タテカンと美観:京都タワーの敵を京大で討つ
タテカンを規制しようとする京都市の施策は都市景観にかかわる条例「京都市屋外広告物等に関する条例」として策定された。
タテカンは都市景観にかかわる事柄なのである。
そしてその京都の都市景観は悲しいことに京都タワー・京都ホテル・京都駅という大きく深い宿痾をかかえている。
京都タワーは企業倫理を考えることなく、規制の抜け駆けをその第一優先順位として、喧噪の中それも経済団体の肝いりでで建立された。
京都タワーに倫理基準を説くことは馬の耳に念仏のそしりをまぬがれない。
しかし、これは従来平面的に拡大していた都市京都が、三次元的に拡大し始めた証だ。それにたいする危機感を抱いた当時の感性は正しいと思うし、今となって悔いている京都市政は大いに反省を深めなければならない。
しかし今となって京都市がその感性を取り戻そうとしても、時すでに遅しで、京都タワーはその形体からしてエッフェル塔にはなりえず、玄関口、こちらも物議をかもしたあの京都駅ビルの前に立ち、観光客に向けてその醜態をさらし続けている。
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京都ホテルは公開空地等を確保することで、高さ制限の緩和を可能にし建設された。その高さは60mとなる。
しかしその客室数の増加にもかかわらず、努力むなしく京都ホテルの経営は改善せず、2005年にニチレイ(旧・日本冷蔵)からホテルオークラが株式譲渡を受け筆頭株主になった。
高さ制限の緩和当時ささやかれていたのは、京都ホテルの隣にある京都市庁舎もやがて建て替えの時がくる、その時に京都ホテル並みの高度を可能とするように事前に許可した、というものだ。

https://townphoto.net/kyoto/k03/k031109.jpg より
そして現在京都市役所は建て替え工事が始まり建物高度は京都ホテルの60mをしり目に31mとなる予定だ。見果てぬ夢となった。
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まずこの宿痾を解決しようとする方針は良しと考えるが、その対処方法がまずい。
その治癒を名目に京都タワー・京都ホテル・京都駅以外に強権を使用してもこの宿痾は完治しないだろう。
京都市政に対する評価、その判断基準は京都タワーに対する姿勢いかんによる。
その大規模修理・建て替え時にどのような姿勢を示すのであろうか・・。

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京都の景観に対する市政の瑕疵を、拙速に他で補填しようと考えてもそこには大きな無理がある。
最も根本的醜悪な建物を放置し、まさしく表現の自由であるタテカンを規制する京都市のその愚策こそ非難されなければならない。
京都はほぼ1000年日本文化の中心地であった。
その歴史ある京都に残された美観を、表面的な対策のみで解決しようと考えても根本的解決にはならない。
音もなく静で、部外者に来てはほしいがホスピタリティーも充分発揮できず、時に独自にエネルギーと称してイノベーションを求める、扱いにくい京都であるが、ことは京都市民のみにその文化保持についての各種負担を求めることは、間違いであろう。
日本国として、この伝統文化をどうするのかが問われている。
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少なくとも、あなた、ことに置いて中立の立場をとるのも沈黙するのも政治的行為なのです。
現在の京都では、コンクリートの建物で独自性のあるものはほとんど何もない。二流の模造品に過ぎない。
1955年ヨーロッパから帰ってきたとき文化的な拠って立つ立場はどこかと確かめたら、それは東京ではなく京都にしかなかった。
京都の自然、東山や嵯峨野の竹林、庭の苔や石、木立、そして町も残っていた。
ヨーロッパでは木造建築は非常に少ない。戦争の後ヨーロッパで木造建築が残っているのは小さな町だけ。1950年代に、木造建築によるこれだけの大都会が残っていたのは京都だけ、京都の町並みは世界で唯一のものです。
それはただ規模が大きいというだけでなく、形や色が独特です。空間的構造、形、表面の壁とか木の柱の表面の色とテクスチュア、などの全体の美的な洗練これはもう最高です。
ヨーロッパの木造建築でそれに匹敵するものはただの一つもない。
その京都でどういうものを発見したか、金儲けに熱心な人が全力をあげて「京都」をぶち壊ためにあらゆる政治・経済活動を活発に行っている。2000年の京都:加藤周一
「京都千年、または二分法の体系について」より
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政治学者が批判的立場をとると学問の中立性に反するから、はっきりした意見をいわず客観的でいようということです。
しかしどんな理由があろうと中立の立場をとるのも沈黙するのも政治的行為なのです。
反対しないことは、本人が意識しようとなかろうと現状容認を意味します。
強さと弱さが共存する社会において、大学は強弱の両極分化をなるべく和らげるように、できるかぎり弱い方に情報を提供して助ける態度をとることが基本的に重要なのです。大学と社会 加藤周一「物理学者の社会的責任」
REMEMBER3.11