線路は続く3 日本鉄道史から
(いわば政治に「もてあそばされた」国鉄との視点を持っている)
政府は第二次大戦後の引揚者を国有鉄道としての国鉄に受け入れた。その実数は定かではないが、参議院の答弁書に政府として以下の回答がある。
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「運輸省五十年史」によれば、国有鉄道において、1944(昭和19)年には、職員数が1936(昭和11)年の約二倍のa45万5千人に達し、その後、1952(昭和27)年度には、 職員数がb61万人に達したとされている。
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また、日本鉄道共済組合作成の「共済年金四〇年史」によれば、 1956(昭和31)年度末の国鉄共済年金の受給者数はc15万2430人、1987( 昭和62)年度末(JR7社発足の年)の国鉄共済年金の受給者数はd46万3776人とされている。
( 質問主意書:参議院 )
1から計算すれば、b610000-a455000=155,000人となり、
2から計算すると、d463776-c152430=311,346人となる。
資料「国鉄の収支状況の推移及び将来試算」には1978(昭和53)年から退職金支払いに伴う異常値が計上されている。
また資料「立法過程の一事例研究-国鉄経営再建法を素材として」には、退職率は通常30年勤続で年率平均3.3パーセント程度であるが、1954年からは10年間で現在43万人いるうち20万人が退職することが見込まれる、となっている。
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敗戦時国鉄は運輸逓信省として国営であった。それでも敗戦直後の昭和20年9月に、鉄道復興5か年計画を立案したが、資材確保難等に より計画を変更しなければならないような状態であった。21年からの傾斜生産方式の採用に伴い、23年には国有鉄道の輸送業務を国の超重点政策とすることが閣議決定され、日本国有鉄道法により、労使関係の民主化及び経営効率の向上とう面から公共企業体とされ、優先的な資材の供給等がなされた結果、同年以降にはようやく激しい戦後の混乱も緩和されるように至った。
戦時中に大幅に増加した職員の人員整理や創業以来初めて経験する赤字対策等の難問に新た に直面することとなった。
1948(昭和23)年国家公務員法が施行され、GHQは公務員の争議権を否認、同時に国有鉄道・専売事業については、国家権力の行使に関係するものではなく、企業運営にすぎないものであるからその職員の労働権は一般公務員より緩和するほうが望ましいとして公共企業体という独特の企業組織に変更するよう指示した。(マッカーサー書簡7月付)
その中で最も問題となったのは新しい公共企業体組織の内容だった。GHQ内部でも経済科学局は、国有鉄道は規模も大きくかつその運営は国家財政にも影響があるということから法律で財政面から拘束すべしという意見であった。かくして日本政府は、形式的には企業的色彩の強い面を持ちながら財政面については政府機関に近い拘束を受ける組織として「日本国有鉄道」を発足させた。
国有鉄道では、敗戦とともに軍招集者・引揚者の採用増加と共に新規採用もあって1947(昭和22)年には職員数が61万人にも達した。このような状況のもとで1949(昭和24)年7月行政機関職員定員法に基づき国鉄職員95000人の人員整理が行われた。
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1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争をきっかけに特需景気が起こり日本経済は本格的な復興から発展への軌道にのり、鉄道輸送も著しく増加した。
旅客輸送人員(注1)は1936(昭和11)年が10億6000万人、1955(昭和30)年が38億5000万人と3.4倍、
貨物輸送量(注2)1936(昭和11)年が163億トンキロ、1955(昭和30)年が426億キロトンと2.6倍
そしてこの輸送量増加に合わせて老朽化した施設の取り換えと電化を進めることを目的に第一次五か年計画が実行された。この第一次五か年計画は財政的にも窮迫した環境での計画であり政府として満足のゆく結果ではなかったこともあり、1961(昭和36)年から第二次五か年計画を実行した。
第二次五か年計画は東海道新幹線の建設と主要幹線の複線化を主眼に、1兆3千億円強の規模で投資を行うものだった。
その結果、
列車キロ(注3)は1955(昭和30)年の3億8499万キロから1964(昭和39)年には5億7624万キロ、1.5倍、
旅客輸送は912億人から1642億人、1.8倍
貨物輸送は426億トンキロから589億トンキロ、1.38倍、となった。
注1 旅客輸送人員 旅客人キロ(輸送人キロ)各駅間通過人員に各駅間のキロ程を乗じて全駅分を集計したもの。
注2 貨物トンキロ 各駅間通過トン数に各駅間キロ程を乗じて全駅分を集計したもの。
注3 列車キロ 列車が走行したキロ数の累計。
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従来鉄道の新線建設については鉄道敷設法(1922年大正11年)により鉄道建設審議会の着工の建議に基づき国鉄が行うものであった。しかし当時日本国有鉄道は独立採算制ということもあり、既設線の整備増強に力を注いだ。
1964年大蔵大臣であった田中角栄の肝いりで日本鉄道建設公団(鉄建公団)が創設された。鉄建公団は国鉄に変わって鉄道新線建設を行い、完成後は国鉄に貸し付けまたは譲渡した。建設予定の工事線は地方開発線(A線)、地方幹線(B線)、主要幹線(C線)、大都市交通線(D線)、青函トンネル海峡連絡線(E線)、整備新幹線(G線)、民鉄線(P線)の7つに区分されたが建設路線の大半を占めた地方開発線及び地方幹線(AB線)は計画段階から黒字が見込めないローカル線で、これも国鉄の経営を圧迫するもととなった。
参考資料 (「日本鉄道史」http://www.mlit.go.jp/common/000218983.pdf)
いわば親方日の丸政策は政治の方から持ち掛けられたのである。