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「まなざしの地獄」 見田宗介著 を読んで。

永山則夫

永山則夫は1949年6月27日生まれ。

生誕地は北海道網走市呼人番外地

 

彼は19歳のとき、1968年10月から11月にかけて、座間米軍基地から奪った銃で東京、京都、北海道、愛知4都道府県で4人を殺害

一連の連続射殺事件を警察庁は広域重要指定一〇八号事件に指定した。

1969年4月 東京渋谷区で逮捕

1990年に最高裁判所で死刑が確定。

1997年8月1日に東京拘置所で死刑が執行された。

一連の過程で死刑の判断基準、永山基準なるものが形成された。

永山基準 最高裁判所が初めて詳細に明示した死刑適用基準。 本基準は必ずしも他の判決に対し拘束力を持つ判例ではないが、後に死刑適用の是非が争点となる刑事裁判でたびたび引用され、広く影響を与えている。
「一般的には被害者数が1人なら無期懲役以下、3人なら死刑。2人がボーダーライン」という量刑相場が形成されていった
Wikiより

永山は中学時代、妹に学校図書館の本を借りるよう頼んで石川啄木の作品や偉人の伝記を読み、定時制高校に通った時期からはドストエフスキーの小説も読んでいた。

彼について書かれた著作に「まなざしの地獄」がある。

社会学者の見田宗介が著者

まなざしの地獄 日本中を震撼させた連続射殺事件を手がかりに、60~70年代の日本社会の階級構造と、それを支える個人の生の実存的意味を浮き彫りにした名論考。現代社会論必携の書。

下記引用部分は「まなざしの地獄」より 同書では永山則夫はN・Nと略されている。

当日のニアミス

1968年10月14日未明に八坂神社(京都市東山区祇園町北側625番地)で神社警備員の男性B(事件当時69歳)を射殺した。

上記の日(1968年10月14日夜)私は京都市でアルバイトをしていた。

ボーリング場の中にある喫茶店ウェイター。

夜10時に閉店となり左京区の自宅まで歩いて帰った。

直線距離にして1kmほどだった。

当日警らする警官を何人か見た。事件かなと思った記憶がある。

まなざしの地獄

N・Nは1965年青森県板柳町の中学を終え集団就職の一員として東京に上京。

手にしたボストンバックの中には、

母親の用意したワイシャツ二枚、仕事用ズボン、外出用ズボン、シャツパンツ各二枚、靴下二足、そして彼自身が詰めた中学の教科書数冊

が入っていた。

 

この年中学や高校を卒えて京浜に流入した少年の数は11万1千15人、うち中卒者は4万8786人。

東北地方の中卒者5万4242人の内60%をこえる3万3526人が県外への就職で、京浜への流入者は2万876人39%である。

N・Nは渋谷駅前のフルーツパーラーに就職するが、そこでの関係者の印象は非常に良く、気になる点は内申書に欠席日数が多いこと、多少性格的に暗いことであった。

新入社員の研修では「給料はだれからもらうか」という質問に、「社長から」と答えるものが多かったが、彼は、「お客様から」と答えてほめられることもあった。

これは研修用のテキストに書かれていた答えで、すなわち彼はきちんと予習していたこと、そなわちかれがこの上京にどれだけ大きなものを賭けていたかを思わせる。

N・Nは中学の三年間を通じて半分も出席をしていない。

とくに二年生のときは年間で32日しか登校していない。

そのN・Nが三年生の冬休みも終わり同級生のあいだで進学・就職のあわただしさが見られだしたころ、雪の夜にS教師の自宅にあらわれて「卒業できるだろうか」といいだした。

S教師は、(これから)毎日来るなら卒業させてもいいが休むなら無理だとおどした。

すると彼は以後登校が続いた。

<上京>はN・Nにとってその存在を賭けた解放の投企であった。

やがて京浜の労働者となったN・Nはどんなに重労働のをやったあとでも麦めしを見ると一瞬むっとした。

「麦めしは私の青森時代を思い起こさせ何かやり切ない気分にさせる」注1

「またもやこの露地が、青森時代を想起させるから自然的に自己嫌悪の念を与えた」注1

<東京>にたいするN・Nの過剰なまでの期待は東京それ自体の実像にもとづくというよりもむしろ、このようにはげしくかつ執拗な家郷嫌悪の逆立ちした像に他ならなかった。

<東京>があって上京があるのではなく、まず<上京>があって<東京>があるのだ。

N・Nのかくも憎悪した家郷とは共同体としての家郷の原像ではなくそれ自体、近代資本制の原理によって風化され解体させられた家郷である。

<都会>の遠隔作用によって破壊された共同体としての家郷であった。

彼は家族にかんしてこういうふうに語る。

「私の母と名乗りかたっている人が、・・・二人の男を、あの家に、嫌悪の家に中学二年から三年の春頃にかけて連れこんで、そして私を近くにある映画館やニ、三百円の金を握らせ追っぱらったこと・・」注1

一つの社会の構造が、家族や近隣の結合を引裂き解体することをとおして、人間の幼児体験を規定し、このことによって本人が、たとえそのことに気づいても容易にはのりこえられない一つの「性格」を刻印づけられてしまう。あの残酷なメカニズムが姿をのぞかせる。

注1 永山則夫著「人民を忘れたカナリアたち」

永山則夫は収監されている間に獄中日記を綴りそれが「無知の涙」として刊行された。また別に「木橋」も執筆、こちらは第19回新日本文学賞を受賞した。

私には目的がなかった――と世間ではいっている。果たしてそうであるのか?

私から観ればあったのである。

・・・・あなた達へのしかえしのために、私は青春を賭けた。

それは世間全般への報復としてでもある。

そしてそれが成功した。

この一〇八号事件は私が在っての事件だ。私がなければ事件は無い。
事件がある故に私がある。
私はなければならないのである。(注2)

注2 永山則夫著「無知の涙

永山則夫が逮捕されたころの社会状況

1968年12月府中三億円事件発生(未解決)

1969年1月東大闘争のなかで全共闘安田講堂時計台占拠、機動隊が導入された。

同2月 東大入学試験は中止された。

1969年7月に米国のアポロ11号が人類初の月着陸に成功。

 

さがしている中でこんなエッセイにも出会った。

エッセイ 永山則夫作 「木橋」を読んで

 

1987年東京高裁での差し戻し控訴審で弁護士遠藤誠は永山の詩「キケ人ヤ」(前掲『無知の涙』所載 以下で始まる)を朗読した。

 

キケ人ヤ
世ノ裏路ヲ歩クモノノ悲哀ナ
タワゴトヲ
キケ人ヤ
貧シキ者トソノ子ノ指先ノ
冷タキ血ヲ
キケ人ヤ
愛ノ心ハ金デナイコトヲ
心ノ弱者ノウッタエル叫ビヲ
キケ人ヤ
世ノハグレ人ノパンヘノ
セツナイハイアガリ

・・・


1990年1月秋山駿・加賀乙彦の2人が推薦人となり、日本文藝家協会への入会申請を提出した。

永山則夫と同世代(3歳年上)でもある中上健次は、永山則夫日本文藝家協会入会申請にたいして死刑囚であることを理由に入会を断られた際、この決定に抗議して柄谷行人筒井康隆とともに協会を脱会した。