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「イヴァンよお前にやる花はない」プラハの花屋

両論併記は正しいか

両論併記

両論併記が報道の基本、という固定観念がある。

つまり二者争う場面で、争そっている両者の意見を公平に伝える、という考えだ。

しかし争う二者というシチュエーションにはさまざまある。

個人が云ったったいわないで口喧嘩する場合、利益を巡って裁判で争う場合、はたまた犯罪容疑で警察に逮捕された場合。

大きなものでは国会論戦や歴史的事実に対する評価等々。

しかし、この両論併記は正義という観点からみると、大きく歪められた報道にもなってくる。

たとえば個人間での喧嘩の場合、腕力に自信のあるAが一方的に相手Bを痛めつけた。

腕力を振ったのはAだけであっても、報道ではAB両者の意見を等しく聴くことが求められる、ということになる。

この論をうまく悪用するのが歴史改ざん主義者の主張だ。

ホロコーストはすでに多くの研究者が実証した歴史的な事実だ。

犠牲者の数600万人については確かにいまも議論がある。

しかしそもそもナチス政権がきちんとした記録を残していないのだ。

あくまで推計に頼るほかはない。

しかしあったこと自体は、繰り返すけど歴史的事実だ。

 それを否定したい人は、そんなことなかったんだと声をあげる。

まだネットも今ほど広がっていない時代、ただ叫んでもあまり効果がないから、裁判を起こした。

すると法廷で争われるわけだから、あったのか、なかったのか、どちらが正しいのかということになる。

するとその裁判のニュースを聞いた人は、こう思ってしまう。

そうか、ホロコーストがあったと言う人もいれば、なかったと言う人もいるんだ、と」
http://www.webchikuma.jp/articles/-/1115 より

これはどこかで聞いた筋書きそっくりでしょう。

そう日本でもいまだに南京大虐殺についておなじような主張がされています。

しかし実際の現場はそのように行われていないこともあります。

下記は両論併記までは行きませんが、双方の言い分を聞く、という場面です。

犯罪容疑で逮捕された場合、

「ある自動車運転手が事故で片目にけがをして仕事を失った。

ぶらぶらしているうちについ他人のオーバーに手をつけて捕まった。

しかし対立する二者ととらえれば、二者とは泥棒の疑いで逮捕された元運転手と、逮捕した警察である。

記者は逮捕されたから自由に言い分を聞くことはできず、警察の発表による一方的な記事となる」

本多勝一「職業としての新聞記者」より

逮捕されるのはあくまでも容疑であり、この段階では有罪とも無罪とも決定していない。
しかし、往々にして報道では、ここから侵入し、寝ている被害者をこのように襲った、

と犯罪(と思われる)事実をつまびらかにされるのです。

このことから読めるのは、実際の現場では大きな力をもつ者の争いは「両論併記」の考えに立ち、いわば力のない弱い立場の者は、一方的な意見しか聞かれない、ということだと解釈できます。

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不偏不党

各新聞社の綱領や編集方針に以下のように述べられています。

各新聞社の綱領や編集方針
  • われらは左右両翼の独裁思想に対して敢然と戦う。旧読売信条
  • あらゆる権力から独立し、左右に偏しない社論と報道によって、自由にして民主的な社会の確立に寄与する  毎日新聞編集根本方針
  • 不偏不党の地に立って言論の自由を貫き、民主国家の完成と世界平和の確立に寄与す 朝日綱領

左右に偏しない、左右両翼の独裁と戦う、不偏不党、ということば自体が記者を縛っているのです。

公平な報道と思われても、どのニュースを取り上げるか、どのニュースをトップに持ってくるか、多くのニュースに紙面をどのように配分するか、ということからして何を重視するかという報道する側の視点が入ります。

つまり、言葉通りに「左右に偏しない、左右両翼の独裁と戦う、不偏不党」にこだわると究極的には、なにも報道できないし、あまた発生する多くのニュースから紙面を作ることはどうしても偏らざるを得ないということになります。

米国では大統領選挙で多くのメディアが支持候補を表明する、と聞きます。

そのように事によっては旗幟鮮明にするということも必要だと感じます。

最近のこのような記事の場合はどうでしょう?

首相の改憲論議呼びかけ首相が「国の理想」を憲法に書き込むべきだと主張しているのに対し、立憲民主党などの野党には「憲法は権力を縛るもの」との認識が強く、憲法観に開きがある。改憲を発議する権限は国会にある中、行政府の長である首相が率先して進めようとする姿勢に対しても、野党側は強く批判している。

悲しいかなこの記者は、政治部記者としては必須である、憲法についての知識を知らないようです。

憲法学の新しい泰斗、石川健治東大教授によると、

現在の憲法論議の基本構図

戦後の日本がめざした立憲主義的な国家には、幾重にも分離線が張り巡らされています。
第1に、市民的権力と軍事的権力の分離があります。いわば政と軍の分離です。

第2に、世俗的権力と宗教的権力の分離、あるいは国家と宗教団体の分離があります。政権と教権の分離という意味での政教分離ですね。

第3に、そうした政治的権力の内部で、立法・行政・司法の三権を分離する分離線があります。これは有名な三権分立ですね。

第4に、政治的権力と経済的権力の分離があります。いわば政権と金権の分離ですが、公法と私法の分離といわれるものも、これにかかわります。

そして、
第5に、公共生活と私生活の分離があります。第4と第5の分離線を縮めていえば、公私の分離ということになります。

政軍の分離、政教の分離、三権の分離、公私の分離、これらの分離線によってまもられているのは、一人ひとりがかけがえのない、個人の自由です。

石川健司「視点・論点」より

つまり憲法によって守られるのは「一人ひとりがかけがえのない、個人の自由」なのです。
これが、憲法は一人ひとりがかけがえのない、個人の自由を守るように権力を縛るもの、という学問の真理なのです。

歴史改ざん主義の手口

歴史改ざん主義者の手口は、座標で考えるとわかりやすいので、以下のような座標を取り上げます。

1 2 3 4 5 真理 6 7 8 9 10
邪論
A
  中間            
             
             

中央のところに学問的真理があるとします。ところが1のところに真理があると主張する邪論Aが出てくると、

両論併記では、3か4のあたりが中間点になります。両論併記を呼んだ人は、うーん現在のところ各論は3か4のあたりを巡って討論しているのだ、と考えます。

1 2 3 4 5 真理 6 7 8 9 10
            中間   邪論
B
             
             

しかし10のところに真理があると主張する論が出てきた場合は、7か8が中間点となり、
うーん現在のところ各論は7か8のあたりを巡って討論しているのだとなります。

つまり、両論併記では学問的真理に対立するアウトロー的な主張によって、3となったり8となったり、読者の感じ方が変わるのです。

ひいては読者が考える真理も揺れ動くということになります。

これゆえに、歴史的事実や学問的真理を報道するときは両論併記で終わってはならないのです。

上記の記事

首相が「国の理想」を憲法に書き込むべきだと主張しているのに対し、
立憲民主党などの野党には「憲法は権力を縛るもの」との認識が強く、憲法観に開きがある。
改憲を発議する権限は国会にある中、行政府の長である首相が率先して進めようとする姿勢に対しても、野党側は強く批判している。

は、このような記述ではなく

首相が「国の理想」を憲法に書き込むべきだと(憲法学の真理に反して)主張しているのに対し、
立憲民主党などの野党には「憲法は権力を縛るもの」との(学問的真理を主張する)認識が強く、憲法見解に開きがある。

改憲を発議する権限は国会にある中、行政府の長で(憲法遵守規程が)ある首相が率先して進めようとする姿勢に対しても、野党側は強く批判している。

となるべきでしょう。

私なら

無知にも首相が「国の理想」を憲法に書き込むべきだと憲法学の真理に反して主張しているのに対し、
立憲民主党などの野党には「憲法は権力を縛るもの」という学問的真理をかざして主張する認識が強く、国会という最高機関にあっては片方の無知性で情けない論戦になっている。

改憲を発議する権限は国会にある中、行政府の長で憲法遵守規程がある首相が率先して改憲を提議、進めようとする違憲姿勢に対しても、野党側は強く批判している。

こんなかんじだろうか・・

しっかりしろ言論

 

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REMEMBER3.11