三江線経由で二十数年振りに広島を訪れた。
第九列車
よく晴れた日だった。広島駅から市内電車に乗り原爆ドームに向かった。
広島駅は富山駅とよく似ていた。
こちらが富山駅
こちらが広島駅
まあ最近の駅はどこも同じ素材を使うことも影響しているのか結果的によく似てくるのだろうな。
訪れた時に空にはほとんど雲もなかった。3月の半ばの平日で暑くもなく散歩にも最適の日和だった。
史上初の原爆投下の日1945年8月6日も雲一つない青空だった。
原爆ドームの周囲を巡っていると、丁度ボランティアガイドの解説に出会った。10人ほどが輪になってその解説に聞き入っていた。
原爆投下に際しては広島を含め全国の中核都市でそれまでに空襲の被害を受けていないところを目的地の候補とされた。その中に京都も入っていたと以前の記事で読んだことがあった。その場合の目印は・梅小路機関車庫だった。
だが最終的に広島が人類史上最初の核爆撃地とされた。
ガイドは村上君という広島の25才。
25歳が原爆を伝えるガイド日記(広島平和記念公園ガイド)
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マリアナ諸島のテニアン島を発ったエノラゲイは広島を目指した。かねてから目印として決めていた相生橋に差し掛かると3845m手前9000m上空で手順通りで原爆を投下した。
相生橋は当時から現在と同じくTの字をした橋で、その特異な形状から上空からでも判別しやすいとされた。
空襲の被害を受けていない中核都市という設定は、原爆投下後に原爆による被害のみの影響を計測するのに好都合とされたからだそうだ。冷酷なほどの事前準備だった。
投下については地球の引力とエノラゲイの巡航速度の方程式で目標に当たると推定されたポイントが計算がされた。以下にその投下軌道が詳しく解説されている。
10代がつくる平和新聞 - ひろしま国:8.6探検隊【原爆はどこで投下された?】
広島での原爆による直接死者は14万人と推計されている。その後も放射線の影響を受け被爆者手帳所持者数は(長崎と合わせ)20万人以上となっている。
あの原爆投下はその後の米軍人の被害を救ったのだという説があるが、原爆投下が無ければこれ以上の被害が米軍側にあったといえるのだろうか?
ほぼ戦争は終わりかけていたのではないだろうか。
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村上君の説明は理路整然とわかりやすく、かつ多くの訪問者に親切な解説だった。
当日解説を受けた周囲には外国からの訪問者も多くいた。そして村上君のボスに三登さんがいる。
英語による解説は三登さん担当らしい。三登さん作成による、英語の案内冊子も置かれていた。三登さんは胎内被曝、被爆二世だ。
私たちが村上君に説明を受けている間、大勢の外国からの訪問者がその冊子に首っ引きだった。
全国各地インバウンドで観光客があふれている。が、ここ広島にも外国からの訪問者が多くいるということは少々意外だった。オバマ訪問の影響だろうか。
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帰途時間が迫り原爆ドームを後にした。
やはり以前訪れたときの事は、原爆資料館に入ったという以外何をしたか意識に残っていなかった。
唯一の被爆国・唯一の加爆国と考えながら重い心を引きずり、帰途に着いた。
第十列車
広島駅から糸崎行に乗る。広島発14時35分三原着15時49分
第十一列車
5分の待ち合わせで三原発播州赤穂行きに乗る。当初はこれで岡山乗換姫路へと行く予定だった。ところがここで赤穂線が未乗車ということに気が付いた。
そこで15分ほど時間は遅れるが、赤穂線経由に切り替えた。
三原発16時04分播州赤穂着18時53分
第十二列車
赤穂からは播州赤穂発19時京都着21時14分の新快速1本で帰着
恒例今回の総決算
経路 | 通常運賃 | 青春18きっぷ | 差引 | |
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第一日 | 京都ー江津 | 7340 | 2370 | -4970 |
特急:鳥取ー米子 (特急券運賃含む) |
2840 | 2840 | -0 | |
第二日 | 江津ー(広島)-京都 | 8960 | 2370 | -6590 |
広島-原爆ドーム前(往復) | 360 | 360 | -0 | |
集計 | 19500 | 7940 | -11560 |
REMEMBER3.11