紙つぶて 細く永く

2014年6月以前の記事は旧Blog(OCN)からinportしたものそのままです。鋭意改善中です。<(_ _)>

日本の鉄道はこのままでいいのだろうか 17

線路は続く7 採用候補者名簿の工夫

(文中敬称略)

JR7社発足にあたって新会社の採用候補者が選ばれた。責任者は職員局葛西敬之。全職員に旅客会社と貨物会社計7社の中から第一希望から第五希望までを聞き合わせた。そして勤務成績などを加え評価データとして整備した。
また並行して希望退職、国鉄を退職しJRへの採用を望まない希望者の募集も行った。その結果、予定数の2万人を上回る2万2千人に達した。そのため新会社への、「再雇用」を希望する職員を全員採用しても欠員が生じる見込みとなった。そこで井手や葛西たちは下記にあげる国鉄改革法23条の「基準を提示」に目を付けた。

日本国有鉄道改革法第二十三条  承継法人の設立委員(当該承継法人が第十一条第一項の規定により運輸大臣が指定する法人である場合にあつては、当該承継法人。以下「設立委員等」という。)は、日本国有鉄道を通じ、その職員に対し、それぞれの承継法人の職員の労働条件及び職員の採用の基準を提示して、職員の募集を行うものとする。


二人が設立委員会委員長斎藤英四郎に「委員会として採用基準を作ってほしい」と陳情すると、斎藤は「君らがその案をつくれ」と指示をした。葛西らは「不当労働行為といわれないギリギリの線」でその案を作り斎藤に渡した。
採用基準には「(国鉄在職中の)勤務状況からみて、新会社の職員としてふさわしくない者」の除外規定が入れられた。
斎藤は「組織を破壊するようなことばかりやっていた連中を、新会社で、大手を振って歩かせれば、組織は再びおかしくなる。過去の処分歴などが選考基準に入ることはいいことだ」と設立委員会で説明した。
その結果「昭和58(1983)年度から昭和61(1986)年度までの間に停職処分2回以上、または停職6か月以上の処分を1回でも受けた者、それ以外に採用基準に適合しないという理由がある者」という採用不適格基準が盛り込まれた。
 この4年間(1983-1986)に限るということになれば、組織を守るために”大転換”を図って分割・民営化路線に協力してきた動労組合員の処分は皆無に近く、国労を中心に全動労・千葉動労に不採用が集中した。(「昭和解体」牧久より)
国労動労の分離を図り分割民営に賛成した動労に有利に働くような基準作りだったことは否めない。このことが23年という長く厳しい長期裁判の要因ともなった。参照

日本の鉄道はこのままでいいのだろうか 16 - 紙つぶて 細く永く


1988(昭和61)年初めの職員数は27万7000人。JR新会社の採用予定数は18万3000人。
しかし、実際は転出者や退職者も増え年度末では職員数は21万6000人まで現象し、新会社発足直前では本州の3社(東日本・東海・西日本)は合わせて9000人の欠員でスタートした。
その一方、北海道で4300人、九州で2300人が地元採用を希望し清算事業団職員として残った。その70.8%が国労員で残りが(動労とは別の)全動労・千葉動労の組合員だった。
そして「新しく」JRの社員となった職員も新しい職場でそのモチベーションの高揚もあいまって勤務についた。

 

JR7社発足

国鉄からJRへの歴史は、「昭和の解体」というテーマで語られた。

国交省に日本の鉄道史という資料がある。それによると、
1893(明治26)年度には官私合わせて約3,219キロメートルであった鉄道路線は、1906(39)年度には8,047キロメートルに達した。

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明治末の国鉄路線

轍のあった道 より

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大正末の国鉄路線

轍のあった道 より

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昭和末の国鉄路線(国土数値情報を元にBlog主が加工)


国鉄としての総延長路線は20,920kmが最長となった。

国交省「日本の鉄道史」より
    21 世紀に向けて、国土の均衡ある発展を図り、豊かさの実感できる社会を実現するために、交通関係社会資本の充実・強化が重要とされる中、特に鉄道については、環境問題及びエネルギー問題等の制約の中で期待が高まってきた。 しかし、鉄道の整備は、投下資本が多額であり、投資の回収に長期間を要するため、中長期的な見通しに立ってめざすべき鉄道の姿を示し、鉄道整備を計画的に進めていく必要があると認識されてきた。 このため、平成3年の鉄道整備基金の設立を機に、同年6月、運輸省は運輸政策審議会に「21 世紀に向けての中長期の鉄道整備に関する基本的考え方について」を諮問し、4年6月に答申が出された。 この答申は、鉄道に対する期待の高まりの中で、国鉄の分割・民営化により民間を中心として進められることとなった鉄道整備についての基本的方向を示したものであり、鉄道整備の目標を具体的に示したこと、国、地域社会及び利用者等の関係者が、それぞれ必要な負担を行い、鉄道整備の実現のために一層努力することを求めたこと等が大きな特徴である。 なお、整備目標としては、幹線鉄道について、
  • 新幹線を含む全国主要幹線鉄道の表定速度の平均を時速 100km から時速 120km 台までに向上させること。
  • 鉄道特性のある分野について、東京、名古屋、大阪、福岡または札幌から地方中核都市までを、少なくとも、概ね3時間台で移動できるようにすること。
  • 都市鉄道について、
  • 東京圏については今後 10年程度でラッシュ時の主要区間の平均混雑率を全体として 180%程度にすることとし、大都市圏の都市鉄道については、長期的には、ラッシュ時の主要区間の平均混雑率を全体として 150%程度にすること。
  • を提示した。 
国交省「日本の鉄道史」より
  1. 上限価格制の導入
  2. 認可対象となる運賃水準及び運賃体系は上限のみとし、事業者は上限運賃の範囲内であれば報告 のみによって運賃の設定・変更が可能であることとした。これによって、事業者の自主性の拡大及 び規制コストの軽減が図られるとともに、利用者ニーズに応じた多様な運賃設定が弾力的に行われ うることとなり利用者利益の増進が期待されることとなった。
  3. ヤードスティック方式(基準比較方式)の強化
  4. 鉄道事業の経営効率化を推進するため、例えば、線路費実績単価等の何らかの指標によって事業 者の比較を行い、非効率によるコスト増は運賃等によって回収できないとすることにより生じる事 業者間の間接的な競争を通じて効率化を推進するヤードスティック方式について、比較方法の緻密 化、適用方法の改善、経年変化による効率化努力の評価、公表データによる基準コストの算定、計 算方法及び計算結果の公表並びに対象事業者の拡大といった改良を行い、経営効率化インセンティ ブをより高める方向に強化するとともに、規制コストの軽減及び透明性の確保を図った。
  5. 原価計算方式の改善
  6. 運賃改定時の原価計算期間をこれまでの1年から複数年度(3年)へ延ばすことによって運賃改 定周期の長期化を図ること等により、規制コストの軽減と経営効率化インセンティブの強化を図っ た。
  7. 手続きの簡素化
  8. 座席指定料金の設定・変更等について地方運輸局長への権限委任範囲を拡大する等の手続きの簡 素化を行い、規制コストの軽減を図った。
  9. 情報公開の推進
  10. 運輸省及び鉄道事業者が運賃改定時等に提供すべき情報を定めた情報公開のガイドラインの策定 並びに新ヤードスティック方式による基準コストの公表等の情報公開の推進を行った。これにより 運賃改定の透明性が向上するともに、利用者等の監視を通じた経営効率化及びサービス向上等の促 進が期待された。 新しい旅客鉄道運賃制度の導入後、11年5月までに 153 社が上限価格制に移行し、このうち 47 社の約5,000区間では、従来の認可制では見られない認可された上限額を下回る廉価な運賃が新たに設定され、 また、乗継割引運賃、時差回数乗車券及び土休日回数乗車券の拡充等利用者利便を増進する多様な運賃 設定がなされる等その効果は確実に現れた。


その後、新幹線開通に伴って第三セクター移管等でJR路線としても在来線は縮小の一途をたどっている。2014年現在JR総延長20,022km(新幹線2,679km 在来線17,342km)「数字で見る鉄道」

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REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

はてなブログ・グラデーションの使い方 某国営放送受信料検証

excel等ではセルの中の書式設定で背景色をグラデーションにすることは簡単にできるが、HTMLでテーブルのセルにグラデーションを描く方法がわからなかった。
いろいろWeb検索をしたところ以下の方法がわかった。
以下にある表「放送の受信形態」で「0%-100%」のセルのグラデーションは、以下のHtmlで記述している。
<td style=”background-image: linear-gradient(to right, #819FF7,white);” rowspan=”8”>0%ー100%</td>

解説(または余計なお世話) td、/td (セル開始とセル終了)
style=”background-image:(style属性で背景画像を指定)
linear-gradient (to right, #819FF7,white);”(グラデーション指定、右から左へ、淡いブルーから、白)
rowspan=”8”(垂直方向セルの数8個を統合)


今回は横方向のグラデーションなのでlinear-gradientの後に「to right」を挿入している。縦方向であればこれを省略。

某国営放送を視聴する形態にはざっと以下のような方法・形が考えられる。
登場人物は契約人と実際にサービスの提供を受ける視聴者、そして大道具として放送、小道具として視聴機器各種。この配役で以下の表「放送の受信形態」を作成した。

項「所有」は視聴者の所有非所有区分、
「特定」は契約時に住所を記入するので住所に付帯する機器類。
「視聴割合」はサービスそのものをどの程度受けるかその割合、
「判決」でA支払100%と記載した部分は判決で契約人に支払い義務が発生する。同じく判決項で「要求」は判決では触れられていないがNHKとして現在契約を要求している。
いまのところ視聴する機器全部が一斉に故障の期間は受信料不要とのこと。いいかえるならどれか一つでも正常であれば受信料支払いが必要となる。
まず契約自体は所帯単位とするらしい。すると所帯主が契約するか否かということになり、たとえば所帯の構成員だけが放送を視聴していても所帯主が契約することになる。
次に、契約主と視聴機器の所有非所有の関係が出てくる。
そして当然どれだけ視聴するかという視聴割合がある。

放送の受信形態
契約人 視聴者 所有 視聴媒体 番組 特定 視聴割合 区別 判決 媒体
故障
所有 TV 視聴 0%ー100% 1 A支払100% 確認後不要
ラジオ 2 A支払100% 確認後不要
携帯ワンセグ × 3 A支払100% 確認後不要
携帯電話 × 4 注1  
車載TVナビ × 5 要求 確認後不要
カーラジオ × 6 注2  
WebWi-Fi × 7 注1  
WebLAN 8 注1  
TV 視聴せず   9 A支払100% 確認後不要
ラジオ   10 A支払100% 確認後不要
携帯ワンセグ ×   11 A支払100% 確認後不要
携帯電話 ×   12 注1  
車載TVナビ ×   13 要求 確認後不要
カーラジオ ×   14 注2  
WebWi-Fi ×   15 注1  
WebLAN   16 注1  
非所有 TV 視聴 0%ー100% 17 A支払100% 確認後不要
ラジオ 18 A支払100% 確認後不要
携帯ワンセグ × 19 A支払100% 確認後不要
携帯電話 × 20 未言及  
車載TVナビ × 21 未言及  
カーラジオ × 22 未言及  
WebWi-Fi × 23 未言及  
WebLAN 24 未言及  
TV 視聴せず   25 A支払100% 確認後不要
ラジオ   26 A支払100% 確認後不要
携帯ワンセグ ×   27 A支払100% 確認後不要
携帯電話 ×   28 未言及  
車載TVナビ ×   29 未言及  
カーラジオ ×   30 未言及  
WebWi-Fi ×   31 未言及  
WebLAN   32 未言及  

注1)インターナット向けに同時配信予定。その場合はインターネット受信だけでも受信料同額徴集予定。双方契約の場合は1本の受信料のみ。
注2)区別6のカーラジオの場合は「契約していれば無料」であるが他の機器が無くカーラジオのみで聴取の場合は徴集と思われる。

旅館やホテル等多数の放送受信機を設置している法人はその台数分受信料を支払わなければならない、2017年3月東横インは未納している19億3千万円の受信料を支払えという判決がおりた。東横インはもちろん控訴した。
昔はNHKとしても契約の時に受信機数量を阿吽の呼吸で決めたり、ホテルの稼働率を基礎に契約台数算定をしたこともあったようだ。

www.bengo4.com


しかしビジネスホテルでそんなにテレビを見るものだろうか。

また多くの場合契約主と視聴者はまったく異なることになる。 例えば、個人宅で所帯主の意向に関係なく家族が内緒で携帯電話を契約しワンセグ携帯にて視聴していた場合も契約の対象となる。 組織なら、例えば毎日組織の機器でヘビーに視聴する人は無料でサービスを受けることが可能であり、一方で「下らん」番組は見ないと、自宅にて、ためになる「7時のニュース」しか見ないひとは少ないサービス提供で満額の支払いとなる。

 



次に視聴度数を考えてみた。

放送18時間/dayのうち1日あたり見る番組時間
平均視聴時間/日 18時間 5時間 3時間 1時間 30分 15分
1ヶ月計 540h 150h 90h 30h 15h 7.5h
視聴度数 100% 28% 17% 6% 3% 1%

放送は毎日18時間行われている。その放送をどれだけ見るのかという問題。
毎日100%、18時間(垂れ流しで)見ている場合と比してそれぞれ平均5時間/日から15分/日まで見た場合の視聴度数が上記だ。もちろん視聴しない場合は0%となる。
毎日5時間テレビを見る人が世の中にいるとは信じがたいが(いるのだろうな)、その場合でも配信された放送の28%しか視聴していない。他のメディアに比してテレビは圧倒的に情報の垂れ流し度が多くなるのだ。
余談として、ジャーナリストの間ではNHKの取材を受けた地域の取材コストはインフレになるものらしい。潤沢な資金がそうさせるのだろう。

受信料社会保険論も、社会保険の場合は保険料支払いは地方自治体や健保連であり、実際の医療サービス提供を受けるのは病院や診療所等の信頼ある別組織となるところが、徴集もサービス提供も双方同じ忖度付き公共放送という受信料制度と異なる。

greengreengrass.hatenadiary.jp

NHKはスクランブル放送を行わない理由として、「特定の利益や視聴率に左右されず、社会生活の基本となる確かな情報や、豊かな文化を育む多様な番組を、いつでも、どこでも、誰にでも分けへだてなく提供する役割」ということを上げている。
確かな情報が届けられているならまだしも、権力に立ち向かう取材をしたところで放送できないという、ていたらくを見せられているくらいだからまだまだ信頼を持てないし、このままならNHKがなくても我慢できる。

最高裁の判決はこのような事情を考慮したのだろうか。いかに国民の知る権利擁護のために「正しい公共放送」が必要としても、そのサービス享受にこれほどの多岐にわたる選択があるのなら、やはりそれは平等なサービスということを目指すべきだ。
 このような多様な受信方法がある状態で、加えて現在の忖度付き放送内容からも納得できるのは、やはり受信サービスを受けた頻度により受信料を徴収するという方法だろう。
 その方法はさまざま考えられるが一番正確で、技術的にも実現しやすいのは、一部番組でもすでに取り入れられている、双方向機能により番組視聴時間を収集する方法と考える。
この方法はインターネットに接続されている所帯に限定されるが、専用アプリをインストールし視聴結果を集計する、あるいは別途番組視聴時間記録機を開発してもいいだろう。そして集計された視聴度数に応じて支払うという、電話料金のような支払方法だ。
 インターネット経由の受信契約(上記注1)所帯向けのみのお得サービスとしてもいい。
 これなら見ただけ支払うという平等なサービスとなる。これは副次的に視聴率調査数が劇的増加につながるというおまけもあるし、各番組ディレクターも励みになるのではないか。見ない人は払わなくていいし、見た人は見た分だけ払おう。

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

青春18きっぷ弾丸周遊

乗り鉄路線巡り 金沢に続いて今回も弾丸周遊
路線は弾丸強行最長一日大回り、奈良線・関西線・城東貨物船(おおさか東線)・片町線東海道線山陽線津山線因美線・山陰線に挑戦。最下段の地図参照。
まずは京都出発

第一列車 7時24分 609M 奈良行 奈良8時40分

ここから大阪経由尼崎へは関西線と学研都市線がある。愛用のhyperDIAでは8時46分発関西線大阪行きを選んだ。しかし少しでも路線数をこなしたいのでここは尼崎行き直通快速を利用する。この快速は関西線久宝寺経由城東貨物線から放出、東西線で尼崎まで行く。

第二列車 奈良8時43分 7101M 尼崎行 尼崎9時52分

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奈良駅は少し変わった構造をしている。2番ホームに入る列車は両側がホームとなっている。

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ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E9%A7%85より

あさ8時なので3階ホームには寒風が吹いていた。そして乗客を降ろす側と乗る側両方のホームに向けてドアが開いた。
この車両は1車両4ドアで両側8ドアが開きそこから寒風が吹きこんできた。
乗客も少ないので両側のドアを開ける必要はなさそう。なぜこんなに広く開放するのだろうと不親切な対応を嘆いた。
列車は関西線で久宝寺まで走る。その間「郡山」「大和小泉」「法隆寺」「王寺」と停車するが、土曜日だからか乗ってくる人は少ない。久宝寺駅ではホームに列ができていたが、その通勤客達も、直通で大阪行きに乗るのだろう、だれも乗ってこなかった。
列車は城東貨物線を走る。この貨物線は久宝寺-放出区間が2008年から旅客運送も開始されている。その城東貨物線(おおさか東線)はレール音が小気味よかった。下記レール音(向いの乗客話し声が少し入ってます)を聞きながら続きをどうぞ

soundcloud.com

列車は放出から片町線東西線に入り尼崎まで。松の内だからかその間やはり乗客は少なかった。

 

尼崎からは姫路まで

第三列車 尼崎10時5分 3229M姫路行 姫路11時3分

この列車は満員で当初座れなかった。三ノ宮で降りる乗客があり座席確保。

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姫路では4分の待ち合わせになるのでまっ先に下車、向いのホームに並ぶ。

第四列車 姫路11時7分 959M播州赤穂行 相生 11時26分

未踏線の赤穂線まわりも考えたが、岡山乗り継ぎ時間がぐっと短くなり休憩をとれないのでやめた。

第五列車 相生11時28分 1315M岡山行 岡山12時38分

岡山駅で駅そば(うどん)昼食、そして吉備団子。

第六列車 岡山13時5分 3938D快速ことぶき津山行 津山14時11分

 

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夕食は鳥取で駅弁購入車内で取ると考えているが、念のため岡山でばら寿司を買った。でも食べちゃった。これが旅のだいご味。
津山は寅さんのロケ地、そして津山には機関区があった。

www.tsuyamakan.jp

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駅頭にはC11が展示してある

第七列車 津山14時38分 680D智頭行 智頭15時47分

そしてあった、寅さん最後の映画「寅次郎紅の花」冒頭の駅 美作滝尾 停車は1分

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雪景色はここだけだった

この列車は岡山鳥取県境のトンネル物見トンネルに係ると下りとなり、トンエルの中で速度を速めた。あとで調べるとこの区間最高速度は95kmとなっている。でも結構速かった。下記は速度音(トンネル内の音がピークをオーバーしているのでご注意)

soundcloud.com

第八列車 智頭15時54分 658D鳥取行 鳥取16時44分

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鳥取で39分の待ち合わせ。駅のショッピング街が新しいので鳥取駅が新しいと思っていたが、駅自体は1978年の高架化と同じだった。
(ということは寅さん44作と変わっていない)

www.tora-san.jp


夕食の駅弁を求めるがこの時間になると売り切れのものもあり選択肢は少ない。駅を出発する頃に外はすっかり暮れていた。

第九列車 鳥取17時23分 542K浜坂行 18時7分浜坂

ビールと駅弁で車内夕食 2度目のだいご味だ

第十列車 浜坂18時24分 184D豊岡行 豊岡19時30分

もうすっかり暗くなり期待した日本海は見えない。
ここで出発時列車遅延となった。単線区間で下り列車が鹿を発見し、徐行運転の結果数分遅れて到着するという。
車掌が検札の時に、福知山からの連絡か否かを各乗客に聞いていた。ほぼ全員が京都までの乗り継ぎだった。
じつは福知山での接続が11分しかない。この数分が拡大するようだと帰れない(かな)。
 しかしその後列車は鹿を見ることもなく順調に走り、和田山で遅れも取り戻した!
閑散ダイヤだからか? 遅れた列車が遅れを取り戻すという経験は少ない。

第十一列車 豊岡19時33分 446M福知山行 福知山20時57分

福知山からは結構人が乗ってきた。ほぼ満席。

第十二列車 福知山21時8分 1154M快速園部行 園部22時15分

青春18きっぷ有効期間この辺りでは京都方面へ青春18きっぷで「帰る」人が多い。

第十三列車 園部22時17分 286M京都行 京都22時58分


回った経路

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通常運賃9830円 青春18キップ使用2370円

ちなみに当初は逆コースも考えた。帰りを本数の多い山陽線東海道線とすれば途中時間に余裕が生まれるのじゃないかと。しかし組んで見るとだめだった。
鳥取発智頭行きの普通は、鳥取発11時58分から14時10分までない。そして京都から鳥取に12時前に着く連絡は特急でさえ組めなかった。

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

ある公立高等学校の変遷10 「学校」上映中止

かって鴨沂高校では各種の文化的な催しや講演会が開催されその中にヘレンケラーの講演会というものも行われていた。そんな高校での下記記事がどうも気になるので続き。

 「京都・鴨沂高」毎日新聞1994年記事  京郡府立鴨沂高校京都市上京区、小谷嘉明校長) のPTAなどが企画した 山田洋次監督の文部省特選映画「学校」の上映・講演会をめぐり、小谷校長が「山田監督は今年四月の京都府知事選で革新候補を 応援した」という理由で、同校講堂の会場使用を断っていたことが、三十一日分かった。
映画上映は見送られ、 講演会だけ別会場で閧いたが、 関係者から「催しの内容も検討せず、施設借用を拒否したのはおかしい」と批判の声が上がっている。
 映画上映・講演会は、PTAとPTAOB会、前身の府立京都府一高女同窓会の三者が主催。 これまでも作家の水上勉氏の講演会を行うなど。年一回の恒例行事として実施してきた。
 関係者によると、 今年は一年生を対象にした山田監督の講演会と他の生徒やPTAらにも呼びかけた 「学校」上映会を五月二日に計画講堂の会場借用を学校側に申し入れた。
 ところが、小谷校長が四月中旬、知事選の話を持ち出し反対し、講堂使用を許可しなかった。 代替の広い会場を確保出来なかったため 上映会は中止・市内の別会場で同日、講演会だけ行った。
 山田監督は四月十日投開票の京都府知事選で落選した革新候補を推薦する団体のピラなどに推薦人として名前を連ねていた。
 小谷校長は「山田監督は政治的な主義主張を鮮明にしており、生徒に与える影響などを考えた」と話している。

参照 http://coboon.jp/memory.of.ouki/archives/author/memory-of-ouki/page/43

「学校」から見える教育

調べるとその後映画上映が出来なかった山田洋次監督は2000年に学校についての本を発表している。以下その中から

その学校で目にしたのは予想もしないものでした。生徒の年齢はさまざま、昼間の仕事着そのままのような生徒も多い。匂うような生活感がある。教室の雰囲気も決して暗くない。
リタイアした老人もいれば在日韓国・朝鮮人の老婦人、中国からの引揚者、ベトナム人、身体や知能に障害のある人も含めてのびのびとして楽しげに熱心に勉強している。管理されているとか規則に縛られているといった圧迫感がまるでない。進学する生徒はほとんどいなかったから受験という重石がない。校則はまったくといっていいくらいない。服装検査などあるはずがない。ペンキだらけの服を着た生徒もいれば化粧をしてマニキュアした娘もいる。中には妊娠して大きなおなかをした女生徒もいたりする。学校の帰り道に先生を誘って一杯やるなんてことはしょっちゅうだし、廊下の一隅に喫煙所があったりする。
教師もまたほがらかで仕事をたのしんでいるように思えました。校長とか教頭とかいった管理職(学校の現場に管理職という言葉があるのはとても納得いかない)のいない職員室の空気は実に自由でした。

東京都の公立学校の新任教師はひとつの学校に8年以上は継続して勤務できない、という異動要綱があった。1か所に十年も二十年も継続して勤務することからくる弊害はあるかもしれない。また経験を学びあうための交流も必要であろう。しかし夜間中学の場合は異なる。教師も特別なノウハウを持たなければならないし、何より夜間中学にたいする愛情を持っていなければ到底つとまる仕事でない。この学校の卒業生たちは、昼間の中学校の生徒にはない、深い愛着を学校に対してもっているから、卒業して何年もたってから学校を訪問することが多い。身寄りや親しい友人が少ない淋しい境遇の人も少なからずいる。そんな生徒が何かつらいことがあったときに、ぶらりと母校を訪れたくなるときもある。そのようなときに知っている先生、古だぬきのような教師がいなきゃいけない。だから夜間中学の教師であることに喜びと生きがいを抱いている人たちは人事異動の話があるたびに教育委員会と喧嘩しなければならなかった。
Mさんの場合もそうでした。十年で異動といわれたのですが断り続けました。
それを知った生徒たちがMさんを応援することになった。学校の近くの駅に立ち署名運動をしたり、仕事を休んで教育委員会に嘆願に行ったりした。
 しかし、そのことがだんだんMさんに負担になってきた。つまり自分を転勤させまいと一生懸命寒い風に吹かれながら駅前で署名活動をしてくれているこの人たちはみなアルバイトやパート、あるいはいまにもつぶれそうな工場で働いている。それに比べて自分は公務員として彼らの誰よりも安定した地位にいる。その自分がみんなに守られているのはおかしい。守られなければならないのは自分ではなく、彼らではないか?
そして彼らに自分の考えを正直に告げ、生徒たちの気持ちをおさめてもらい、転勤を承諾したのです。

この講演会を拒否した校長はこのような自由な雰囲気がいやだったんだ。「個性の確立に努めるとともに、社会について広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと」その教育を拒否したのだ。そして自身は教師ではなくすっかり管理職になったんだ。

 

世の中の動き

1971(昭和46)年、中央教育審議会が、我が国戦後教育政策の中で初めて「個性尊重=多様化」路線を打ち出した。 「初等・中等教育は、人間の一生を通じての成長と発達の基礎づくりとして、国民の教育として不可欠なものを共通に修得させるとともに、豊かな個性を伸ばすことを重視しなければならない。そのためには、人間の発達過程に応じた学校体系において、精選された教育内容を人間の発達段階に応じ、また、個性の特性に応じた教育方法によって、指導できるように改善されなければならない」
この多様化路線流れはその後も維持拡大され1985(昭和65)年臨時教育審議会は第一次答申で次の様な指摘をした。
「我が国の著しい経済発展は、教育の量的拡大をもたらすとともに、学歴偏重の社会的風潮を一層助長した。このため、いわゆる一流企業、一流校を目指す受験競争が過熱し、親も教師も子どもも、いや応なく偏差値偏重、知識偏重の教育に巻き込まれ、子どもの多様な個性への配慮に乏しい教育になっている」
すなわちこれは「子どもの個性を配慮するならば、受験競争に適性のない子どもは早い時期からそのようなルートから外してあげるべきだ」ということになる。

「学校」から見える教育

映画「学校Ⅱ」は北海道の雨竜という町にある高等養護学校をモデルにし、実際にその学校で大勢の生徒、先生、職員たちの協力でロケーションができた。その学校にかって本間さんという校長先生がいた。この学校の先生たちは本間さんを慕っていました。本間さんは障害児教育一筋に生きてきた人です。北海道の人で、父親は早くに亡くなって母親が肉体労働をして大勢の子どもたちを育ててくれた。だから早く一人前になってお金を稼いで、母を楽にさせたいとずっと思っていた。工業高校を出てすぐに働き始めたのですが、あるとき勤め先が倒産してしまった。そこで学校時代のクラスメートで聾学校の教師をしていた友人に就職の相談にいった。
 ちょうど教員会議の最中で、本間さんは聾学校の校庭でぶらぶらしていた。そこには授業の終わった生徒たちが遊んでいる。本間さんはいつのまにかその生徒たちと遊んでいた。
 ところが教員会議を行っている部屋の窓から、聾学校の校長がその光景をじっと見つめていたのだそうだ。そして教員に尋ねた。「いまあそこで子供たちと遊んでいる見かけない青年はだれかな」そして本間さんの友人が「あれは私の友達で、就職の相談で訪ねてきたんです」というとその校長はかれに「どうだろう。あの青年、うちの学校で働く気はないかな。聞いてみてくれ」といったのだそうです。その時代のことだから、おそらく代用教員という形があったのかもしれない。とにかくその聾学校の校長は一目で、窓越しに、聾唖の子どもと遊んでいる姿を見ただけで、「この青年は障害児教育にふさわしい人材だ」ということを見破ったわけです。

青文字段落 山田洋次:「学校」が教えてくれたこと:より抜粋
教育についての見識が鋭い。まさしくこのよう監督が手塩にかけて育てた教育界の映画上映こそ「高校」という学校でされるべきなのではなかったか。
シリーズ「変遷9」で書いたように「府一」には「鴨沂会」という卒業生組織がある。立派な会館を持ち、公益財団法人となっている。鴨沂高校全体同窓会事務局も鴨沂会館にあるようだ。しかし新制鴨沂高等学校との距離は微妙だ。組織は一体となっていない。
京都府立第一中学、一中同窓会は洛北高校同窓会と「京一中洛北高校同窓会」として一体になっている)

周囲の先輩を含めた卒業生に聞くと、ほとんどが校舎建て替えについてすら関心を示さない。もはや母校を懐かしく思う気持ちさえ失われたのかもしれない。2017年秋の総合同窓会も17000人強の登録会員の中100人弱の集まりだったと聞く。
「鴨沂」名付け親の京都府立第一高等女学校を1.0とするなら1970年ころが鴨沂高校2.0、そしてそれ以降特に制服採用以降は鴨沂高校3.0と校舎とともに変節した。このことは間違いないようだ。
鴨沂の教育史記録に邁進された旧教職員の会とともに、老兵は死なずただ立ち去るのみか。
ぶらりと母校を訪れたくなる卒業生が何人いるのか・・

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

弾丸金沢ver2

青春18切符で金沢行き。

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草津線所属のshinobitrainが停まってた 今日は忍びで湖西線

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天気は良かった

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比良付近 この辺りの琵琶湖からの朝日は美しく湖面に反射する

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少しずつ雪が舞い始め

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永原駅はすっかり津軽気分

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田も白い

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木々も雪をまとい

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地形からこの辺りは日本海からの冷気が琵琶湖にまで達する。そのため日本海側に降る雪の一部が滋賀県に侵入してくる。

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金沢に入っても雪

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金沢 駅そば「 加賀白山そば」白えびかき揚げうどんといなり2個の昼食

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今はクリスマスの飾りつけ

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京都駅8時15分 新快速敦賀行き3204M 敦賀9時50分
敦賀9時53分 普通福井行き237M 福井10時47分
福井11時13分 普通金沢行き337M 金沢12時42分
ここで昼食とお土産買物、雪でもあり駅構内散策
金沢14時30分 普通福井行き346M 福井15時58分
福井駅で時間があるので夕食の駅弁を買い、喫茶またお土産(羽二重餅が美味かった)

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ここにも似たようなクリスマス飾りつけ

福井16時46分 普通敦賀行き244M 敦賀17時35分
敦賀から未踏線小浜線

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敦賀17時44分 東舞鶴行き942M 東舞鶴19時38分
(この間1分 同じホーム向い側から発車)
舞鶴19時39分 綾部行き352M 綾部20時16分
(この間2分 同じホーム向い側から発車)
綾部20時18分 園部行き 園部21時17分
園部21時20分 京都行き 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

ある公立高等学校の変遷 資料2 高校三原則と進学率

京都府の高校三原則に関わった人達とその時代そして進学率を一覧にした

京都府知事 府教委委員長 府教育長 京都市長 学区制 京都府
進学率
全国
進学率
順位
木村惇
1947/4-1950/4
    神戸正雄
1947/4-1950/1
1947 新制高校発足 - -  
牧野虎次
1948/11-1949/10
天野利武
1948/11-1953/4
1948   - -  
1949 小学区改正 - -  
四方秀吉
1949/11-1950/10
- -  
1950 小学区改正 32.5 27.5 4
蜷川虎三
1950/4-1978/4
上田一夫
1950/11-1952/10
高山義三
1950/2-1966/2
1951   26.2 21.1 3
1952 小学区改正 - -  
山田俊三
1952/10-1953/9
- -  
1953   - -  
芦田重左衛門
1953/11-1956/9
細谷健治
1953/4-1958/1
  - -  
1954   19.5 17.2 5
1955 小学区改正 20.2 18.4 10
1956   22.0 19.5 7
小林英生
1956/10-1957/9
 
1957   16.9 15.3 11
芦田重左衛門
1957/10-1958/9
 
1958   15.8 15.8 17
小林英生
1958/10-1961/10
鈴木茂
1958/2-1960/4
 
1959   16.5 16.3 14
1960   16.0 16.5 15
谷口次郎
1960/4-1967/11
 
1961   17.3 17.2 12
原与作
1961/10-1962/4
 
1962   17.9 18.6 16
山田忠男
1962/4-1969/9
 
1963   19.1 20.1 17
1964   21.7 22.5 16
1965 小学区改正 24.3 24.5 12
1966   22.7 22.2 20
井上清
1966/2-1967/1
 
1967        
岡田実職務代理
1967/12-1969/7
富井清
1967/2-1971/2
  - -  
1968   22.9 22.2 16
有本武二
1969/10-1972/10
1969   23.8 22.3 17
仲島秀夫
1969/7-1971/8
 
1970   25.8 23.3 16
1971   29.1 25.7 12
大八木正治
1971/9-1975/3
船橋求己
1961/2-1981/7
 
1972   32.4 28.1 10
三島宗彦
1972/10-1975/8
 
1973   35.9 30.2 8
1974   37.5 31.2 7
山田忠男
1975/10-1976/10
1975 小学区改正 40.9 33.2 5
金子欣哉
1975/4-1976/3
乾昭三
1976/10-1979/10
1976   40.3 33.2 5
川本 邵
1976/4-1985/3
 
1977   41.4 33.4 5
1978   39.4 32.9 6
林田悠紀夫
1978/4-1986/4
 
大槻彌一郎
1979/10-1986/7
1979   38.9 32.1 5
 
1980   37.7 32.0 8
1981   36.8 31.5 8
今川正彦
1981/9-1988/8
 
1982   35.9 31.0 9
1983   34.9 29.7 8
1984   34.7 29.7 8
1985 バス停方式(注) 35.5 30.6 8
仲  勲
1985/4-1987/1
1986   36.1 30.4 8
荒巻禎一
1986/4-2002/4
谷口良三
1986/7-1988/7
 
1987   35.1 31.1 13
村上勝
1988/8-1991/10
西野是夫
1987/4-1992/4
 
1988   36.1 31.0 11
田辺朋之
1988/8-1996/1
 
1989   36.1 31.0 14
1990   33.8 30.6 13
1991   36.4 31.7 12
藤田一
1991/10-1994/7
 
1992   37.5 32.8 13
安原道夫
1992/4-1998/5
1993   39.8 34.6 12
1994   42.1 36.2 10
森田嘉一
1994/7-1999/12
 
1995   44.4 37.7 9
1996   45.8 39.1 7
藤田晢也
1999/12-2006/3
桝本頼兼
1996/1-2008/2
 
1997   48.4 40.8 5
武田盛冶
1998/6-2001/3
1998   51.8 42.6 4
 
1999   54.2 44.4 2
2000        

注)バス停方式 普通科1類への合格者が最寄りバス停名を申告、そのバス停単位で各高校入学者を割り振った。

ある公立高等学校の変遷 資料1 多くが抱く誤解

京都の公立高校進学率について通学区に対する誤解は多い。
何人かの教師からも聞いたが、小学区制で通学区が変わる、すなわち地区によって大学進学率が変わっているのではないか?
という疑問だ。しかし数字を拾った結果は小学区で通学区の変化に連動するような進学数変化は(決定的では)なかった。
つまりA地区からの生徒が集まる年と、B地区からの生徒が集まる年では小学区である以上進学率に差はでない。これが東京の学校群制度のように同じ地区から例えば3校に生徒が割り振られるような形になれば、学力のある生徒も分散し進学者数も三分の一程度になる。

そこで一例として鴨沂高校について、資料が集まった1952年から1990年の京大合格者数と対応する通学区を掲載します。
鴨沂校章マークf:id:greengreengrass:20171227094756p:plainをクリックすると該当する年の通学区を開きます。
開いた通学区図は1年から3年生のそれぞれ異なるの通学区が混在する年には2図掲載しています。上が前回の通学区、下が該当年の通学区です。同一の場合は当年のみ掲載。
初年度1952年は通学区改正が1949年、1950年、1952年と行われたので3図となっている。

 

年度

京大合格者数

通学区

1952 調査できず
1953 42
1954 調査できず
1955 調査できず
1956 調査できず
1957 調査できず
1958 調査できず
1959 調査できず
1960 45
1961 調査できず
1962 32
1963 35
1964 31
1965 34
1966 20
1967 22
1968 22
1969 6
1970 26
1971 8
1972 8
1973 6
1974 8
1975 10
1976 8
1977 3
1978 9
1979 3
1980 6
1981 7
1982 7
1983 8
1984 4
1985 5
1986 0
1987 0
1988 2
1989 1
1990 1


同級生や多くの関係者から「凋落の原因」として通学区の変更を聞かされた。しかし一旦変更されたあと、次回の通学区変更時に元に戻るパターンでもなお低落していることもあり、通学区の変更と凋落の原因はむずびつかなかった。
 特にいわゆる「学校群」制度になってからはブランドとしての鴨沂高校の「人気」は凋落し、学力も進まなかったようだ。

公立校全般について考えるなら、人気私立高校の成績増進、長期勤務経験のある教師の移動(退職)、教育カリキュラムの変更、総体的な教育委員会としての注目度、大学進学率が変わらないとすれば難関校よりも一般校への入学増、国公立よりも校風の確立した私学へという流れ、これらの相乗効果で京都大学進学数が激減したのではないかと判断したいが、それにしてもこの数字は謎をはらむ・・

 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

ある公立高等学校の変遷9 変節といってもいい変化

教育界の鴨沂高校にたいする評価は、「鴨沂高校、あっあそこは特別ですね」という学校歴史博物館学芸員の発言に代表される。
学校としての出自を鼻にかけることもしかり、また一方下記のような「民主教育」を通じて独特の校風を築いたこともあるのだろう。
「鴨沂」という校名は、鴨川のほとり(沂)というところから名付けられたときいたが、新制高校として発足したときには既に京都府立第一女学校卒業生の会「鴨沂会」があった。この名からつけられたのが正しいだろう。
IME漢字変換でもなかなか出てこない文字だ。
それでは前回までの進学率検討の一助として今回は、その鴨沂高校を舞台に、この時代を見てみよう。

「鴨沂の歩み」から紐解く教育

前回長時間対話したO先生は生徒部への配属ということだった。
私が高校生だったころ、まったくの惰性ノンポリクラブ一途生徒だったので、アセンブリーなどはよく欠席したもので自慢できないことであるが生徒部の先生から教育的指導も受けた。

鴨沂高校では入学の折には以下のような小冊子が配られた。

 鴨沂の教育(原文のまま) 全国で数多くある高等学校の中で特に「自由の学園」として鴨沂高校は京都の人々だけでなく全国的にも有名です。
これは京都の高等学校が高等教育を行なう上で最も大切な「 高高三原則」を終戦後からずっと守って来たからです。
この「高校三原則」は「男女共学 制」・「小学区制」・「総合制」から成り立っており、現在この三原則が守られているのは全国でただ一つ京都だけです。
「男女共学制」とは言うまでもなく今までの小中学校の中で経験されてきたように男子と女子が共に学ぶことによって互いの価値を正しく認め合い、その特性を伸ばし、人間として互いに高めあって正しい人格を形成していくために必要な制度です。「小学区制」とは皆さんが鴨沂高校に入学して来た様に一つの地域に一つの高校といったもので、その地域に住む生徒はその高校に進学するという制度です。[大学区制」とは一地域にいくつかの高校があり、成績により学校が決まります。 そのため一流校、二流校といった学校差がつ きます。
例えば東京都では東大合格者が日比谷・小山台・九段等の有名校にかたまりその他の高校は全くありません。ここでは日比谷をのぞく学校が互いに補習授業をはじめとする色々な方策で東大の入学率をよくしようとして学校全体が競争し合う状態にあります。
そして高校教育が完全に大学入試のための予備教育となっています。
また、一流校に男子が集中するため自然に男女共学制も破壊されています。それに比較して京都は京大合格者がすべての高校に平均しており、他府県のように学校同志の競い合いがありません。
だからこれは一流校、二流校など各学校に格差をつけて進学本位とか就職本位とかの学校ができないために必要なのです。「総合制」とは専門学校を特別につくらずに学校の中でそれぞれ自分の選択によって専門の授業が受けら れる様にした制度で、鴨沂にみるならば商業課と普通課が一緒にあることです。これは、高校が単なる大学の予備校になったり、また技術を身につける職業訓練所の様になるのを防ぎます。またその高校に入った時からその人の将来が決められてしまうより、高校生と して三年間自分の特性を生かして自由に学んだ中で自分で自分の進路を決めていくようにするためにも重要なことです。
また、鴨沂高校では普通課と商業課の人が一緒になって授業、H・Rが行なえる様に流動講座制になっています。流動講座制というのは一科目の授業が終るごとに教室と講座人数が変るものです。
これは前記の「総合制」 に関連しています。たとえ総合制が実施されていても講座が固定されていると普通課組と商業課組とが分裂してしまい、互いの間に対 立心がおこるといった結果になります。
現に京都のある高校では講座制が行なわれていな いため普通課と商業課とが完全に学校内で分裂しており、普通課は進学一本、それに対応して商業課だけがクラブ活動をやっている様な状態になっています。この様なわけへだてのある教育では真の民主教育とはいえないし、 楽しい高校生活を送ることが出来ません。
しかしH・Rにおいて金曜日を除いては一日十分しか会う機会がないため名前も覚えられないといった風潮が見られますが、行事等を通じてここで普通課と商業課とのつながりが生まれるので、H.R運営は確実に行なっていかねばなりません。
また、鴨沂では自主的判断をやしなうため に他校にはみられない様な多くの行事や週一 回のAがあります。鴨沂における自主活動には、A、H・R、行事、クラブ活動などがあります。毎日学校にきても授業のみをうけていては高校生活の楽しさは味わえず、世にいう灰色の高校生活となってしまいます。そしてものを考え、判断することができないましては自分の人生も考えられない人間になってしまいます。高校生活では勉強にはげみ、そしてそれと並行に自主的判断をやしなう必要があります。人の意見をきき、思想を高めて自分の考え意見を発表することにより社会を 正しく批判できる人間にならねばなりません。
また、H・Rに参加することにより勉学を共にする友の他にまた別の友人を見いだせます。H・R単位で行事などに参加するためH ・Rに出席しクラスメートとかたく団結する事により、H・Rを楽しぐ意義あるものにする事が必要です。またクラブ活動に参加することにより、上級生と交流でき個人ではできない亊を経験できます。以上のような自主活動は鴨沂高校の基盤となっていますから、これらに参加することは自治会員として当然の事になります。以上のべた自主活動を行う上において特に間違っている事に対してはそれに批判を加えた意見を訴えなくては前進がありません。これらを行うのに特に鴨沂では「言論の自由」 が認められています。A、H・Rをはじめ全校生徒に訴えたい時はビラを配るか銀座通りに掲示をしたりします。これが鴨折が「自由の学園」と言われるゆえんなのです。しかしこ れらの自由(権利)を行使すれば必ずそれに裏づけされる義務・責任を果さなければなり ません。最近では「自由」のみを主張する傾 向があり、自由が利己主義・無責任といったものに変貌しつつ、自らの自由に制約を加えて来ています。「自由な学園」であるからこそ、自分の意見と行動に民主的な確立されたものがなくてはなりません。特に「言論の自由」においてはあくまでも基本的人権を重んじたもの、建設的なものでなくては、鴨沂の 「自由・自主制」を発展させていくことは出 来ません。破壊的・反動的なものは自主活動の前進につながりません。また、服装の自由にしても勝手きままな物を着てもよい、というのではありません。あくまでも「高校生らし い」という事が基本になります。 鴨沂の「自由」には責任ある態度をもち、 それを社会に対して誇れる「自由」にしてい くことが我々の課題なのです

多分生徒の文章だろう。
注)「A」はアセンブリーのこと。「H・R」はホームルーム。ロングとショートのH・Rがありロングは週一回1時間、ショートは毎日10分
アセンブリーとは英語で「社交・宗教などの特別の目的の集会、会合、会議、小学校などの朝礼、集合(すること)、集まり、(米国のある州議会の)下院、立法議会」などの意味だ。

中村保雄先生の「鴨沂の歩み」 第一号の巻頭言

以下は鴨沂高校旧教職員の会という組織で鴨沂の教育を記録しようと発刊された「鴨沂の歩み」1号からの文章である。

 鴨沂の歩みーその在り方を中心に 中村保雄 鴨沂高校は、旧制の府立第一高女・第一中学・嵯峨野高女の三校が合併し、新制高校として昭和二十三年秋に発足した。これは進駐軍の指令により新制中学を充実させるためにとられた統合処置である。
そしてその制度は「地域制・男女共学制・総合制」だった。
 しかしそうであっても、とくに本校は発足当初からその運営を旧制高校がもつ自由の精神をかかげていた。そのため教職員は、自由な討論によって諸事を決定しようとする。
筆者はそうした空気が醸し出される発足当時より二年余をへた昭和二十五年暮に転勤してきたが、もちろんその職員会議の活発な討論、とくに学校長をまき込んで進められる様子は、今も忘れない。
したがってそうした空気は、ホームールームを中心とする生徒の教育にも引きつがれていた。
そしてそれは勉学にも及び、昭和二十年代後半までは大学進学率もよく。東の日比谷、西の鴨沂とまでいわれたのも、その現れであろう。
 ところで昭和三十年代に入ると、その様子は徐々に変化してきた。高校全入制運動の中で大学生が底辺層まで拡大してくると、発足当初の雰囲気も少しづつ失われてくるのも事実である。
そのため教員側が積極的な指導で運営しようとしても、なかなか進捗しないと いう悩み、いいかえると教員側の自信のなさにもつながってゆく。たしか全国的に三原則が崩れようとした二十年代後半と思うが、生徒部の責任者であったSSさんと教務部の筆者とが、他地方の高校教育の実情を調べにゆくことにした。それは東京都・名古屋市大阪市の各数校に及ぶものである。しかしそこで得たものは、本校の教育の進め方に誤りのなかったことが確認できた。その自信と努力とは、筆者が退職する昭和五十五年頃まで引き継がれていたように思う。
 なお筆者が昭和四十七年から三年間、府の研究所に転じた時、所員の多くが京都府の教育の在り方を心配していた。そのため府立高校卒業生で、社会人となって府外で活躍している人たちに「府立高校で学んだ良さと悪さ」を中心に調査をしたことがある。ここではくわしく報告する紙数もないが、その回答の多くが社会に出て。他府県高校出身者に比べ て、京都の教育の良さがよくわかったというものである。この中には本校出身者も多く含まれていることはいうまでもない。
 さてこの度の本誌は、「鴨沂の歩み」を生徒と教師の証言でたどることを意図して編集したものである。編集に当たっては、鴨沂高校発足以来の生徒と教師の貴重な証言が多数掲載されている、『OUR SCHOOL OHKI』第十号(学園誌)・第十一号(生徒自治会誌)の特集から引用させていただいた。この点を明記するとともに、本誌を通して鴨沂高校の良さを再認識していただきたいと思う。

この中にでてくるSS先生は以下のSS先生です。
ちなみに中村保雄先生は数学担当でのちに校長になられた。また能面研究の権威でもありました。そちらの方が有名かも。

「鴨沂の歩み」第二号の巻頭言 上田正昭先生

続いて「鴨沂の歩み」2号から

自由と民主主義と人権と 鴨沂高校旧教職員の会 会長 上田正昭   鴨沂高等学校旧教職員の会は、毎年の秋に、懇親会を開催してまいりましたが、一九九三年の秋には、鴨沂高校の歴程を記録として共有すべく『鴨沂の歩みー生徒と教師の証言』 を編集して発行しました。多くの教職員や当時生徒であった方々から幸いにも好評をえてさらに創生期の記録もまとめるべきではないかという意見が寄せられました。
 一九九三年の秋の懇親会で、中村保雄先生のつぎの会長に、はからずも私か選ばれましたが、一九九四年十一月の懇親会のおりに、明年の戦後五十年の節目に、鴨沂高校発足のころ、すなわち鴨沂高校の創生期を中心にした記録を『鴨沂の歩みー生徒と教師の証言』 につづく冊子として発行することが、参会の皆さんのおおかたの意向となりました。
 当会の事務局長であるAT先生を中心に、編集の話し合いがたびたび問催され、①創 生期を中心とする生徒と教師の記録、②当時の生徒と教師の座談会、③「鴨沂新聞」からの採録、④新制高校確立期の教育および校内関係史・資料、⑤戦後教育史における昭和二 十年代の位置を内容とする記録を発行する運びとなりました。 この間多忙のなかを編集の実務にたずさわっていただいた関係者の方々に会の皆さん 共々、篤く御礼を申します。また依頼にこたえて、貴重な寄稿あるいは座談会参加を快諾された生徒・教師の方々に改めて感謝の意を表します。
 この記録の座談会の冒頭でも申しましたが、鴨所高校在職十三年間の想い出には、いまもなお忘れがたい数多くの出来事がありました。私見になりますが、自由とは何か、民主主義とは何か、人権とは何かを肌で学んだのは、鴨所高校在職のおりおりでした。たとえば私が鴨沂高校で最初で最後の担任であったクラスにいた在日朝鮮人生徒との出会い(そ の後は教務・生徒部・評議員などをつとめました)、部落生徒の実情に目を向けようとし た映画『部落』の制作など、韓国・朝鮮問題や部落問題を学んだのも、鴨折高校に在職していたからこそのありがたい教育実践でした。
 すばらしい多くの先生方とのまじわり、活動力・創造力にあふれた生徒の皆さんとの交 流、そのひとつひとつが懐かしく回想されます。
 旧教職員の会の方々も、それぞれに印象の深い鴨沂生活があったにちがいありません。 鴨沂高校創生期のありようは、新制高校の発足時と形成期の理念と現実を照射します。戦後教育史における昭和二十年代の位置とその意義をあざやかに浮きぼりにする作業となりましょう。この冊子がたんなる想い出の文集にとどまることなく、新制高校の過去と現在の探究に寄与する記録となることを期待します。

訃報:上田正昭さん88歳=京都大名誉教授、歴史学者 - 毎日新聞


「黒犬」という記号があったこと、そしてなるほどと感心したこともよく記憶している。部落問題研究会の略称「部落研=Black犬」か変化したのだ。
鴨沂高校アセンブリーでは本当によく被差別部落問題が取り上げられた。

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鴨沂高校外壁石垣

 

「高校教師は訴える」SS先生

黒犬と惰性ノンポリクラブ一途だった私にはほとんど接点はなかった。しかしよく教育的指導を受けたSS先生、そのSS先生の著書「高校教師は発言する」に以下当時の状況が書かれていた。

差別問題をめぐって  鴨沂では、昭和四十一年四月上旬差別ピラがまかれようとした。内容は言葉にできないほど極めて露骨な差別の内容をもったものであったが、この事件が生徒はもちろん、教職員の部落問題に対する意識の根底を洗いざらす生徒会活動となって発展した。
(中略)
 昭和四十二年一月に入って、三回の職員会議、三回の研修会をもって、差別ピラの本質を討論からやりなおす事で、教職員の意志統一をはかり、全校教職員、生徒の学習会を準備した。
一般生徒が十分討議できるように生徒全員を三九分科会にわけた。各分科会には各学年生徒普商生徒が平等になるような配置を実施した。各分科会は生徒司会者二名、記録者一名、教職 員二名(助手も含む)によって運営された。
 討論の質は、司会者によって大きく左右される。とくに、テーマに対する生徒の興味、認識の度合が低い場合には、司会者の影響力は大きい。
 各分科会二名、三九分科会で約八〇名近く の司会者集団を育てることは、簡単なものではなかった。
研究集会をめざして、同和教育研究会、生徒部、部落研、生徒自治会は全力をあげて連日、司会者集団の研究会、教師集団の協議をもって取り組んだ。
 当日、大量の欠席者が出た。一年七四名、二年一五八名、三年四一八名計六五四名という多数であった。三年生は約三分の二も討諭集会に不参加となったわけである。
特に三年の普通科 生徒の欠席が顕著であった。全員が欠席するというクラスが三つぐらいあった。
 部落について不十分な認識をもった教員がその上に立っているため、学校と生徒との間に大きな溝があったからであろう。往復運動にはならなかった。この結果、一部反発が生じ混乱が出てきた。この克服のためには生徒の身の回りの、生徒の居住する地域で現実に学び、それを教材として理論化していく作業が必要であった。
 ″橋のない川″などを休暇中の読書として課題に出すだけに終わって、各教科の内容として組みこまれていないというような弱点があった。しかし、教師の獲得した経験は大きかった。何回かの学習会の中で逃げたり、またごまかすことのできない立場に立たされ、回答をせまられるような経験は今までの鴨沂民主教育の中でなかったことである。助言者としての教職員と司会者としての生徒がともに学習した経験も初めてであった。今までの民主教育の限界を知ったことも大きな経験であった。教師一人一人が逃げることができないところでの思考行動、そこ から民主教育の内容は質的転換をするものである。 日常、多様化路線の中で選別されている商業科生徒の対応の姿勢は、普通科生徒よりも具体的であり、研究集会の欠席はごく少なく、つねに積極的に差別反対の主張をし、つねに解放の立場に立った。ときには涙を流して悔しがり、ときには全身ふるわせて怒りを表現し、ときには冷静に反論したことは注目すべきことであった。
普通科生徒が一般的にいって観念的理解者であり、部落に対して同情論を主張する者が多かった。
 一月三十一日、生徒三十数名參加のもとで、教職員会議が聞かれ、のべ五十数名の生徒が三時問あまりににわたって発言、教職員に各種問題につき訴えた。三年生は、期末試験、入学試験を目前に控えながら出席、冷静に発言、民主教育確立のため教職員の努力をうながした。
 教職員は、次の統一見解を全員一致で決定し今後の出発点した。
 本校における同和教育について 一月三十一日の教職員会識に多数の生徒諸君が出席し鴨沂の教育についてたくさんの問題を訴えました。わたしたちは検討の結果満場一致で次のことを決議しました。
  • 四月の差別ビラについては許すことのできない内容を持ったものであると考えます。これらのピラが本校でまかれたことは憲法教育基本法を否定し民主教育に逆行する一部の社会風潮が学校内にあらわれたものであり、これに対処できる教育体 制が本校に不十分であったことを示しております。
  • 従来の講演、映画などの一方的な知識伝達のみでは生徒諸君の理解が十分得られ なかったことを反省します。
  • 落研を始めとして差別のてっ廃のためにたたかっている生徒有志の自主活動に対しては、わたしたちはこれを支持し援助しなければならないと思います。
  • 教職員に出された部落研のアンケートにはわたしたちは回答すべき立場にあり、回答することこそ同和教育推進の一歩であると考えます。
  • 公開質剛状などのA先生問題は差別ピラに関する部落研のアンケートより発生したものであり、明らかに同和問題であります。公開質問状に回答することは生徒に対する教育の一部であって、当然答えることが正しいと認めます。
  -省略--‐‐
  • 生徒諸君から出された具体的な問題については、各関係者で直ちに方針を出して行きたいと思います。
  • わたしたちは生徒諸君の一人一人が差別をにくむとともにこれとたたかい、学校の中でももしまちがったことがあれば堂々とそれを取り上げてうったえることができる人になってもらいたいと思います。そうしてそのためにわたしたちと諸君が手を収り合って一体となって進んで行くことを決意しました。

当時校内にはなんだかまさしくこのような空気感が溢れていた。

その鴨沂が今回各先生に聞くと変化したようだ。他校は分からないが、少なくとも鴨沂高校は変化した。
頭書にあげたO先生は鴨沂高校生徒自治会会報「OurSchoolOHKI」の創刊を主導されたそうだ。
後年になるが1994年そのOurSchoolOHKIの記事で「学校」上映に関する事件が載っている。この件は毎日新聞でも取り上げられた。

 「京都・鴨沂高」毎日新聞記事  京郡府立鴨沂高校京都市上京区、小谷嘉明校長) のPTAなどが企画した 山田洋次監督の文部省特選映画「学校」の上映・講演会をめぐり、小谷校長が「山田監督は今年四月の京都府知事選で革新候補を 応援した」という理由で、同校講堂の会場使用を断っていたことが、三十一日分かった。
映画上映は見送られ、 講演会だけ別会場で閧いたが、 関係者から「催しの内容も検討せず、施設借用を拒否したのはおかしい」と批判の声が上がっている。
 映画上映・講演会は、PTAとPTAOB会、前身の府立京都府一高女同窓会の三者が主催。 これまでも作家の水上勉氏の講演会を行うなど。年一回の恒例行事として実施してきた。
 関係者によると、 今年は一年生を対象にした山田監督の講演会と他の生徒やPTAらにも呼びかけた 「学校」上映会を五月二日に計画講堂の会場借用を学校側に申し入れた。
 ところが、小谷校長が四月中旬、知事選の話を持ち出し反対し、講堂使用を許可しなかった。 代替の広い会場を確保出来なかったため 上映会は中止・市内の別会場で同日、講演会だけ行った。
 山田監督は四月十日投開票の京都府知事選で落選した革新候補を推薦する団体のピラなどに推薦人として名前を連ねていた。
 小谷校長は「山田監督は政治的な主義主張を鮮明にしており、生徒に与える影響などを考えた」と話している。

参照 http://coboon.jp/memory.of.ouki/archives/author/memory-of-ouki/page/43

上記サイトに
「私もこの事件の時には他校にいましたが、そこでも演劇の団体鑑賞のパンフレットに山田洋次監督のコメントが掲載されていることを理由に生徒への配布を校長に止められました。多分、校長一人の判断というよりも何らかの外部からの圧力があったのだとその時は感じました。」
との投稿がある。
件の校長は上部組織からの指示で講堂使用の許可をしなかったのだろう。昔はこういうのを日和見といった。
一応理由は「政治的な主義主張を鮮明」とのことだが、とってつけたような理由だ。まさしく校長自身が以下の文章などへの理解力があるのかが問われる。

文科省HP[高等学校教育の目的・目標]
  • 義務教育として行われる普通教育の成果を更に発展させて、豊かな人間性、創造性及び健やかな身体を養い、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと
  • 社会において果たさなければならない使命の自覚に基づき、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な知識、技術及び技能を習得させること
  • 個性の確立に努めるとともに、社会について広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと


以上鴨沂高校でもそうであったように、各高校では義務教育とは異なり一種の自由への芽生えを自覚した教育が往年行われた。
私的には近年この自由への芽生えを摘み取るような教育が行われている気がしてならない。「制服」はまさしく管理者としての学校側の立場からの「制限」なのではないか。私服よりもコストは安くなるみたいな弥縫策的いいわけはともかく、自覚を促さず十把一絡げにまとめる方向への圧力が強い。その結果おとなしくいいなりになる、「個性の確立に努めるとともに、社会について広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する」人材を育てるという教育的だいご味に乏しい高校制度になっているのではないか。
結局1970年ころになにがあったかは分からない。しかし上記に見るように「高校」は変わった。その変化が「大学進学率」や「京都大学合格者数」に影響したのかもわからない。
 鴨沂高校旧教職員の会は3年ほど前から親睦を中心とした部分を除き、休止となっている。会員の先生も高齢となり、新しく加入する教員がいないそうだ。
いわば「鴨沂」名付け親の京都府立第一高等女学校を1.0とするなら1970年ころが鴨沂高校2.0、そしてそれ以降特に制服採用以降は鴨沂高校3.0と校舎とともに変節した。
京都では小学区制だからこその縁か、三代にわたり同じ高校という家族も多い。
往年はそうだったし、近年はこうなっている。その中でも教育目標は変わっていなかった。

鴨沂高校の教育目標」 世界の平和を希望し、すべての人々が幸福になりうる社会を目ざして、事実に基づいて真理を追究し、それに従って実践しようと努力する人間をつくる。
  1. 自発的・積極的に学習し、基礎学力を培い、かつ思考力を養成する。
  2. 自治的活動に進んで参加し、相互の人格を尊重し、正しい方法で討論して、その結果に基づき、責任を持って行動する習慣を養う。
  3. 現実社会に関する関心を高め、批判的精神を養成する。
  4. 勤労の誇りと喜びをもち、社会的活動に耐えるような体力を増進する。
  5. 芸術的関心を深め、豊かな情操を養う。
  6. 人間の尊厳という観点から、基本的人権についての科学的な認識を培う。

2014年から京都市と乙訓地域の通学区が1本になった。21校の公立高校から志望校を選択できる。
教師・教育制度・生徒どれも万全の結果をだしたい。その覚悟が行政・教師・生徒それぞれにあるか、きっとそれが問われるのだ。
その高校に毎年新入生は入ってくる、未来に希望はある。

京都主要高校1950年から2009年の
東京大学への入学者総数
洛南高校 984
洛星高校 877
京都教育大付属 79
同志社高校 53
福知山高校 43
舞鶴高校 42
綾部高校 38
堀川高校 36
鴨沂高校 34
洛北高校 33
西舞鶴高校 31
京都共栄学園 29
紫野高校 27
桃山高校 20
山城高校 19
宮津高校 15
朱雀高校 14
嵯峨野高校 12
乙訓高校 11
立命館高校 11
西京高校 9
京都成章高校 8
日吉ヶ丘高校 8
洛東高校 7
京都女子高校 6
洛陽高校 5
西乙訓高校 4
向陽高校 4
東山高校 4
ノートルダム女学院 4
莵道高校 3
塔南高校 3
峰山高校 3
伏見高校 3
亀岡高校 3
出典:東大合格高校盛衰史 光文社新書

 新生鴨沂高校図面

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京都府教育委員会HPより



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REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

ある公立高等学校の変遷8 1970年になにがあったか

1970年に何があったか

前回まで京都市の公立高校13校と東京日比谷高校の歴史を眺めた。そして1960年代と1970年代の間で京都大学進学率の大きな下落が見えてきた。

京都大学合格者(サンデー毎日その他より集計) 東大合格
  鴨沂 洛東 洛北 紫野 堀川 嵯峨野 桃山 山城 朱雀 日吉ヶ丘 乙訓 塔南 日比谷
1965 34 10 22 33   20 20 15 20 15 5     181
1966 20 5 37 31 20 20 15 15 15 20 15   11 128
1967 22 11 26 37 15 19 14   16 15 10     134
1968 22 11 28 43 15 19   18 14 20 9 9 20 131
1969 6 13 14 31 14 15 13 5 7 6 6 7 6 中止
小計 247 50 288 347 64 93 89 53 72 76 45 16 37 1425
1970 26 10 20 31 15 10 9 10 10 14 10 6 10 99
1971 8 7 14 18 9 20 6 6 6 9 5 12   57
1972 8 7 11 17 9 13 7   8     5 5 52
1973 6 5 10 15 10       8 5 10 8 6 29
1974 8 3 15 13 5 9 5 5 10 7 12 10 9 27
1975 10 3 4 19 7 11 5 2 8 5 7 7 7 16
1976 8 2 11 8 8 9 4 7 7 5 3 13 8 17
1977 3 5 9 11 2 7 2 2 4 9 4 10   14
1978 9 3 8 15 9 9 2       3 7   14
1979 3 4 14 9 3   4 2 6 4 2 6 2 18
小計 89 49 116 156 77 88 44 34 67 58 56 84 47 343
1980 6    2                1  1   10
1981 7   7 3 4 5 3 2 5 4   9 2 4
1982 7   6 5 2 4   2 2     4 2 5
1983 8   2 7 3 4       2   4   5
1984 4   2 1   4 2   4     3   6
1985 5   3                 3    
1986     5   7   2       6 2   10
1987     3     5     2 3       10
1988 2 2 4 6   1 2 1   1 1 5   10
1989 1   1 3   1   3 2   1 2 1 11
1990 1   2 3 1 5 2 1 1 2 1 2 1 8
1991 1 1 5 3   1 1 1 2   1     7
1992     2 4   1 3 2 2 2 2   1 8

1970年頃になにがあったのか・・。
まず教育界の話題では、

  • 学習指導要領の数次にわたる改訂・系統重視(1958年) ・教育の現代化(1968年)
  • 高等専門学校制度の創設(1962年)
  • 短期大学の恒久化(1964年)
  • 私立大学に対する経常費助成の制度化(1970年)
  • 教員給与改善(人確法)(1974年)
  • 主任制の導入(1976年)
  • 学習指導要領の改訂(1977年 ゆとりと充実:教育内容の精選と授業時数の削減)
  • 40人学級の実現(1980年)
  • 京都では1965年と1975年に通学区の改定が行われている。

世上を騒がせた「ゆとり教育」は1977年からで少し時期がずれる。
京都市内で1955年から適用された高校通学区 

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1955年からの京都市通学区

次に1965年以下のように通学区が改定された。

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1965年からの京都市通学区

1975年からは以下に変わった。1970年は丁度この間にあたる。

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1975年からの京都市高校通学区

1975年に京都市立向陽高等学校が新設され各校とも前回以上に通学区の変更は大きかった。とはいえ少なくとも公立13校+新設1校を見た場合エリア全体の変動はない。その中で鴨沂高校洛北高校の間でエリアが入れ替わったことが目に付く。もちろんこのような学校間の移動はある。しかし1975年に入学した生徒が大学受験を迎えるのは1978年となる。そのため時代経緯を見ると、この1965年から1980年の間に学校間通学区の差が下記のように最大8割にも上る多大な影響を4校に及ぼしたとも考えにくい。

公立4校+私学2校について
1970年以前と比較した
1970年以後の京大合格者比率
日比谷高校は東大合格者数での比較
鴨沂 18.0%
洛北 20.1%
紫野 22.5%
桃山 24.7%
洛星+洛南 98.95%
日比谷 23.9%


視点を変える。
1970年頃の話題には事欠かない。
社会面、映画では、「イージーライダー」日本公開は1970年、同じこの年には「いちご白書」も公開されていた。
 またアメリカンニューシネマ代表作の「卒業」が1968年日本公開。そして同年「2001年宇宙の旅」公開
1968年日本初の心臓移植(和田心臓移植事件)
プラハの春ソ連チェコ侵入が1968年、
1969年南ベトナム共和国臨時革命政府樹立そしてアメリカの敗北。
同じく連続射殺事件永山則夫逮捕。
1969年東大入試中止
1970年国産初の人工衛星おおすみ打ち上げ。世界で4番目の人工衛星打上げ国となった。
同年三島由紀夫極東国際軍事裁判法廷となった自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺
1971年成田闘争最盛期
1972年あさま山荘事件
社会的にはこのあたりの時代だ。


そもそも高校教師の1校当たり勤務年数と進学実績が絡むものか否かもわからないし時代背景に関係するのか、そのあたりの教育技術的側面を聞いてみようとまず母校を訪れた。
おもえば多くの卒業生の中でさしたる「錦を掲げ」たこともない私が大きな顔をして、母校の教師に教育成果を聞きただすということはいまから思うとまったくの赤面ものであった。
 そんな中、私の疑問について丁寧に説明をいただき小冊子までいただいた。
しかし残念ながら当然そんな解決法はなかった、疑問は氷解しなかった。

訪れた母校は何の変哲もない都市の中にある並みの一高校に変節していた。
まず制服に変わっていた。
また校地も、現時点では異なる場所にある。
伝統ある京都府立第一高等女学校から引き継がれた校舎の耐震修理工事で、旧成安女子高校跡地に仮移転している。
校舎も四分の一程度は耐震補強され残るようだ。1936年建築から長く使われ、くぼんだ階段の框は、裏返して使うそうだ。
しかし、それでも「強度不足」ということで、雨の日の練習で廊下を走りまわった旧校舎の四分の三つまり大半は解体された。

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卒業生から寄付された絵画や美術品も帰ってくる、旧講堂や九条家の門はほぼそのままの形で残る。ウィーンの杜は整備されて残っていない。地下食堂が旧図書館に移転する。校地の狭さは相変わらずであるが、1970年以前の面影は建物からほぼなくなりそうである。
2018年夏には耐震工事に合わせた改築も終わり、元の地に移転するそうである。

 

勤務年数と教育の質

東京都立日比谷高等学校については、1968年学校群制度が導入され、そして東京都教育委員会により同じ学校に15年以上継続勤務の教師の移動が行われその結果、教育三要素のうちの「教師」「生徒」におおきな変化が起こった。そのため日比谷高校では東大進学数は激減し、1970年前に比べ70年後は一年換算で23.9%と大きく下がることとなった。
 上に述べたように京都市では1965年と1975年に通学区の若干の変更があったのだが、では教師の在籍年数はどうだろうか。
鴨沂高校において1965年時点で15年近い在籍教師の履歴を拾い出した。
MN先生 国語 1950年-1971年
JI先生 化学 1950年-1971年
TN先生 数学 1950年-1971年(洛北高校 転勤)
MI先生 商業 1950年-1974年
KT先生 数学 1950年-1974年
TS先生 音楽 1950年-1970年
JN先生 美術 1950年-1970年
SA先生 英語 1950年-1973年
YM先生 英語 1950年-1974年
AS先生 体育 1950年-1974年
KN先生 商業 1950年-1972年(桃山高校 転勤)
NS先生 理科 1950年-1974年
TI先生 英語 1950年-1974年
YN先生 数学 1951年-1972年(教育研究所 転勤)
YK先生 商業 1951年-1970年(京都学園大学 転勤)
RK先生 理科 1951年-1974年
SS先生 数学 1951年-1968年
SU先生 社会 1951年-1968年(京都大学 転勤)
TN先生 家庭 1951年-1974年
SK先生 体育 1956年-1974年

計20名
1965年当時の在籍教師は75名であるから26.7% 長期在籍者が多いとは思うが、もちろん日比谷の45.6%よりは少なく、かつその多くは半強制的異動ではなく、定年や自己都合による退職をされている。
そこで教師としての経験年数と教育指導の関連資料を探した。

といったが教師の1校当たりの勤務年数なんてどこにもそのような統計を取っているところはない。それどころか教師の生涯勤務年数すら満足に取られていない。
教師の勤務年数は集計するに価するものではないらしい。わずかに以下の資料をみつけた。

「我が国の教育水準」(文科省1971年度調査資料)教員は、その勤務年数との関連において何校くらいの勤務校(最初の赴任校を含む)を経験しているであろうか。その実態を公立小・中学校,公・私立高等学校,国・私立大学について見ると下図(3-19)のとおりである。  これによると、国立大学を除いて、各学校種類とも勤務年数が長くなるにつれて勤務校数も多くなり、また、教育段階が高くなるほど勤務校数は少なくなっていることなどが知られる。勤務年数26~30年の教員の平均勤務校数を比較すると、公立小・中学校5.2校で最も多く、次いで公立高等学校3.4校、私立高等学校2.4校、国立大学1.8校である。

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この調査では26年以上勤務の場合、公立高校では3.4校となっている。平均すると1校当たり8年というところだろうか。

またBlogで、神奈川県では以下のように最長12年との規定という記載もある。

最近では「行政」への異動や他校種(小学校や中学校)への異動も勧奨されるようになり、不安は大きくなるばかりです。1校の勤続年数も4・5年ほど前までは最長15年でしたから、一旦進学校などに勤務すると満期が来るまで居座り続けるのは常識でした。それが12年になったときには、大量の人が異動を余儀なくされたものです。反対に底辺校で8年以上も勤務する人は少なく、平均4・5年で異動をしていたのです。ところが、上が12年になったのに合わせるように、下も8年と期間が延長されたので(上で述べましたが)、すでに底辺校を4・5年で出た人にも再度底辺校への転勤の可能性が出てきてしまったのです。

教員の転勤の実態(その1)


 その後勤務年数と教育の方法について、当時を知る先生にあってみた。その方法は・・

鴨沂高等学校には「旧教職員の会」という組織があった。鴨沂高校を最後として退職された先生を中心にした親睦会のようなものだ。そして会報を出されている。
その会報「鴨沂のあゆみ」は2010年に4号合本となった。
その事務局をされていたS先生とO先生に話が聞けた。S先生は鴨沂高校に在籍された時期が遅く問題の1970年ころは他校に在籍されていた。O先生はまさしく1970年ころからの在籍であった。
O先生とは長く話せた。「私はその問題についての資料を持ち合わせていません」という一言を最初に述べられて、O先生と論は進んだ。

ある公立高等学校の変遷9 へ進む 変節といってもいい変化 - 紙つぶて 細く永く

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REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

 

日本の鉄道はこのままでいいのだろうか 番外 初乗り運賃

鉄道相互乗り入れ初乗り運賃について

鉄道路線は続くことを考えると相互乗り入れ路線は当然一本の線路である。
異なる路線に入り込むのだが、乗客の立場にたてば同じ車両に乗り続けているのでまさしく一つの線路を走っている感覚だ。
 たとえば京都宇治市大久保駅から近鉄電車に乗るとする。目指すは(JR)京都駅だ。
 近鉄京都線大久保駅で京都駅までの切符300円を購入し、ホームで待っていると列車が入ってきた、列車に乗る。
ここで同じ京都駅に行くにも車内放送に注意しないと運賃が異なることになる。途中の竹田駅から地下鉄線経由で(地下鉄)京都駅まで行く場合と、近鉄京都線で(近鉄)京都駅まで行く場合で運賃が大きく異なる。
ややこしいことに(地下鉄)京都駅も(近鉄)京都駅も(JR)京都駅の地下と地上2階の関係だ。

 

あなたが乗ったのが、上の近鉄マルーン色なら運賃は300円で京都駅に行くかも。

 

しかしステンレスに上の緑の帯の列車なら間違いなく、京都駅まで運賃は520円。

ところがさらに困ったことに上記近鉄マルーンは京都市営地下鉄に乗り入れている列車もある。それに乗れば竹田駅から分かれて静かに地下鉄線路に入って行く。京都で降りると残念ながら買った切符で不足運賃を請求される。
不足運賃はいくらでしょうか・・
大久保-(地下鉄)京都駅間は520円だから520円マイナス300円で差額220円というのは不正解、正しくは260円です。
近鉄電車の運賃300円は近鉄の路線でのみ有効となり、近鉄大久保から竹田間の運賃は260円であり残り40円は生かされない。

 

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大久保からJR京都駅まで300円で行こうと思っていたのに、結果560円支払うことになる。ああ1.86倍かかってしまった。

かなりの相互乗り入れ路線で初乗り運賃割引を実施されているが、京都市営地下鉄近鉄間では割引を適用しない方針だ。相互乗り入れ区間の初乗り運賃加算自体についての批判もある。

乗り継ぎ時の「初乗り運賃」加算はおかしい | 通勤電車 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

市バス相互や市バス京都バス乗り継ぎも割引されるようになったくらいだから、京都市交通局近鉄両社にはぜひ一考を促したい。
というかゾーン制等根本的に列車運賃を考え直すべきだ。

 

REMEMBER3.11

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