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空海10章 高貴寺 室生寺

空海は長安に着き、西明寺に入った。居室に案内された。その部屋の先住者は日本からの僧で名を永忠(参照)といった。永忠は在唐30年という。歴史書「元亨釈書」にその名がでてくるという。宝亀の初め(770年代)に入唐留学し延暦の季に遣唐使とともに帰るとある。804年この遣唐使船はちょうど空海が乗った第16次遣唐使船葛野麻呂の一行の帰路になる。留学歴なんと30年!
(参照 http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-life/cat35/post-144.html
この永忠は帰国後の空海と親交をあつくした。永忠が晩年、朝廷から僧綱(宗務大臣のようなもの)の職につくという内意があったときこれを断るため空海に上奏文をたのんだ。在唐30年の永忠でさえ漢文の文章力は空海にかなわなかった。(これに対する朝廷からの勅答文も朝廷からの依頼で空海が代作したという)

空海が長安に入ったのが804年。そして806年日本国の使者が入った。「ただし、恒例の遣唐大使という使者ではなかった」とある。詳しくはこの高階真人遠成についての資料がない。かれの使命は順宗皇帝の即位を賀するためらしい。先に書いたように遣唐使はこのような頻度では来ないことがおおい。数字を調べると日本を出発した遣唐使は630年の第1回から894年の第20回まで平均13年に一度である。無事入唐し帰国した遣唐使となると15回、17年に一度となる。奇跡的なことに帰国できる機会が降って湧いたのである。

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日本へ帰国後の空海は京都へ上る高階真人遠成に唐から持ち帰ったおびただしい経典その他を目録にまとめ「御請来目録」として託した。しかしその後空海は到着地筑紫になぜか1年あまり滞在した。この間の記録は少ない。一説によれば早く帰国していた最澄が持ち帰った断片とはいえ我が国初の密教桓武天皇により認められたこと、そして高階真人遠成に託した御請来目録によってやがて空海のその正統性を認められるように満を持していた、などが上げられている。807年の秋ようやく空海は筑紫を離れる。そして和泉の国槇尾山寺に入った。
この時期の空海は、この近在の山々を歩きまわり気に入った場所、香気寺(のち高貴寺)を発見する。いまでもこの近辺は香草が多くその時に彼が香気寺と名付けたのはいかに感受性のゆたかな人物であったかが想像できる。

ここまで書いてふとこの、香気寺(のち高貴寺)に行こうと考えた。JRの春の関西ワンデイパスを購入。近鉄沿線も乗車できるとのことありがたい。ところが当日近鉄京都駅で確認すると、高貴寺最寄駅は近鉄南大阪線・上之太子駅で残念ながらこの路線はワンデイパスエリアに含まれていないとのこと。ワンデイパスは近鉄大阪線までとのこと。仕方なく急きょエリア内にある同じ真言宗室生寺へ変更した。訪れるのは三度目だが、天気も良く写真に最適の日和。目に沁みいるような新緑だった。当日は連休も終わり臨時バスも終了で最寄駅「室生口大野」からの定期バスも本数が少なかった。茨木県から来たという方に声をかけ割り勘で室生寺までタクシーに乗った。

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この室生寺縁起によると、「伽藍の造営に当たったのは興福寺の高僧修円で、この人は空海最澄に並んで平安時代初頭の仏教界を指導する高名な学僧」とのことで、今昔物語に空海と修円の逸話が載っている。(参照『今昔物語集』の巻第14第40話
室生寺へのタクシーで途中にある同じ真言宗室生寺派で桜の名所大野寺を紹介されたので室生寺からの帰りに寄った。ここには寺の前宇陀川向かいに弥勒磨崖仏があった。

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帰路はワンデイパスを大いに利用と考え、近鉄大阪線空海ならぬかっての難波の津近く鶴橋へ出た。(この街は奥深く入り込むと思わぬ方向へ行くので、さわりない場所へと)JR環状線で大阪へ。グランフロントにて軽く仕上げ、無事教王護国寺に帰り着いた。

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