紙つぶて 細く永く

「イヴァンよお前にやる花はない」プラハの花屋

解説:権力に摺り寄る

安倍だから摺り寄るのか

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安倍だから、摺り寄るのか、総理という、権力者だから摺り寄るのか?

切り分けてみる。

能力のある記者なら当然、対象が権力者だから摺り寄りネタを得ようと考える。

だれしも、「安倍」だから、安倍ならなにか美味しいものを提供するかもしれない、と思って他の権力者なら摺り寄らないが「安倍」のネタをのみ得ようとは、考えない。

記者が摺り寄るのは、安倍だからではなく、「権力者」だから摺り寄るのである。

そして安倍総理との会食という取材機会を得たあとで以下のような記事を書く。

安倍首相は6日の年頭会見で、今年の干支(えと)である「庚子(かのえね)」には「新しい芽が伸び始める」
「これまでの継承の上に思い切って改革していく」といった意味があるとし、
祖父が仕上げた60年前の日米安保改定を実例に挙げた。
だが国内外の情勢が全面転換を兆すなか、
自民党ポスト安倍政権交代を期す野党の人々には文字通りの「新しい芽」を意味しよう。

この記事には摺り寄った成果が結実しているのだろうか?

数多く摺よっていく経験があるのだから、鋭い恫喝なみの圧力や、さらにはぽろっとでた秘事などの出来事はなかったのだろうか?

この記事に会食取材による結実は見られない。

摺り寄ると取材の違いは?

次に「摺り寄る」と「取材」の違いは何だろう?

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取材であっても、当然権力者が安倍だから取材するが、安倍でなければ取材しないということにはならない。記者として当然だ。

記者としてのなすべき目的は、読者への記事の提供だ。

記事にならない取材で終わってはそれは徒労と呼ばれるだけだ。

そもそも摺り寄りと取材は中身が違う。

取材には権力者にたいする厳しい批判の目が向けられる(はずだ)

その権力に対する批判があるのだろうか?

悲しいかな否である。

会食になんかもちろん参加せず、権力に摺り寄らず、批判を込めた記事を書く記者はうんと居る。

「1月20日」を忘れない 坪井ゆづる
しかし、「1月20日」答弁は忘れまい。
これがまかり通ったことで、説明責任に背を向ける長期政権がつくられてきたのだから。
 森友学園問題も「桜を見る会」も構図は同じ。
その意味で、加計問題は昔話ではない。
 つくづく思う。
権力者にとって不都合な事態を、時間とともに忘れてゆくのは、
それを容認するのと同じだ。(つぼいゆづる 夕刊「素粒子」担当)

真実を追及する人は器になど惑わされない。

 

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REMEMBER3.11