紙つぶて 細く永く

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スポーツを毒する善意

スポーツに善意があふれている。

高校野球P校のQ選手は小さい頃父にキャッチボールは何たるかを教えられた。
キャッチボールでは相手の受けやすい位置にボールを投げることが基本。
その父とのキャッチボールから始まり、リトルリーグ中学校、高校と野球を続けてきた。
しかし中学入学の前に、キャッチボールを教えてくれた父が亡くなり、その後は
母の作ってくれるおにぎり弁当を持参し練習をするのが、Q君の姿だった。
チームの監督はそんなQ君の父親代わりとなり時には、厳しい言葉も投げかけた。
やがてQ君は非凡なバッティングをかわれ4番をまかされるようになった。
練習の後も素振りをするQ君の姿があった。
そして今年高校では最後の1年となり部員の推薦で主将にも選ばれた。
今夏は最後の甲子園を目指しナイン一丸となって県大会に臨んだ。
しかし健闘むなしく準決勝5対2でP高校は敗れた。
Q君は試合後にナイン全員に感謝の言葉を伝え、監督にも「ありがとうございます」の言葉を投げかけた。
そして長く支えてくれた母には涙をためながら、言葉を出すことができずじっと下を向く。
やがて、その眼からは大粒の涙がとめどなく零れ落ちた。

という類の記事が溢れスポーツの尊厳を脅かす。
スポーツは勝負である。

7月31日朝日新聞スポーツ欄のコラムは「彼はあのとき少年だった・・・」で始まる名文ではあるが、
その見出し「けっして敗れたのではない」にあらわれているようにその善意はなんだろう。
スポーツを侮辱している。
5位の「北島は負けたのではない」なら1位ファンデルバーグは勝ったのではないのか?
このような記事からは王者にたいする尊敬が感じられない。
善意がスポーツを侮辱している。
拙いプレーにさえ評価を与える高校野球の観戦記が典型ではあるが
5位の「北島は負けたのではない」
なんて詭弁が通じるのはマスコミ特有のスポーツ善意大会くらいなものだ。
とくに件のコラムを書いた記者は情緒に流されるきらいが強い。

「金メダルには、文字どおりの「勝者」に与えられる光輝がある。もちろん銀も銅も素晴らしい。
だが勝負の実質となると、一人の勝者と多くの敗者である。
内村選手の金は、それを印象づけるゆるぎない強さが光っていた。
4年に一度だけ出現する夢舞台で、勝者は輝き、力を尽くした敗者もまた美しい」-天声人語-

同じ新聞でも、スポーツは数字のみで評価が決まることを訴える。敗者は潔く、勝者を称えよ。