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空海9章 伝持の八祖としての空海

そして空海金剛頂経系ならびに大日経系の密教体系を継いだ。以下の中で実在しない大日如来・金剛薩埵を除いた、龍猛以後8人の祖師が真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史に関わった「伝持の八祖」といわれる。

(釈迦が生まれたのが紀元前564年といわれている)
大日如来(実在しない)
金剛薩埵(実在しない)
龍猛(3、4世紀)
龍智(8世紀ころ700歳まで生きたといわれている)
金剛智(西暦669年 -741年)
不空(705年-774年)
善無畏(637年-735年)
一行(683年-727年)
恵果(746年-806年)
空海(774年-835年)
(恵果は不空から金剛頂経系の密教体系を相続した。さらに善無畏の弟子から大日経系の密教体系も相続し両系を併せて持っていた。そして空海も両系を併せ持つことになった)
恵果からは遍照金剛という号を与えられた。

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それにしても空海の素養は、「東海の島の国のながいその後の歴史において地域的人間関係や歴史的事情に拘束されることなく人類そのものに直接作用するただひとりの思想的存在であり続けている空海はその23歳からの「空白の7年」に「素養を磨いた」というのであろうか・・。
また空海が学んだ「悉曇とはサンスクリット語字母のことを指す。しかし空海が学んだというサンスクリット語世界はインドでは形而上的世界のための言葉であった
空海が帰国するといううわさは、かれと交わりを結んだ人々に深い衝撃をあたえた。その別離を惜しみ、ある者は詩をある者は文章をある者は故人の筆蹟や詩文集、または法帖を贈ってきた。現存しているものだけでも、朱千乗、朱少端、曇清、鴻漸、鄭申甫などの名と作品がある。
これらはいずれも右記に詳しい 空海に赠られた唐人の送别诗_若然山人吧_百度贴吧

40数年後空海入滅後であるが、のちに天台座主につく円珍が入唐した折に現地で開元寺の恵灌なるものに尋ねられた、「五筆和尚はご健在であるか」と。円珍はすぐに空海のことであろうと察し、「その僧すでに亡化せり」と答えた。恵灌は胸をかきむしって嘆き悲しみ「異芸、未だ曾て倫あらず」といったという。
空海は、その書芸においても詩文においても、華麗さを楽しみ、その才華は長安の都市美のなかにおいてこそ輝くことができ、さらには長安の人士と詩文を交換しあうときにこそ充足を見出すものであったであろうことは想像に難くない」、と司馬は説く。また、「これだけの才華が、陋隘な故郷をめざすというのは、ことさらかれの道心を別にして考えれば身をひき裂かれるような思いであったろうか」と。

空海が43歳のときに朝廷に高野山を拝領することを乞い、壮麗な堂塔伽藍を営んだのも長安に対する私やかな嘆きが籠められているようにも思える。
ちなみに当時の長安はその広さ84平方キロ 平城京25平方キロ 平安京23.4平方キロ 現在の高野山山上は18平方キロと計算できる。ちなみに高野山町役場にきいたところ高野山町の土地は多く金剛峯寺寺領で役場も商店も金剛峯寺へ地代を支払っているそうである。

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