紙つぶて 細く永く

「イヴァンよお前にやる花はない」プラハの花屋

雄弁に勝る沈黙があると信じて・・語らぬ世代

「空語を満たす」

あるとき父は着物を着たまま何を思ったか、孫にキャッチボールをしようといった。

父は家にいるときはいつも着物(注1)だった。

着物でのキャッチボールいまから思えば違和感がある。

小さな庭に出て、ソフトボールでキャッチボールをした。そんなに父とキャッチボールをした覚えはないので、孫相手とは言え珍しいことでもあった。

父は英語の通訳だったので、体力派でもなくその年では運動も行ってなかった。

そんなこんなで着物でのキャッチボールになたのだろう。

父は明治39年西暦では1906生まれだった。計算すると18歳になったのは1924年・大正13年になる。

前々年にソビエト政権が成立、前年に関東大震災があった。

1932年、26歳の時に五・一五事件が起こった。このころ大正デモクラシーから戦争へ傾きかけたころだった。

極度の近視で徴兵(注2)は免除された。したがって兵役の経験はなかった。

そんな父の立場を思ってなのかわからないが、家庭で戦争の話をした記憶はない。

でも三島が自決(注3)したときに父は、「彼は右翼なんだね」とふと漏らした。

思想的にはいまでいうリベラルにあたる。

父は法律がらみの仕事だったので日本国憲法にも思いはあったのだろう、私の友人にも「憲一」君がいるが、われわれは憲法の世代である。

父と直接憲法についての話を交わしたことはないが、なぜか昭和ではなく明治の日露戦争についての話を交わした。

先日、内田樹「憲法について」

佐々木央 47NEWS編集部、共同通信編集委員「憲法内矛盾もたらす世襲 本質は血のカリスマ」

いう一文を読んだ。そこからの引用。

「戦中派は二つのことがらについて沈黙していた。

一つは戦争中における彼ら自身の加害経験についての沈黙」

(そしてもう一つが憲法制定過程についての沈黙)

憲法制定は親たち、教師たちの年齢でしたら、リアルタイムで、目の前で起きたことです。1945年から46年にかけて、大人たちは何が起きているか、新聞を読めばだいたいのことは分かったはずです。
おそらく、かなりの人が憲法制定過程に関してさまざまな「裏情報」を聴き知っていた。でも、子どもたちには一切伝えなかった。子どもたちはテキストとしての日本国憲法をポンと与えられていて、どういう過程でこれが制定されたのかに関しては何も教えられなかった」

父も日本国憲法に異存はなかったのだ。

徴兵にいってないので侵略した地での加害経験は置くとして、日本国憲法については語らなかったし強い賛成表現ではないが好ましいていとの意志表現はあった。

小学校五年の時の担任の先生がその頃で35歳ぐらいでした。もちろん戦争経験がある。その先生が大好きだったので、いつもまつわりついていました。
何か時に「先生は戦争行ったことある?」と聞いたら、ちょっと緊張して、「ああ」と先生が答えた。
で、僕がさらに重ねて「先生、人殺したことある?」って聞いたら、先生は顔面蒼白になったことがあった。
聞いてはいけないことを聞いてしまったということは子どもにもわかりました。その時の先生の青ざめた顔色を今でも覚えています。

私は典型的なノンポリ(注4)でもあったが、当時は日の丸など論外で、テレビの「皇室アルバム」でさえ毛嫌いしていた。

中学の先生はいわゆる徴兵帰りだった。中国に派兵され実際に銃をもった。

教師という立場で徴兵され、戦後帰郷し、教師に復帰した。

戦争について語ることはなかったが、眉間に刻まれた深いしわは大変威厳を感じさせた。

このクラスの同窓会は長く続き、先生は数年前に亡くなったが、同窓会がいまも続いている。

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一度花が落ちたパンジーは春になり復活

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「護憲」

いつのころからか、時代の流れが変わり、いつのまにかジミントーすら代わり

自民党は党是として結党時から自主憲法制定を掲げていたようですが 、憲法を改正することが国家的急務であるというような言説がメディアを賑わせたことなんか、小学生から大学生時代に至るまで、僕はまったく記憶にありません。

「党是で改憲を謳っている」と意気軒高にまくしたてる。

安倍晋三が登場してきて「みっともない憲法だ」と言った時にほんとうに驚いたのです。海とか山のような自然物に向かって「みっともない」というような形容はふつうしませんから」

少なくとも国家公務員(注5)たるもの憲法遵守義務(注6)くらい守れよといいたくなる。

ひるがえって前天皇はあきらかに平和主義に徹し護憲を率先しているように思われる。

それこそ「天皇(略)は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」のだ。

天皇が率先垂範するところが某安倍総理=Aは気に入らないのだろう。

しかし天皇はAに気に入られていないことを承知でなお追い込むように退位の決断を下されたのだと思える。

これも言葉にならないが意志の伝達ではないか。

いまの傾きかけた日本をかろうじて支えているのは、意識ある市民と天皇なのではないかとさえ思う。

1975年皇室にとって戦後初めての沖縄訪問は当時皇太子だった前天皇によって行われ、皇太子夫妻によるひめゆりの塔参拝時に、火炎瓶を投げられた。(注7)

この事件によって戦争責任に直面した皇太子・前天皇は、平成を通して憲法を順守することによって「その」答えとした。

その平和主義への無言の意志がどれほど強靭なものかを、少なからぬものが体感するのである。

思い出すと、昭和天皇で印象に残るのは、愛馬「白雪」にまたがる姿と敗戦後、アメリカ大使館を訪問し、マッカーサーと会見したときの写真だ。

それに比して「平成」は戦争のない時代といわれる由縁だ。

しかし「平成」には未曽有(「みぞう」と読みます。某麻生元総理へ)の大災害がいくつか起きた。

天皇はそのたびに被災者の立場に寄り添いながら、憲法25条「最低限度の生活を営む権利を有する」を率先して推進するべく行動を起こした。

ここにも憲法擁護の意志が強く表れている。

天皇制に問題がないわけでもない。

この部分は「憲法内矛盾もたらす世襲 本質は血のカリスマ」から)

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。  
第2条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
 
第1条が意味するのは、旗や歌ではなく生身の人間を象徴として置くということだ。生身の人間は生まれ、成長し、衰え、やがて死ぬ。
日本国の象徴がいま、どの過程にいて、どのような状況にあるかは、国の問題となる。ここで私事こそが公事になるという逆転が起きる。
 第2条は皇位世襲世襲であるから「誕生」とそれを準備する「結婚」、皇位継承を意味する「死」の重要性はさらに増すことになる(今回は「死去」による皇位継承ではないが、生きながらの退位を認めない皇室典範は維持されている)。
そして、次の天皇になるべき人、次の次に天皇になるべき人たちの「生老病死」もまた社会の関心事となる。
 世襲であるということは、血筋にこそ天皇たる理由があるということだ。事実、天皇の地位は神話に淵源を求め、血統によって根拠付けられてきた。「血のカリスマ」である。そのような特別な血筋を受け継ぐ一族、貴種の動静にも、関心が集まることになる。

沈黙からくる力

世代は熱気を語らねばならないのだろうか、という問題を出されたが解答はまだない。

いくばくかの熱気を語る人もいるようだが、大勢は沈黙している。いや世代としては沈黙している。

しかし中にひとり気を吐く、山本義隆がいる。

神によって選ばれし者、天才は語らねばならない。

世代のフォースが彼をして語らせているのかもしれない。

沈黙の中の雄弁が徒労に終わるのか、なにがしかの結果を生むのかいまは分からない。

神のみぞ知る。

しかし、この「代替わり」の騒ぎ様はなんだ。世を上げて新元号一色となり、沈黙はどこえやら賑やかなことだ。

歴代の首相たちを素に、せっかく抽出した「理性」という「出汁」を間違って捨て、「えこひいき」という味を足したようなちゃらんぽらんな現首相を戴き、狂ったようなこの騒ぎ方はかえって何かの始まり、日本という国の「奈落」の未来がはじまったようにも思えるなあ。

それでも雄弁に勝る沈黙があると信じて・・

 

注1当時の「着物」

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どてら・丹前ともいう

注2兵役法

注3三島事件

注4「ノンポリ」

注5国家公務員

注6 日本国憲法第九十九条:「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」

注7ひめゆりの塔で火炎瓶

 

「イヴァンよお前にやる花はない」プラハの花屋

REMEMBER3.11