かって鴨沂高校では各種の文化的な催しや講演会が開催されその中にヘレンケラーの講演会というものも行われていた。そんな高校での下記記事がどうも気になるので続き。
参照 http://coboon.jp/memory.of.ouki/archives/author/memory-of-ouki/page/43
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「学校」から見える教育
調べるとその後映画上映が出来なかった山田洋次監督は2000年に学校についての本を発表している。以下その中から
その学校で目にしたのは予想もしないものでした。生徒の年齢はさまざま、昼間の仕事着そのままのような生徒も多い。匂うような生活感がある。教室の雰囲気も決して暗くない。
リタイアした老人もいれば在日韓国・朝鮮人の老婦人、中国からの引揚者、ベトナム人、身体や知能に障害のある人も含めてのびのびとして楽しげに熱心に勉強している。管理されているとか規則に縛られているといった圧迫感がまるでない。進学する生徒はほとんどいなかったから受験という重石がない。校則はまったくといっていいくらいない。服装検査などあるはずがない。ペンキだらけの服を着た生徒もいれば化粧をしてマニキュアした娘もいる。中には妊娠して大きなおなかをした女生徒もいたりする。学校の帰り道に先生を誘って一杯やるなんてことはしょっちゅうだし、廊下の一隅に喫煙所があったりする。
教師もまたほがらかで仕事をたのしんでいるように思えました。校長とか教頭とかいった管理職(学校の現場に管理職という言葉があるのはとても納得いかない)のいない職員室の空気は実に自由でした。
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東京都の公立学校の新任教師はひとつの学校に8年以上は継続して勤務できない、という異動要綱があった。1か所に十年も二十年も継続して勤務することからくる弊害はあるかもしれない。また経験を学びあうための交流も必要であろう。しかし夜間中学の場合は異なる。教師も特別なノウハウを持たなければならないし、何より夜間中学にたいする愛情を持っていなければ到底つとまる仕事でない。この学校の卒業生たちは、昼間の中学校の生徒にはない、深い愛着を学校に対してもっているから、卒業して何年もたってから学校を訪問することが多い。身寄りや親しい友人が少ない淋しい境遇の人も少なからずいる。そんな生徒が何かつらいことがあったときに、ぶらりと母校を訪れたくなるときもある。そのようなときに知っている先生、古だぬきのような教師がいなきゃいけない。だから夜間中学の教師であることに喜びと生きがいを抱いている人たちは人事異動の話があるたびに教育委員会と喧嘩しなければならなかった。
Mさんの場合もそうでした。十年で異動といわれたのですが断り続けました。
それを知った生徒たちがMさんを応援することになった。学校の近くの駅に立ち署名運動をしたり、仕事を休んで教育委員会に嘆願に行ったりした。
しかし、そのことがだんだんMさんに負担になってきた。つまり自分を転勤させまいと一生懸命寒い風に吹かれながら駅前で署名活動をしてくれているこの人たちはみなアルバイトやパート、あるいはいまにもつぶれそうな工場で働いている。それに比べて自分は公務員として彼らの誰よりも安定した地位にいる。その自分がみんなに守られているのはおかしい。守られなければならないのは自分ではなく、彼らではないか?
そして彼らに自分の考えを正直に告げ、生徒たちの気持ちをおさめてもらい、転勤を承諾したのです。
この講演会を拒否した校長はこのような自由な雰囲気がいやだったんだ。「個性の確立に努めるとともに、社会について広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと」その教育を拒否したのだ。そして自身は教師ではなくすっかり管理職になったんだ。
世の中の動き
1971(昭和46)年、中央教育審議会が、我が国戦後教育政策の中で初めて「個性尊重=多様化」路線を打ち出した。 「初等・中等教育は、人間の一生を通じての成長と発達の基礎づくりとして、国民の教育として不可欠なものを共通に修得させるとともに、豊かな個性を伸ばすことを重視しなければならない。そのためには、人間の発達過程に応じた学校体系において、精選された教育内容を人間の発達段階に応じ、また、個性の特性に応じた教育方法によって、指導できるように改善されなければならない」
この多様化路線流れはその後も維持拡大され1985(昭和65)年臨時教育審議会は第一次答申で次の様な指摘をした。
「我が国の著しい経済発展は、教育の量的拡大をもたらすとともに、学歴偏重の社会的風潮を一層助長した。このため、いわゆる一流企業、一流校を目指す受験競争が過熱し、親も教師も子どもも、いや応なく偏差値偏重、知識偏重の教育に巻き込まれ、子どもの多様な個性への配慮に乏しい教育になっている」
すなわちこれは「子どもの個性を配慮するならば、受験競争に適性のない子どもは早い時期からそのようなルートから外してあげるべきだ」ということになる。
「学校」から見える教育
映画「学校Ⅱ」は北海道の雨竜という町にある高等養護学校をモデルにし、実際にその学校で大勢の生徒、先生、職員たちの協力でロケーションができた。その学校にかって本間さんという校長先生がいた。この学校の先生たちは本間さんを慕っていました。本間さんは障害児教育一筋に生きてきた人です。北海道の人で、父親は早くに亡くなって母親が肉体労働をして大勢の子どもたちを育ててくれた。だから早く一人前になってお金を稼いで、母を楽にさせたいとずっと思っていた。工業高校を出てすぐに働き始めたのですが、あるとき勤め先が倒産してしまった。そこで学校時代のクラスメートで聾学校の教師をしていた友人に就職の相談にいった。
ちょうど教員会議の最中で、本間さんは聾学校の校庭でぶらぶらしていた。そこには授業の終わった生徒たちが遊んでいる。本間さんはいつのまにかその生徒たちと遊んでいた。
ところが教員会議を行っている部屋の窓から、聾学校の校長がその光景をじっと見つめていたのだそうだ。そして教員に尋ねた。「いまあそこで子供たちと遊んでいる見かけない青年はだれかな」そして本間さんの友人が「あれは私の友達で、就職の相談で訪ねてきたんです」というとその校長はかれに「どうだろう。あの青年、うちの学校で働く気はないかな。聞いてみてくれ」といったのだそうです。その時代のことだから、おそらく代用教員という形があったのかもしれない。とにかくその聾学校の校長は一目で、窓越しに、聾唖の子どもと遊んでいる姿を見ただけで、「この青年は障害児教育にふさわしい人材だ」ということを見破ったわけです。
青文字段落 山田洋次:「学校」が教えてくれたこと:より抜粋
教育についての見識が鋭い。まさしくこのよう監督が手塩にかけて育てた教育界の映画上映こそ「高校」という学校でされるべきなのではなかったか。
シリーズ「変遷9」で書いたように「府一」には「鴨沂会」という卒業生組織がある。立派な会館を持ち、公益財団法人となっている。鴨沂高校全体同窓会事務局も鴨沂会館にあるようだ。しかし新制鴨沂高等学校との距離は微妙だ。組織は一体となっていない。
(京都府立第一中学、一中同窓会は洛北高校同窓会と「京一中洛北高校同窓会」として一体になっている)
周囲の先輩を含めた卒業生に聞くと、ほとんどが校舎建て替えについてすら関心を示さない。もはや母校を懐かしく思う気持ちさえ失われたのかもしれない。2017年秋の総合同窓会も17000人強の登録会員の中100人弱の集まりだったと聞く。
「鴨沂」名付け親の京都府立第一高等女学校を1.0とするなら1970年ころが鴨沂高校2.0、そしてそれ以降特に制服採用以降は鴨沂高校3.0と校舎とともに変節した。このことは間違いないようだ。
鴨沂の教育史記録に邁進された旧教職員の会とともに、老兵は死なずただ立ち去るのみか。
ぶらりと母校を訪れたくなる卒業生が何人いるのか・・
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REMEMBER3.11
不断の努力「民主主義を守れ」