紙つぶて 細く永く

「イヴァンよお前にやる花はない」プラハの花屋

人と組織

(以下引用はいずれも加藤周一夕陽妄語Ⅵ」 1997年1月22日文章より)

私はまた日本国のことも考える。
この国ではいかに多くの政治家や財界の指導者や高級官僚や学者や「メディア」の幹部が、心ならずも、組織のなかで組織からわりあてられた役割を果たしているのだろうか。
別の言葉でいえば、組織と個人を峻別し、当然必要な妥協や策略やごまかしにもかかわらず、個人としての意見・判断・理想・道義感を、組織の立場からは独立して、まもりつづけているのだろうか。
要するにいかに多くの元要人が、間違っていたのはオキナワの大衆ではなく政府であり、神戸の仮設住宅の住民ではなく行政と大企業であった、と他日声明することになるのだろうか。
夏目漱石も示唆したように、道義は国家にではなく、個人にある。
社会を住みよくするためには、組織からの個人の独立、つまるところあらゆる組織への鋭い批判精神が、必要不可欠だと思う。

加藤は1997年新年の、元米戦略軍司令官バトラーの声明について書いた。

この声明は、戦後五十年天下の常識とされてきた、

ー今でも日本を含め大多数の国の政府が公式に主張しているー

「核抑止力」という思想を誤りとし、核兵器廃絶の目標を掲げ世界17か国の元軍最高幹部五十九人からも支持をえた。

個人としての思索と、至るところにある組織の目指すところには大なり小なりの誤差が生じて当然だ。

おして知るべしで、人と組織の間には大いなる葛藤があるものなのだ。

その葛藤をどのように乗り越えるか、

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2019-12-9

私は、心ならずも要職にある個人について考える。
なぜ現司令官は発言しないのか。
組織個人間に根本的な考え方のちがいがないときに、「心ならずも」ということはない。いわんや個人が組織に吸収され、埋没して、個人的意見をもたぬ場合には、そもそも組織個人間に緊張関係が生じないだろう。
個人が組織の考え方に同調できない場合には、個人にとって二つの選択肢がある。
第一、その組織を去ること。原則として発言の自由を得、社会への影響力を失う。すなわち得失相半ばするだろう。またもちろん公的領域を離れて、田園ーもしそれがあればーまたは市井に、隠れることもできる。
第二、組織のなかに、心ならずも、とどまること。
妻子を養い、口を糊するために、それが必要な場合も多いだろう。発言の自由はきわめて制限される。
組織の社会的影響力は強大であるから、組織の行動をいくらかでもみずから信じる方向へ導くことができればーそれは実現しない希望に終わることが多いとしてもー組織の外へ出て影響力を全く失うことよりはマシだろう、と考えることもできる。

面従腹背で名をはせた前川喜平氏のように、この第二の選択肢を探った後に、いつかは職を離れ、そこで初めて個人的意見、みずから信じるところを社会に訴えようとすることもできる。

片方には、公の文章を無きものにするよう指示された官僚は組織の中で、ひとりその罪を被らされ市民から厳しく指弾された。

罪を被った彼のその後の人生は彼にとってどのような思いを抱くものになるのだろうか。

かれの体内にはそこはかとない恨みがあるに違いない。良心をはるかに上回る偽善的価値を得た人間がそこにいる。

世に個人と組織の関係はそれこそさまざまであるが、道徳もかなぐり捨てたような、その人の人間性を疑うような堕落ぶりを見ると 、組織に心ならずもとどまるということも辛いんだと考える。

人生とは云わなくとも自身の過去を振り返った時に、私はこのために生きてきたのか、今まで学んだことは何だったのか、その結果がこれかと愕然とするのだろう。

特に近年公務員がそこまで堕ち込んだ。

彼らは親として、その後継者にどのような教育をするのだろう。

行政を担当する職員として、とくに教育分野ではどのような顔で生徒・学生と接するのだろう・・

はたまた自分の子に、「お父さんお母さんは政府の職員=官僚としてあのような詭弁を弄した仕事をしているのだよ」と真顔でいえるのだろうか?

「嘘はいけない」ではなく「嘘も方便だ」とでも教えるのだろうか?

「あらゆる組織へのするどい批判精神」がいまこそ必要なのだ。

官僚という地位に甘んじるな。己自身を見よ。

 

 

「イヴァンよお前にやる花はない」プラハの花屋

REMEMBER3.11