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権力と会津藩

悲劇の会津

数年前福島を訪れたときの若松郊外東山温泉での話。

湯につかっていると隣の人から声をかけられた。

 東山温泉の話から、この地には芸妓さんがいるという話になり、京都祇園にも負けない芸妓と尾ひれがひろがった。

どうやら会津地方の人らしい。「どちらから」と聞かれたので、京都ですと答えると、

京都府の府議会初代議長は会津出身だった、とも教えられた。

調べると京都府議会初代議長は山本覚馬で、会津出身。藩主松平容保に引き連れられて京都所司代に配属された。

鳥羽伏見の戦い後も京都に残り、京都府の近代化に貢献した。また妹の八重が新島襄と結婚した。あの「八重の桜」の八重。

山本覚馬の墓は京都若王子の丘の上、新島襄と同じ同志社大学の共同墓地にあった。

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山本覚馬についてはこちらに詳しい。

会津といえば一徹者といわれるが、会津には頑固な人が多いと思える。

ふっと頭に浮かぶのは伊東正義だが、司馬遼太郎の街道を行くシリーズ「会津の道」でより頑固な人が紹介された。

頑固の主は会津藩9代藩主松平容保(かたもり1835年-1893明治26年)

その会津藩の藩祖は、保科正之(1611年-1672年)。

その藩祖保科正之が家訓を定めた。家訓は以下の一条から始まる。

「1、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。」

(家訓の中には有名な「家中は風義を励むべし」という一条もあり、今ではこれはいかがかと思われる「婦人女子の言、一切聞くべからず」なんてものもある。

幼年向けに家訓から派生した「什の掟」がありこの中に「ならぬことは、ならぬものです」がある)

代々の藩主は200年にわたりこの家訓を守った。

容保もこれにしたがった。

幕末期に、申し出を何度も拒絶していた京都守護職に熟考の末に就いた。

京都守護職については、薪を背負いて火中に飛び込むようなものと家老たちが諫めるがこれを聞かず、悩んだ末に家訓に従った。

京都守護職は京都市左京区の約四万坪の大きな寺域を有する紫雲山金戒光明寺に置かれた。

京都守護職は京都の警備を担当する。しかし彼らが直接京都の浪士取り締まったのではない。

京都守護職に就いた松平容保に時の老中板倉勝静は京都市中の浪士差配を命じ、近藤・芹沢ら浪士の中で残った新選組は晴れて京都守護職配下となった。

長州・萩藩の思想幕末になると長州藩は公武合体論や尊皇攘夷を拠り所にして、おもに京都で政局に影響を与える存在になる。また藩士吉田松陰の私塾(当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされ事実上幽閉)松下村塾で学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍、これが倒幕運動につながってゆく。

尊王攘夷という流れから騒然とした幕末期にあって、その混乱に対峙すべく将軍上洛警備のため浪士組が結成されそれがやがて守護職配下の新選組となってゆく。

新選組はその成り立ちゆえに尊王攘夷派に暴虐を尽くした。

「その苛烈な白刃によって都の大路小路に屍をさらした長州人や長州系の浪人はおびただし」司馬遼太郎の街道を行くシリーズ「会津の道」より

対する尊王攘夷派は十把一絡げに会津藩をこそ朝敵と見なす。

そして、会津は敗れた。

 鳥羽伏見の戦い、や東北列藩同盟の戦いでも会津藩はことごとく敗れた。

そして権力を握った薩長勢により、会津藩は藩ぐるみ流刑されるようにして、下北半島の地で斗南藩となった。

以下「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」より

「ある明治人の記録」

「幕府すでに大政奉還を奏上し、藩公(松平容保)また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。

(なれど)いかなることか、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裡に刻まれ見えず」

(柴五郎は当時10歳)「男子は一人なりと生きながらえ、柴家を存続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなり」

叔父柴清助より伝えられた
「今朝のことなり。敵城下に侵入したるも、御身の母をはじめ家人一同退去を肯かず、祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人、いさぎよく自刃されたり」

 会津藩は旧領三十万石、(その他)石高に換算すれば六十七万九千石の大藩なりき。
 今回(1869年)陸奥の国、旧南部藩の一部を割き、下北半島の火山灰地に移封され、わずか三万石を賜う。まことにきびしき処遇なれど、藩士一同感泣して、将来に希望を託せリ。
 されど新領地は半歳雪におおわれたる痩地にて実収わずか七千石にすぎず、とうてい藩士一同を養うにたらざることを、だれ一人知る者なし。

伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まこと乞食にも劣る有様にて草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に筵を張りて生き長らえた。

「しかし、権力の座に着いた一集団が、敗者にまわった他の一集団をこのようにいじめ、しかも勝利者の側から心の痛みも見せなかったというのは、時代の精神の腐った部分である」

「祖母、母、姉妹がことごとく自刃した。末の妹はわずか七歳だった。木村という家に嫁した姉も一家九人が自刃し伯母中沢家の家族もみな自刃した。かれらは自発的に死をえらんだ。藩は婦女子も城内に入るようにといったのだが、彼女らは兵糧の費えになるということで城内にはいることを遠慮したのである。

歴史の中で都市一つがこんな目に遭ったのは会津若松市しかない。」「街道を行く 会津の道」より

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会津藩主も好んだという東山温泉

会津藩9代藩主松平容保

越前福井藩主であり幕府最高職・政事総裁であった松平春嶽からじきじきに口説かれ、京都守護職についた。

その松平容保は京都守護職の際に考明天皇から宸翰を受けとった。

会津は佐幕派である。その会津藩に天皇から宸翰が届いたのである。

最初のものが1864(文久4)年2月。武士に扮した野宮定功という公家が持参した。

表立っては容保は和歌を好むということで御製を拝見させるという名目であった。

宸翰は計2通あり、上記「街道を行く 会津の道」では、こういう例はかってあっただろうかと仰天したとある。

宸翰の内容は、「なにぶん、汝との間で密話することはむずかしい。それに密々面会もなしがたいから、やむなくこのように筆談する」

宸翰は時勢についての天皇の意見をのべ容保の考え方に大いに賛同している。

孝明天皇はその二年後に崩御した。その結果徳川家の運命は急落、会津は若松城開城降伏後、城地没収すむべき屋敷も取り上げられた。

松平保久(会津松平家14代当主)明治以降、容保公は寡黙になられたと聞いております。
自分が最も正しいと思う道を選んだことで、会津の方々にとてつもない苦労をさせてしまった。それは辛くてたまらなかったはずです。
戦没された藩士の方々の慰霊祭に頻繁に顔を出していらっしゃったのも、その思いがあったからでしょう。
 その辛さの中で、容保公の唯一の心の支えは、孝明天皇にご信頼いただいた思い出だったはずです。
容保公は、孝明天皇より賜った御宸翰を肌身離さず持っていました。
もしかしたら、御宸翰がなかったら容保公は自害されていたかも知れないとすら思います。
 変な話ですが、戊辰戦争のどこかの段階で御宸翰を広く示して「お前たちこそ朝敵だ」と主張することもできたはずです。

松平容保は1893(明治26)年死去するまで京都守護職時代のことは語らなかった。

「ただ肌身に、長さ一尺あまりの細い竹筒をつけていた。ひもをつけて頸から胸に垂らし、その上から衣服をつけているのである。

入浴のときだけは、脱衣場の棚においた。

家族のたれもがそれを不審におもったが、問うことははばかるふんいきが、容保にあった。(容保の)死後、竹筒のなかみを一族・旧臣が検めてみると、なんと孝明天皇の宸翰だった。」「街道を行く 会津の道」

過去権力に翻弄された会津、そして首都東京の原子力エネルギー推進政策により犠牲ともなった福島として、今こそ大いに語れ会津人。

容保に下記の漢詩がのこる。

自古英雄多数奇
 胡為大樹棄連枝
断腸三顧許身日
 揮涙南柯入夢時
万死報恩志未遂
 半途墜業恨何涯
暗知気運推移去
 目黒橋頭啼子規

石川忠久氏による解説はこちら

 

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