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タテカンと少年と自由空間

少年にとって:自由空間

小児科医であった松田道雄の1973年の著作に、「自由を子どもに」という本がある。彼は、この中で彼が名付けた「自由空間」という概念について述べている。

みんなたいへん自由になりました。自由になっていいことはたくさんあります。娘は親の意志だけで結婚させられることがなくなりました。
就職となると(男と同じ待遇は)むりですが、大学までなら、女でも試験さえとおれば、男と肩をならべて勉強できるようになりました。
私はいまの人間がへんになってしまったのは、まわりがわるいのだという考えに賛成しません。
まわりがよくなれば人間はよくなり、まわりがわるくなれば人間はわるくなるというのだったら、人間自身は何なのですか。
人間はめいめい顔がちがうように、自分だけというものがあります。自分は自分に対して主人なのです。ひとがどういおうが自分できめられることがあるべきです。

自由空間は子どもがおとなに管理されることなく、自分の好きなことをしてあそべる空間です。その自由空間は何をあたえたでしょうか。
それは自由のよろこびです。自由がたのしいのはエネルギーの氾濫を感じるからです。
いちばんスムースにエネルギーが流れだすのは自分の個性にあっているときです。
だからそのとき自分が自分の主人であると感じるのです。
少し前まで日本では三世代家族が当たり前のように存在していました。その中で子どもは、親たちがする祖父世代に対するやりとりの中で、「しつけ」を教えられます。
そして二歳前後からまず返事の仕方を教えます。名を呼ばれたらすぐに答えるようにしますが、男の子には大きい声で活発に「はい」といわせますが、女の子にはゆっくりとやさしい声で返事させます。
そういうしつけの一方で外にでる遊びの自由がありました。
エネルギーが、そとにある抵抗にうちかって氾濫するなら、それが創造です。
エネルギーが、自分のなかで泉のように湧くままにこぼれ、こぼれるままに湧く状況が怠惰です。
創造も自由のよろこびですが、何もしないでいられることも自由のよろこびです。

 

今は大学に入ってはじめて自由空間を見つけるのです。 上級学校への「進学」はいやな先生からの解放でした。この学校にいさえしなければ、いやな思いはしないですむ、それにはなんとしても入学試験をパスしなければならない。
 制服を決めるとか、頭を丸刈りにさせるとかいう規則も有害な管理です。
学校で制服をきめるのは親の負担を少なくするからだといいますが、えられる利益よりも失われる損害のほうがはるかにおおきい。
自由空間は「原っぱ」でもありました。
子どもから自由空間をうばったのは「高度成長」です。道路を自動車が占領し、原っぱや、都市のまわりにあった空地や庭もなくしてしまいました。
私たちは子どもに自由をあたえることによって「もっと責任感のつよい真の個人主義者をつくらねばならない」
どんな人生をおくるのも個人の自由ですから管理に適応した人間をとがめることはできません。
 だが自由を知っているものにとっては、そういう人間は「おもろない」のです。
二十世紀の人類の不幸は自由を失ったということだけではなく、「おもろない」人間だけでも秩序のある社会を維持していけるのがわかってきたということでしょう。

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京大のどこでもドアタテカンはどこへ抜けられるのだろう。

REMEMBER3.11