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時系列で考えればわかりやすい・・が、短絡した筋道では

朝日新聞記事による時系列検証

 

民進党分裂に至る政治劇は、代表の前原誠司が9月17日午前、東京都知事小池百合子に送った1通の携帯メールから始まった。 この日の朝、朝日新聞などが臨時国会冒頭での衆院解散の可能性を大きく報じていた。「近々、お目にかかれれば幸いです」。 京都市の自宅で新聞を精読した前原は、意を決して小池にメールを打った。 前原が小池にメールを送っていたころ、ネットメディア会社代表の上杉隆は、民進で総合選挙対策本部長代行を務めていた玄葉光一郎に接触していた。 上杉は元衆院議員の故鳩山邦夫の秘書を務め、小池とは1994年の新進党結党以来の付き合いだった。
 当時、小池側近の衆院議員だった若狭勝らが新党結党の準備を進めていたが、小池自身は距離をおいていた。 ところが、解散報道を受けて、小池も新党代表として国政に関与することを模索しはじめている――。上杉の玄葉への説明はこんな内容だった。
「若狭新党なら恐れるに足らずだが、小池新党なら話は違う」。前原は玄葉から報告を受け、合流に向けた調整を水面下で進めることを決めた。
前原には、昨年の参院選で一定の成果を上げた共産党自由党社民党との野党共闘路線の継続も、選択肢としてあった。
 だが、民進内では、共産との連携に反発する勢力が離党の機をうかがっていた。政党支持率も1桁でジリ貧だった。
(A)リーダーとしてのミス一つ 何故ならどちらの路線が正解だったかは後で明らかになっている。

9月26日深夜のことだ。 前日の25日には、安倍晋三が28日召集の臨時国会冒頭で衆院を解散すると表明。
小池も新党「希望の党」を立ち上げて、自ら代表に就くと発表していた。
新党との合流協議を急ぐ前原が上杉の携帯電話を鳴らし、急きょ設定された秘密会談。 前原は民進100億円超の資金や党職員の提供を申し出たが、小池は断った
(B)真実か怪しい のちに政策協定書9項「希望の党の公認候補になるに当たり、党に資金提供をすること」なんてことが出てくる。


そして、注文をつけた。 「全員(の合流)は困る。私は、憲法と安全保障は絶対に譲れません」 憲法改正と安保政策は、小池の保守政治家としての生命線だ。
「護憲の方はご遠慮願いたい」と言う小池に、前原は応じた。 「それは当たり前。うちにも護憲なんているかどうか……」
(C)リーダーとしてのミス二つ 所属員を把握できていない。「偽メール事件」しかりこの人は何回もその前例がある。思考力が及ばないのかも。


小池は、民進の体質が新党に継承されることを懸念していた。 民進は、これまでも自民から旧社会党出身者まで抱える「寄り合い所帯」ぶりが、党の一体感を損なってきた。 護憲政党ではないが、いざ党内で議論を始めれば対立が表面化しかねない。
 小池の思いを推し量った上杉が旧民主党の「排除の論理」を例に出した。 鳩山由紀夫菅直人が1996年に民主党を結党した際、看板のかけ替えとの批判を受けないために一部のメンバーの参加を拒んだ。 上杉は「『三権の長』経験者を排除するのはどうですか」と話したという。
(D)この時と手法が異なるより大きな問題は下記の「政策協定書」だ。そしてこれらの提案と上記「全員(の合流)は困る」を受けてからの下記議員総会での説明は明らかに、虚偽だ。

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9月28日民進両院議員総会
 政権交代可能な政治の一翼をめざしてきた野党第1党を分裂させた小池の「排除」発言の原点は、この夜の密談にあった。 小池側にも、政治経験の豊かな有力な候補を抱えていないという事情があった。 交渉でネックになったのが、小選挙区の候補者調整だった。前原側は約300の小選挙区を「民進200、新党100」の割合で割り振るよう要求。 一方の小池側は「150、150」と主張し、平行線をたどった。 それでも、前原は民進全員での合流をめざそうとした。ほら詭弁が出てきた)
小選挙区であぶれたとしても比例区がある。小池と、何度か電話でやりとりした。 小池は「『第2民進党』になったら、両方沈んじゃうわよ」と言って、全員の受け入れには難色を示し続けた。 互いに警戒していた。
前原は「小池側にハシゴを外されること」を恐れていた。小池も「民進に抱きつかれたら困る」(小池側近)と考えていた。 「これから会見します」。小池は同25日の記者会見で希望の党の立ち上げを表明する直前、前原に電話を入れた。 記者からの質問に答える形で、前原との連携についても話すという。 前原は民進幹部らに「小池さんが民進との合流について会見する」と連絡した。しかし、小池の言葉は前原たちにとって甘いものではなかった。 「前原代表とは日本新党以来の知り合いで、コミュニケーションは取れると思う。 でも、党を丸ごとというよりかは、政策にご同意いただけるのかどうかが必要になってくる。さもなければ組織をつくる意味がない」
「排除リスト」と「踏み絵」の流出
野合と見られることを嫌った小池と、多くの民進出身者を合流させることをめざした前原。思惑が異なる2人の要求を満たす「しかけ」が政策協定書だった。小池色を前面に打ち出しつつ、民進の主張とも矛盾がない書面を民進出身者らと交わすことで、双方の心配を一挙に解消するはずだった。
(E)冷静に考えればわかる。これは立候補者の意志に反して虚偽の署名をするしかない解決法で、選良の選挙に際しこのような手法がまかり通るわけはない。かりに署名しても選挙後に大量の造反が出ることは目に見えている。


 ところが、しかけが完成する前に、事態は思わぬ方向に転がり始める。 前原は、希望への合流方針の了承を取り付けた9月28日の民進両院議員総会で、安全保障法制を「憲法違反」と確認。(ああ二枚舌)
「安倍政権を止めなければならない」「我々の理想の社会を実現するため、大きなプラットフォームを我々自身がつくる」と説明していた。 翌29日午前。前原と小池は東京・新宿の京王プラザホテルで会談し、公認候補の調整と政策のすり合わせを進めることを確認した。 最初に記者団の前に姿を見せた前原は「(民進出身者を)全員公認したいという思いは(小池に)伝わっている」と強調した。(さらに二枚舌)
一方の小池は記者団
(この記者団の中にフリージャナリスト横田一氏がいた。彼が「さらさら」発言を引き出した。その後彼は、何の理由か「小池新党」側から無視され続けている)
に、「全員を受け入れることはさらさらない」と述べ、前原の発言を一蹴した。 両者の思惑は隔たったままなのに、政権交代可能な勢力としての希望への期待ばかりが高まっていた。 小池の「排除」発言が飛び出したのは、その日午後。小池周辺は「前原の『抱きつき』に、(小池は)いらだっていた」と言う。 
 さらに間を置かず、「三権の長」経験者に枝野幸男ら十数人の名前を加えた「排除リスト」が永田町に出回った。
前原も、小池も関知していない出所不明の文書。(しらぬは亭主ばかりなり)
前原は周辺に「フィクションだ」と怒りをあらわにしたが、民進出身者たちは浮足だった。 若狭が民進との協議を経て完成させる手はずだった政策協定書のたたき台も流出した。 民進が一貫して反対してきた安保法について「基本的に容認する」と記されていたため、民進に宗旨替えを迫る「踏み絵」との受け止めが広がった。 「排除」と「踏み絵」に反発した枝野が新党「立憲民主党」を立ち上げた。 無所属での立候補に踏み切る議員も相次いだ。「排除」どころでなくなり、「踏み絵」も民進側との協議を経て穏当な内容
(「現下の厳しい国際情勢に鑑み、現行の安全保障法制については、憲法に則り適切に運用する。その上で不断の見直しを行い、現実的な安全保障政策を支持する」これのどこが穏当かな)
になったが、分裂への流れは押しとどめようがなかった。 前原は「排除リストだとか踏み絵だとか、われわれが『本物ではない』と言い続けても、現実に物事が決まらないなかで疑心暗鬼が高まってしまった」と振り返った。 前原の決断を了とした連合会長の神津里季生(りきお)は「政策と公認の『門』を狭めた小池さん周辺の罪は極めて重い」と言った。 小池は衆院選投開票日の10月22日、出張先のパリで「政党たるもの、政策が一致するのは当然の話だと考えているが、言葉の選び方は注意するべきだった」と総括した。 だが、その後は多くを語らないまま、今月14日、党の代表を辞し、自ら劇場の幕を引いた。

この時系列で進んだ。9月28日の「民進両院議員総会」の前後をしっかり把握しないと・・やはり検証の結果は投票者の肌感覚は当を得ていたということになるなあ。

 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」