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「イヴァンよお前にやる花はない」プラハの花屋

歴代天皇陵 遥かなる京都2

陵墓から望む遥か彼方の御所

配流(遠く都へ戻れない地への追放)された天皇の陵はどれくらいあるのか。

調べると時の権力者によって配流された天皇(上皇)は以下。

恵美押勝の乱(764年)、淡路島へ淳仁天皇

保元の乱(1156年)、讃岐へ崇徳天皇

承久の乱(1221年)では隠岐へ後鳥羽上皇、佐渡へ順徳上皇、土佐(のち阿波)へ土御門上皇

計5天皇となる。

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承久の乱1221年

1221年承久の乱平安時代末期の保元の乱や平治の乱により、貴族階級の衰退と武士階級の飛躍的な台頭の後、1185年に初めての武家政権となる鎌倉幕府が成立した。
 東日本を勢力下においた鎌倉幕府と、西日本の支配を保った朝廷による2頭政治となり、朝廷では新興の武家政権への反感が募っていった。
しかし、朝廷にとって身内ともいえる、清和天皇の血を引く源氏将軍が鎌倉幕府を率いている間は武力行使には至らなかった。
 一方、鎌倉では幕府の2代将軍の頼家が1203年に幽閉された後に何者かに暗殺され、その跡を継いだ3代将軍の実朝も1219年に鶴岡八幡宮の前で暗殺され、ここに頼朝以来三代続いた清和源氏将軍が断絶したことになる。
 北条氏が執権職にもかかわらず鎌倉幕府を実質的に手中に収めるに至り、朝廷は、武家政権打倒と日本全土の統治回復を目指すこととなり、1221年に承久の乱が起きた。

しかし後鳥羽上皇が率いる朝廷方は、素早い鎌倉方の進撃(鎌倉方の出陣から京までの進軍に22日間)で、西国の武士の中には上皇の命を受けて京方に参戦するため上洛する前に勝敗が決してしまった事例もあったとみられ、洛中は大混乱となった。

結果朝廷方は北条氏の鎌倉幕府に敗北した。

承久の乱1221年を中心に在位した天皇を年代で表してみる。

1221承久の乱
各天皇数字は生年・即位(・退位・院政)崩御の順
安徳
天皇
後鳥羽
天皇
土御門
天皇
順徳
天皇
仲恭
天皇
後堀河
天皇
1178

2歳

1180

1180
天皇
在位

3歳

1183

7歳

1185

天皇
在位
  1195
  1197
18歳
1198
3歳
1198
院政
20歳
1210
13歳
1210
院政 24歳
1221
5/13
1212
  1218
1221
承久の乱
5/14

41歳
隠岐
配流

26歳
土佐
阿波
配流
3歳
1221
5/13
7/29
9歳
1221
7/29
 
36歳
1231
24歳
佐渡
配流
  14歳
1232
  22歳
1234
16歳
1234
59歳
1239
  45歳
1242

このころは天皇に即位した年齢が2歳や3歳、13歳、そして退位が18歳や20歳、24歳となる。

非常に若くして上皇となっている。

その結果後鳥羽天皇は退位してから(配流になったにせよ)院政が40年ほど続くことになる。

煩雑な執務の実行にあたるより、上皇として天皇に影響力を及ぼす、という院政が好まれているようだ。

より御所に近く

後鳥羽上皇は配流先の島根県隠岐で亡くなり、火葬にされた。

遺骨は西蓮によって京に運ばれ(一部のWeb資料)、京都大原三千院(勝林院)の法華堂に安置された。

順徳天皇も配流先の佐渡で亡くなり火葬とされ遺骨は翌年、藤原康光が持ち帰り上の御堂に遺骨は納められた。注1

土御門天皇は最初に配流された土佐から阿波に移され同所で亡くなり、遺骨は京都長岡の金源寺に移された。

注1 承久の乱の後順徳上皇に従って佐渡に渡った、上北面左衛門大夫藤原康光という人物の出自や、佐渡から戻った... | レファレンス協同データベース

承久の乱で配流された天皇
被葬者 生年 即位 退位 没年 陵墓名称 所在地
後鳥羽天皇 1180 1183 1198 1239 大原陵 京都府京都市左京区大原勝林院町
後鳥羽天皇御火葬塚 島根県隠岐郡海士町海士1500
土御門天皇 1195 1198 1210 1231 金原陵 京都府長岡京市金ヶ原金原寺
高良神社(当初の配流地か)
土御門天皇火葬塚 徳島県鳴門市大麻町池谷字大石
順徳天皇 1197 1210 1221 1242 大原陵 京都府京都市左京区大原勝林院町
順徳天皇火葬塚 新潟県佐渡市真野字林

宮内庁の資料では上記3天皇の亡くなった配流先には火葬塚がある。

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火葬塚までの距離を出すと、順徳天皇火葬塚までが400km、後鳥羽天皇火葬塚までは269km、土御門天皇火葬塚までが148kmとなった。

現在とはことなり、中世では徒歩のスピードが移動時の基本だったろうからこの距離感は相当なものに違いない。

後鳥羽天皇の配流ルート行程と思われるのは以下。

1221年8月2日(承久3年7月13日)幕府武士に囲まれて鳥羽の行宮を出発、8月16日出雲大湊へ着、そこから隠岐へ向かい、8月23日(承久3年8月5日)隠岐国阿摩郡苅田郷に着(wikiより)

陰暦を読み替えると21日間で京都から隠岐に到着したことになる。

吾妻鑑承久3年8月5日には以下のように記載されている。

吾妻鑑8月5日 丙辰 上皇遂に隠岐の国阿摩郡刈田郷に着御す。
仙宮は翠帳紅閨を柴扉桑門に改め、所はま た雲海沈々として南北を弁えざれば、雁書青鳥の便りを得ること無し。
烟波漫々として東西に迷うが故なり。
銀兎赤鳥の行度を知らず。 ただ離宮の悲しみ・城外の恨み、増す増す叡念を悩まし御うばかりなりと。

亡くなった後、遺骨は京都へと持ち帰られ、天皇陵としては京都御所の近くと治定された。

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元弘の乱1331年

後醍醐天皇は承久の乱から110年後に起こった、1331年元弘の乱に敗け翌1332年隠岐に流された。

いろいろ調べていると続いて後醍醐天皇(1288年-1339年)を取り上げた以下興味の湧くページにヒットした。

太平記に書かれた後醍醐天皇後醍醐天皇が隠岐に入るされるまでのルートは「太平記」に書かれています。
1332年4月2日(弘元2年3月7日) 六波羅探題にとらえられていた天皇はこの日、四方輿に乗り隠岐に向けて出発しました。
三方の幕は上げられていたといいますから「みせしめ」的な意味も込められています。
 したがう者は女房3名、それを取りまく警護の武士は数百。
輿は加古川を超えて美作に入ります。 言い伝えでは、この時児島高徳という武士が警護の武士を襲う計画を立てていましたが、道がそれたために失敗に終わったと言われています。
しかし、この話の信憑性には疑問がつきます。

 その後久米(津山)の佐羅山を経て大山を見ながら進んでいます。
1332年4月26日(弘元2年4月1日) 後醍醐帝一行は出雲の八杉(安来)津から三尾(美保)湊へうつり、そこから隠岐に渡航したとあります。
 久米から安来の間は記載がありません。 しかし、常識的に考えるなら出雲街道を通ったと思いますので、以下のルートであったろうと予想されます。
このルート沿いには言い伝えも数多く残っています。
京都-加古川-姫路-津山-
(久米-久世-美甘-新庄-日野-南部-米子)
-安来-美保-隠岐 。

鎌倉時代の勉強をしよう(高校生以上の質問)8 より

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後醍醐天皇配流ルート

京都を4月2日に出発し、鳥取県美保(現在の境港市)到着4月26日まで24日となる。

しかし後醍醐天皇は隠岐でも京都の情勢を手に入れていた。

後醍醐天皇は配流からわずか1年、1333年(元弘3年正慶2年)伯耆の国の豪族名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)を味方に取り込み六波羅探題を攻略、その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。

そして1334年建武の新政新政を開始したが、武士として力を増す足利尊氏との対立が深まりやがては1337年奈良の吉野に立てこもり南朝を設立したが劣勢のまま病に倒れた。

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左奥に如意輪寺 塔尾陵がある

後醍醐天皇は生涯の最後7年ほどの間に 京都-隠岐-京都-吉野と600km以上の転居を重ねたことになる。

最晩年の和歌

事問はん人さへまれに成にけり我世の末の程ぞ知らるゝ

(大意:私と政治の問答を行った廷臣たちさえも少なくなってしまった。我が生涯の残りの命も、もはや知れたものだ)

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