校名京都府立第一高等女学校・同嵯峨野高等女学校

その後1949年までの1年ほどの間相当な混乱がおき、各校の分割あるいは統合や学校移転が行われた後に、1949(昭和24)年3月に京都府教育委員会から次のような文書が発表された。

新制高等学校入学希望者取扱について 新制高等学校入学希望者取扱方針
  1. 一般の新制中学から新制高等学校への入学を希望するものについては調査した数に基いて、そのなるべく多くを収容できるよう充分の意を用いる。
  2. 志望者が収容可能数を超える場合には入学者の選抜を行う。
  3. 学力検査、その他選抜の実施に必要な事項は管理委員会において研究審議された結果に基づいて実施する
  4. 定時制課程については、志望者の就職期を待って、全日制に準じて四月実施するが、アチーブメントテストは、この際、受けておくことが望ましい。
新制高等学校入学者選抜要領
  1. 新制高等学校においては選抜のための如何なる検査をも行わず、新制中学校よりの報告書に基づいて選抜する。
  2. 新制中学よりの報告書には次の事項を含む。
    • イ、知能検査の結果、当該学校で行った得点(M・A・I・Q)を記入し実施されていない場合は記入不要
      ロ、公立新制高等学校併設中学校卒業者以外の志望者に対して前記要領によって一斉に実施した結果を記入する。但し特別の事情によって右の検査を受けなかった者は記入を必要としない。
      ハ、教科学習成績 最終学年中に得た総合成績を記入する。但し旧制度による教科過程の修了者については出身学校長の成績証明書をもってこれにかえる。
      ニ、個人的社会的の性格態度発達記録 2月23日公報四教委第363号参照の上個人的社会的(公民的)行動資質の評定尺度に従って記入する。
      ホ、職業的見地よりする性格態度の発達記録 別記評定尺度に従って記入する。
      ヘ、生徒の志望する学科
      ト、身体の発達記録
  3. 学力検査(アチーブメンテスト)は志望者の構成的総合的能力 批判力及思考力を検査できるものを含めて国語社会数学理科の四教科のみにて行う
  4. 報告書の作成に当たっては特に厳正公平に行われなければならない。
  5. 新制中学に於ける進学指導並びに報告書作成にあたっては校内に委員会を構成しその適正を期せられることが望ましい。
  6. 報告書に基づく選抜にあたっては二のロと二のハとは同等の割合で扱いこれに二のニと二のホを合わせ審査することとし二のトについては修学不可能と認められるものを除くほか等差をつける資料としない。
  7. 選抜にあたっては志望者の家庭状況を考慮に入れてはならない。
  8. 新制中学卒業者及びこれと同等以上の学歴ある志望者で特別の事情によって学力検査(アチーブメンテスト)を受けなかった者も出身学校長の報告に基づいて一般の新制中学と同時に選抜する。 但し公立新制高等学校併設中学校卒業者は選抜の対象としない。
  9. 出身学校長は本人の提出する入学願書に報告書を添えて通学区域別に当該新制高等学校長宛に提出する。(入学料については追って通帳する)
  10. 報告書提出期日は自3月25日至3月30日とする。
  11. 報告書の処理入学者の選抜については管理委員会の審議及教育委員会の指示に基づいて当該高等学校において行う。
  12. 入学者の決定は4月10日各高等学校において公示する。
学力検査(アチーブメンテスト)実施要項
  1. 昭和24年度公立五高等学校第一学年に入学を希望する者(公立新制高等学校併設中学校卒業生を除く)に対して新制中学校から提出する報告の一資料として京都府下一斉に実施する。
  2. この学力検査は次の様に実施する。
  3. 学力検査日程
    • イ、受験受付 自3月1日至3月7日
      ロ、検査期日 自3月13日午前9時半
      ハ、検査の結果の出身校宛通知 3月20日までに到着する様処置する。
  4. 出願手続
    • 学力検査受験志願者はさきの1、2の項によってその所属する地方の最寄り高校に学力検査料五拾円を添えて出身学校を通じて手続をする。但し、引揚者及出身学校を通じる事のできない者については受験場高校が出身学校の事務を代行する。
  5. 検査当日必ず持参すべき物品
    • イ、受験番号票 ロ、鉛筆(万年筆は使用しない)消しゴム、ナイフ、上草履
  6. この検査は入学試験でないことを充分生徒に諒解せしめ正常な態度で充分能力を発揮させる様指導されたい。


上記文章では、京都市内については、西京高等学校と鴨沂高等学校が検査会場となっている。
 1949年当時京都市区域の高等学校は、鴨沂高校山城高校・朱雀高校・桃山高校・堀川高校西京高校・日吉ヶ丘高校・洛陽高校・伏見高校・桂高校の10校となっていた。また(このころにはこの10校に普通科が置かれていた)その普通科通学区は小学区制(居住地から通える公立高校は1校)でそのエリアは以下の図になる。

1948年4月に現在の左京区久多・花脊・大原・鞍馬地区等が京都市に編入された。間に合わなかったのか通学区にこれらの地区は掲載されていない。また右京区北部(旧京北町)は2005年の編入となる。

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各校通学区を拡大すると。

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1949(昭和24)年度鴨沂高校(住所:上京区寺町荒神口下ル鴨沂高校通学区


主なエリアは現在の左京区南部と上京区の春日校区、北区上賀茂校区

1949年度山城高校(住所:右京区花園馬代町)の通学区

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1949(昭和24)年山城高校通学区


主なエリアは北区全般と右京区御室、宇多野、飛地は水尾地区

1949年度西京高校(住所:中京区西ノ京中合町)の通学区

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1949(昭和24)年西京高校通学区

主な地区は現在の右京区西京区桂・川岡地区

1949年度朱雀高校(住所:中京区西ノ京式部町)の通学区

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1949(昭和24)年朱雀高校通学区

主なエリアは上京区と北区一部、中京区の一部

1949年度堀川高校(住所:中京区堀川錦小路上ル)の通学区

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1949(昭和24)年堀川高校通学区

主なエリアは中京区から下京区

1949年度日吉ヶ丘高校(住所:東山区今熊野日吉町)の通学区

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1949(昭和24)年日吉ヶ丘高校通学区

主なエリアは現在の東山区山科区全般

1949年度洛陽高校(住所:下京区唐橋大宮尻町)の通学区

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1949(昭和24)年洛陽高校通学区

主なエリアは下京区から南区全般

1949年度桂高校(住所:右京区川嶋三重町)の通学区

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1949(昭和24)年桂高校通学区


主なエリアは現在の西京区南部

1949年度伏見高校(住所:伏見区深草鈴塚町)の通学区

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1949(昭和24)年伏見高校通学区


主なエリアは下京区南東部、南区一部から伏見区北部にかけて

1949年度桃山高校(住所:伏見区桃山町毛利長門城南高校の通学区

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1949(昭和24)年桃山高校通学区城南高校通学区


主なエリアは伏見区全般 旧久世郡となる一部(緑色)は城南高等学校通学区
羽束師(村)久我(村)1950(昭和25)年編入、淀(町)1957(昭和32)年編入、この区域は編入されるまで京都市外で城南高校が通学区。
注)現時点で1949年度醍醐地区の通学区は不明(近くであれば桃山高校か日吉ヶ丘高校)


また京都府下についても下記通学区が決められていた。

高等学校通学区 城南高等学校 宇治郡、久世郡、綴喜郡
津高等学校 相楽郡
亀岡高等学校 南桑田郡
北桑田高等学校 北桑田郡
園部高等学校 船井郡、東梅本村、西梅本村、八木町、吉富村、富本村、新庄村、
麻気村、園部町、川辺村、世木村、五ケ荘村、胡麻郷村
須知高等学校 船井郡の中、園部学区以外
綾部高等学校 河鹿郡
福知山高等学校 福知山市天田郡
河守高等学校 加佐郡(由良村、神崎村、八雲村、岡田下村を除く地区)
西舞鶴高等学校 舞鶴市(西舞鶴)、加佐郡(由良村、神崎村、八雲村、岡田下村)
舞鶴高等学校 舞鶴市(西舞鶴以外の地区)
宮津高等学校 与謝郡
峰山高等学校 中郡
網野高等学校 竹野郡
久美浜高等学校 熊野郡

参考資料:「京都府教育史」

出典:政府統計の総合窓口(e-Stat)(http://www.e-stat.go.jp/

ある公立高等学校の変遷2に進む 1950-52年の高校通学区 - 紙つぶて 細く永く

 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

交通マナーをよく考えると

何十年も前のことだが、アルバイトで下請け4トントラックの横乗り助手をしていたことがある。このトラックの運転手はいわゆるひとり親方で自身の車を持ち込んで企業の配送を請け負うという仕事だ。まだ30才そこそこだったがディーゼル4トン車をすごく扱いなれていた。朝早くに集荷し、その荷物を数十キロはなれた所数か所に納品をするという仕事だった。この運転手(=師匠とよびたい)がすごく運転が「巧い」。スピードは決して速くないが、右左の視野も広く、周囲の状況に応じて自在に車を操る。多くの事を学んだ。
アクセルワークももちろん急発進などはしない、オートマチックではないがギヤチェンジを感じさせないシフト切り替えで、円弧を描くように徐々にスピードを上げ、そして余裕をもって徐々にスピードを落とし、信号停止をする。
あるとき一度、割り込みをされたことがあった。朝の早い時間で、出勤に急いでいたマイカーだったのだろう。そこで、この師匠が激怒した。急にスピードを上げ、マイカーに追いついた。そして片側2車線の国道でバトルが始まった。まず、師匠が幅寄せし、相手が逃げる。次に相手が幅寄せし、師匠がよける。この時は師匠が左車線、相手が右車線だったので相手に不利な状況だった。なぜかというと師匠は4トン車で高い運転席から右下(ほぼ真下)を見下ろし、相手ボディとの間隔を確認できる。しかし相手は助手席側なのでフェンダーミラーでの確認となる。でもこの運転手も巧かった。お互いに5センチくらいの感覚まで、くっつきははなれ離れては寄せというゲームが数キロは続いた。
結局、お互いに急ぐ立場で、接触もなく分かれた。

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公道を走っている運転手には2種類の運転手がいる。巧い運転手と、下手な運転手だ。これは初心者とベテランでもいい表せない、区分だ。
自身が巧い運転手か否かを知ることで、後ろに追いつかれたら横に避けるか、前方の車に追いつくように努力するか判断できる。
大半は横に避ける方が正しいと思う。スピード違反をしてでも早く行きたい車がいるのだ。横によけることが交通マナーの基本だと思う。

 そして問題は交通マナーを守らない車にどう対処するかということに尽きる。
車で走行しているということは他の運転手に直接声をかけられないということになる。チョット荷台から積み荷がはみ出ていますよ、ストップランプが切れていますよ、そして「すんません急ぐので先に行かせて」等々
昔は年間3万キロ程度車を運転していた。その経験から煽られるのはその原因を作っていないか?と自問することも必要。
運転経験から割り出したことは、車の運転中は前方6割後方4割(慣れれば前後双方で半々かな)の注意を払う、ということ。
友人が言った、「なぜ渋滞の先頭は軽トラックなの」
つまり後車の動向に充分注意を注ぐということだ。後ろを見ることで私より急ぎの車でないかとか、追突に対する注意、車間距離がないなら急ブレーキを踏めないなどを心掛けられる。
走行中に感じた交通マナーを守らない車は以下のような感じだ。
対向車線をハイビーム=ライトを上げたまま通過する車両、
それ以上に困るのは対向車線に車がいないときに後ろをハイビームのまま追尾する車。半分はミラーで後ろを確認するのでまぶしくて仕方がない。
先頭に立って制限速度以内で走る車(安全誘導しているのだろうパトカーもしかり)、
車の運転中に流れについて行けなくて、前車との車間距離を極端にあけて走る車、
かつ頻繁にブレーキを踏む車、

そんな時に車の後部に電光掲示板でもあり、後続車と対話ができる、なんてことを夢想した。「ライトがアップですよ」とか「接近注意」とか「ありがとう」
現在の日本では急いでいるときにはまず車での移動となる。つまり急いでいる人はほぼ車を運転している、そこで交通マナーが必要となる。
現実的に制限速度を厳守して走行している車は多数ではない少数だ。
そこで自身ゆっくりと走りたいという運転手は絶えず後方への配慮を欠かさず、もし後続に急ぎの車があれば左へ寄り停車し、後続車を先に行かせる、これで煽られることもない。
念のため。よく後続車を先に行かせるために左へ寄るだけで停車しない車があるが、これはあまり意味がない。追い越し禁止の車道では、左へ避けても走行中の車を抜くことは「追い越し禁止違反」になります。必ず左へより、ブレーキを踏みストップランプを点灯させること。

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

命名の知性

改めて調べながら先人の命名の知性に感動する。
下記一覧は全部京都市内の小学校名。

翔鸞 安寧 正親 植柳
松陽 郁文 生祥 成徳
水尾 鳳徳 醒泉 崇仁
明親 修徳 待賢 立誠
明倫 開智 稚松 竹間
有隣 格致 貞教 陶化
楽只 教業 宕陰 銅駝
龍池 光徳 桃薗 富有
安朱 山王 梅逕 永松
嘉楽 淳風 梅逕 納所
乾隆 祥栄 豊園 初音
修道 尚徳 弥栄 梅逕
成逸 祥豊 有済 美豆
聚楽 待鳳 松尾 本能

隣りの町にドーナツ状に囲まれた町

誤解を生みそうなタイトルでスミマセン。訂正です。この町は京都市北区にある町で、地方公共団体、市町村の「町」ではありません。

GISで入力していて、最初はバグかと思っていたが、いろいろ調べてわかった。京都北区中川にある真弓八幡町は周囲をぐるっときれいに真弓善福という町に囲まれている。

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(国土数値情報を元に加工)

また、その真弓善福は国勢調査で人口0、真弓八幡町に7人となっている。真弓善福はほぼ山であり、その中に真弓八幡町の集落がある。それならなぜ分ける必要があったのか不思議だ。

 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

そんな中edanoコールが響き渡り

まだ、思考が停止している。

現下の厳しい国際情勢に鑑み、現行の安全保障法制については、憲法に則り適切に運用する。その上で不断の見直しを行い、現実的な安全保障政策を支持する
この一文を含む「政策協定書」(踏み絵)にサインした主が、この文書は今までの主義主張となんら矛盾するものではない、なんて詭弁を弄している。懲りない面々だなあ。
 特にその党代表である、小池百合子氏は幸福実現党とも波長が近いこと
( 仮面の右翼 - 紙つぶて 細く永く )を考え合わせると、「憲法に則り適切に運用する。その上で不断の見直しを行い、現実的な安全保障政策を支持する」なんてことは行われなくて、「(この法案は)憲法に則っており適切だ。見直しはまあ先にして、現実的な安全保障政策としてより推進する」となるのは目に見えている。
こんなまやかしが通用するならば、取り調べにおける自白調書なんて公判の中では浮いたものだし、特高警察によるかっての「転向」なんて悲劇はありえなかった。

人間は何のために真理を追究してきたのか・・
1-1=0という常識を理解しないまたは無視する人に論理的な説明なんてできないことだ。2というのは1と1を足したものという定義から2が成り立つ。

  • 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  • 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

    f:id:greengreengrass:20171027140103j:plain

従来からある内閣法制局としての「違憲です」
という見解に反して、
集団的自衛権の行使
は立憲的に成り立つ、という安倍内閣の詭弁と同様に、

憲法違反の安保法制(安全保障法制)には絶対反対だ!」

「現下の厳しい国際情勢に鑑み、現行の安全保障法制については、憲法に則り適切に運用する。その上で不断の見直しを行い、現実的な安全保障政策を支持する」
が双方自身の主義として成り立つという牽強付会の上にあなたたちは乗っかっているのだ。
なんだ「安倍強権政治を打倒するのだ」なんて派手に非難する割に同じ路線を後追っかけて歩んでいるんだ。

 

小林正弥 千葉大学大学院社会科学研究院教授(政治学

これぞ真の民主主義だ

立憲民主党の選挙運動には瞠目すべきものがあった。枝野代表の演説には、およそ8000人(最終日の東京・新宿)もの人が自発的に集まり、立錐の余地なくつめかけた。人々の輪の中心で低い踏み台に枝野氏が立って、民主主義の理念を諄々と説き、人々は真剣に傾聴して、思わず涙を流す人も少なくなかった。
「上からの政治を草の根からの政治へと変えていく」
「真っ当な政治を取り戻しましょう」
「新しい民主主義を作っていくために一緒に歩んでいただきたい」と水平的に語りかけ、草の根民主主義を説いたのだ。
 この光景は、日本でようやく真の民主主義が本格的に現出した歴史的瞬間ではないだろうか。人々が殺到して枝野コールが響き渡り、初めて選挙演説を聴きに来た人、初めてボランティアになる人がたくさん現れたという。
 政治家が魂の奥底から不屈の信念を語り、理念を訴えるところに、人々の心が共鳴する。演説を聴いて、心が洗われ、希望と勇気を汲み取り、自ら公共的な世界に関わっていく――これぞ、本来の民主主義の理想だ。政治学では参加民主主義とか、草の根民主主義と言う。
 民主主義本来のダイナミズムは、普通の人々が政治に感動し、そこに夢を抱いて、自らそこに関わっていくところにある。アメリカ政治で言えば、J.F.ケネディの、近年ならオバマの選挙運動がそうだった。このダイナミックなエネルギーを立憲民主党はついに日本において解き放ったように見える。

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

excellで空白セルを一度に埋める

エクセルシートで数字を含むセルをコピーすると数字が繰り上がりセルに入る。
こんな具合だ。

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しかし以下のような場合に、空白を直上のセルと同じ文字で埋めたいという場合の方法がWebに掲載されていた。それを備忘録を兼ねてお披露目です。

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1.次の方法で空白セルだけを選択状態にします
キー操作:[Ctrl] + [G]⇒[Alt] + [S]⇒[K] + [Enter]

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2.次に以下で(選択された最初の白抜きセル)にひとつ上の参照を入力します
キー操作:[=]⇒[↑]

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3.最後に次の操作で完了
キー操作:[Ctrl] + [Enter]

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REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」