紙つぶて 細く永く

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沈みゆく日本の中で

75回目憲法記念日

憲法記念日で諸兄の意見再読

加藤周一「護憲の理由」

武器の破壊力は絶えず増大し、戦争の被害はかぎりなく拡がってゆくから、もし人間社会が生きのびるとすれば、いつかは戦争をやめなければならず、いつかは世界連邦政府を成立させなければならない。
それが遠い将来を望んでの大きな理想である。
その遠大な理想に向かっての曲折にみちた人類の歩みにおいて、一歩先んじたのが、日本国憲法の理想主義であろう。
 一国民の誇りの根拠は、単にその現状(たとえば物質的豊かさ)によるばかりでなく、またみずから信ずる価値、すなわちその理想による。
日本国はもはや「神国」ではない。
たとえかってのように「神国」を誇ろうとしても、日本のカミは日本国以外のどこでもカミではない。
もし日本国民が国際社会で通用し得る普遍的な理想をもつとすれば、憲法の平和主義の他にはないだろう。
長期的にみて望ましいのは、日本国の改憲ではなくて、まだ第九条をもたぬ国々の改憲である。
(略) 今日の世界には、このまま放置すれば人類の将来を脅かすだろう大きな問題がいくつかある。
たとえば環境破壊・人口爆発・南北格差・民族主義紛争など。
どの問題の解決にも国際的協力の必要なことはいうまでもない。と同時に、どの問題も軍事力によっては解決されない。
民族主義紛争が武力衝突に発展すれば、停戦を実現または保証するために国際的な武力行使が必要な場合もあり得るだろう。しかしその場合にさえも軍事的手段は当座の応急処置にすぎず、紛争の原因を除くためには役だたない。
一般に必要な国際協力は軍事的協力ではない。
 そもそも国際貢献の話を軍事的協力からはじめるのは、本末転倒である。まず解決すべき問題を列挙し、それぞれの問題について複数の解決法の優先順位を論じ、遂に武力介入を考慮せざるを得ないときに至って初めて軍事的な国際貢献を考えるのが、事の正当な順序である。
いきなり国際貢献即軍事貢献という話から改憲論へ向かうのは、政治的倒錯症とでもいう他はない。
(略)
 それでも「解釈改憲」というものが、なしくずしに行われて、今日に及んだ。
そのこじつけと言葉のすり替えには止めがないようにみえる。
いっそ第九条を改めて自衛隊を合法化し、その規模と任務をはっきりと限定した方が、軍国主義の再発を防ぐのに有効だろう、という考え方もある。
 しかし、今日改憲を望む人々が強調してきたのは、まず「押しつけ」論、次は「国際貢献」であって、軍拡の歯止ではない。
解釈改憲」で軍拡を進めてきた同じ権力が、軍拡を抑制する「改憲」を行うだろうという期待は現実的でない。
憲法のこじつけ解釈には、さすがに後ろめたさが伴うが、改憲は公然と、朗らかに、軍国日本を再建するための道をひらくことになるだろう。
(略)
 改憲は、つまるところ日本国民の意志による。
国民の意志決定は、改憲が日本国をどこへ導くかを国民が十分に知った上で行われなければならない(いわゆるinformed consent)。
その条件がなく、それでも国民の半数が改憲を望まぬときに、世論を操作して改憲を企てるのは、民主主義の原則に反するだろう。
 以上の理由により、私は日本の多くの市民と共に、またおそらくアジアの人民の大多数と共に、日本の国際貢献が軍事的であることを望まないのである。

内田樹憲法空語論」

あらゆるタイプの「宣言」と同じく、憲法も空語である。
ただし、それは「満たすべき空隙を可視化するための空語」、「指南力のある空語」、「現実を創出するための空語」である。
 憲法と目の前の現実の間には必ず齟齬がある。それが憲法の常態なのである。
憲法というのは「そこに書かれていることが実現するように現実を変成してゆく」ための手引きであって、目の前にある現実をそのまま転写したものではない。
 だから、「現実に合わせて憲法を変えるべきだ」というのは、いわば「俺は何度試験を受けても60点しかとれないから、これからは60点を満点ということにしよう」という劣等生の言い分と変わらない。
たしかにもう学習努力が不要になるのだから、ご本人はたいへん気楽ではあろうが、間違いなく、彼の学力は以後1ミリも向上しない。
そのことは日本の改憲論者たちの知的パフォーマンスが彼らが「憲法を現実に合わせろ」ということを言い出してからどれほど向上したかを計測すれば誰にでもわかることである。
 改憲派は「憲法九条と現実の軍事的脅威の間には齟齬がある。だから、軍事的脅威がつねにある世界を標準にして憲法を書き換えよう」と主張している。
「軍事的脅威のない世界など実現するはずがないので、そんなものを目指すのは無駄だ」というのは、たしかに一つの見識ではある。
「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」する努力なんか誰もしてない世界で、一人だけいい子ぶってどうするんだと鼻で笑う人を見て「ちょっとかっこいい」と勘違いする人だっているかも知れない。
 しかし、「人間は邪悪で愚鈍な度し難い生き物であって、これからも改善の見込みはない」というような言明は居酒屋のカウンターで酔余の勢いで口走るのは構わないが、公文書に書くべきことではない。
というのは、いったんそのような人間観を公認してしまったら、これからあと、その社会の成員たちは「より善良で、より賢明な人間になる」という自己陶冶の動機を深く傷つけられるからである。
 本音ではどれほど人間に絶望していても、建前上は全成員が善良で賢明で正直であるような社会を「目標」として制度設計はなされなければならない。これだけは集団として生きる上で譲るわけにはゆかない基本である。
 全成員が邪悪で愚鈍で嘘つきであるような社会でも「生きていける」ように制度設計することはたしかに現実的であるかも知れないけれど、その制度がよくできていればいるほど、その社会の成員たちが「善良で賢明で正直」になる可能性は減じる。  成員全員が邪悪で愚鈍で嘘つきであっても機能する社会があるとしたら、それは原理的には一つしかない。
「神がすべてを統御する社会」である。神が万象を俯瞰し、成員の行動も内心もすみずみまでをも見通す社会なら、全員が邪悪で愚鈍で嘘つきであっても、社会は機能するだろう。でも人間は神ではない。
 だとしたら、次善の策としては「神の代行者」を任じる権力者が全成員を「潜在的な罪人」とみなして、その一挙手一投足を監視する社会を創る他ない。自民党改憲草案を読むと、彼らがまさにそう推論していることが分かる。
「人間はすべて邪悪で愚鈍で嘘つきであるから、全権を持つ権力者が全員を監視しなければならない」という彼らの国家観と「憲法と現実に齟齬がある時は現実に合わせて書き換えるべきだ」という憲法観はまったく同型的な思考の産物なのである。

 

samejima times

日本国憲法は75歳にして最大の危機に立っている。
国会はもはやあてにならない。 私たち国民ひとりひとりがこの憲法を手放すのかどうかを問われる日が遠からず来るだろう。
今夏の参院選はもはや与野党の対決と呼べるのだろうか。 与野党が一体化した全体主義に染まる国会が遠からず発議してくる「改憲」の是非を問う国民投票の前哨戦とみたほうがよいのではないか。
私たちの基本的人権が脅かされる全体主義に対する危機感を、ひとりでも多くの有権者と共有する機会としたい。

 

「イヴァンよお前にやる花はない」プラハの花屋

REMEMBER3.11