紙つぶて 細く永く

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美学革命 掌のなかの宇宙 加藤周一

紹鷗の門弟の一人であった千利休は茶室をさらに小さく(二畳)し、入口の縁を廃して「露地」を強調し、角柱の代わりに自然の表面を残した丸柱を用い、白い壁に代えて荒壁とした。茶碗は利休自ら長次郎に作らせた楽焼である。
それは一方の極端から正反対の極端への転換であった。
第一に茶室は反記念碑的な建物であって、広ければ広いほどよいという当時の価値観に対して、小さければ小さいほどよいという立場にたつ。この時代の前者を代表するのは豊臣秀吉千畳敷の大広間であり、後者を代表するのが利休の二畳である。
 当時の日本で最も高い建物は大坂城天守閣で、最も低いのは茶室の入り口の鴨居である。比較文化史的に見れば、日本の記念碑的建築は桃山時代に最大の規模に達したが、権力者の居城としては中国や西洋の大建築にはるかに及ばない。しかし小さい方はおそらく中国にも西洋にも例がなく、高位高官が腰をかがめて狭い入口から入り、狭い部屋の中で茶を飲むなどという奇抜なことを思いついたのは、16世紀の日本人以外にはなかっただろう。

しかしその思いつきは、よほど日本人の好みに合っていたにちがいない。その後、長い間習慣となって今日に及ぶ。狭い空間は(そこで出会う人物相互の)親密感を作り出すのに役立つ。他方過度の親密感を防ぐためには、茶の湯の作法がある。
 極度に狭い空間と適度に形式化された作法との組み合わせは、16世紀に侘びの茶を完成した人々の、驚くべき智慧である。

第二に、草庵になぞらえた茶室はまた、反耐久性を特徴とする。一般的に、多くの建物は永続することを念頭に置いて建てられるが、茶室は脆弱に作られ、軽いために地震では崩れないかもしれないが、台風では吹き飛ばされるにちがいない。きびしい自然条件に対する備えや工夫はほとんどない。すなわち茶室は、自然の力や環境の変化に抵抗して、建物の耐久性と室内空間の保護を目的としているのではなく、むしろ、自然の力と環境の変化を受け入れ、それが建物を破壊し室内の空間を支配することに積極的な価値を見出そうとしたのである。人生無常、されば建築無常がふさわしい、と利休は考えたのかもしれない。それはどの文化と比較しても独特の考え方である。
第三に、利休は豊かで豪奢なもの(金碧襖絵)やめずらしいもの(唐物の茶碗)に、一見貧しい簡素なもの(草庵)、ありふれたもの(和製陶器の水差)、静かで地味なもの(荒壁)を対置して、後者に洗練された美を認めようとした。これが紹鷗から利休に続く「侘び」の美学である。
 こうした価値の転換を促したものは何であっただろうか。利休の時代から今日に至るまで、「侘びの茶」を語るに際して禅に触れない者はほとんどいない。禅と茶の湯(注)とはどのように関係し、美的価値の革命的変化はどうして起こったのであろうか。

 「茶道」をさけて「茶の湯」というのは16世紀の人々が「茶道」という言葉をほとんど用いなかったからである。「茶道」の語が流行し普及したのは、後代である。 また諸芸にかぶせてやたらに「道」の字を用いるのは、日本の徳川時代以来の習慣で、中国にはない。漢字の使い方としても、濫用のそしりを免れぬだろう。  荻生徂徠は「文武二道」という表現を批判していう、「・・詩歌も弓馬も芸にて候を。文盲なるものの道と名付け申習はし候にて候」 「文盲」の習慣に従わねばならない義理は、私にはない。mystificationである.

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 茶の湯禅宗より出たという言い方は正確ではない。茶の湯禅宗寺院から出たのであり、禅宗禅宗寺院とはかならずしも同じではない。喫茶の習慣が広まったのは、まず薬用としてであり、やがてそれは娯楽の一部となった。禅との関係を言挙げされる「草庵の茶」ははるかに後のことである。もしも禅が茶の湯に「影響」したとすれば、それは禅が鎌倉仏教として激しく宗教的な説得力を持っていた時にではなく、室町時代に、政治権力との長い結びつきを通じて世俗化し、宗教的迫力を失った時期においてであった。
 利休はその茶の湯の精神を説明するのに、おそらくはしばしば禅の言語を用いたらしい。しかしそれは、対象--すなわち紹鷗、とくに利休の茶--の特徴が、かならずしも禅に関連しているということを意味するのではない。
 室町時代に芸事の微妙な工夫を、仏教用語、とくに禅語を用いて叙述したのは、能楽論における世阿弥である。それはおそらく世阿弥にとっては、その対象を分析するのに適した言語がほかになかったからだろう。しかし、彼岸と此岸との関係を軸として構成される夢幻能の構造はあきらかに仏教的ではあるが、少しも禅宗的ではない。作品の能の内容も、しばしば浄土教の考えと密接ではあるが、禅と係るところはきわめて少ない。役者の芸の機微ついて世阿弥が語るところはじつに明瞭であり、彼はそれを舞台上の経験から学んだのであって、仏教や禅から学んだのではないだろう。
「草庵の茶」について、世阿弥能楽論に匹敵するような理論的な著作はない。しかし、大よりも小、堅固なものより脆弱なもの、豪奢よりも簡素など、茶室の実際的特徴の全体は、与えられた価値の秩序の否定を意味している。禅がその本来の姿において、既存の価値体系の否定を含んでいるという一面と相似関係にあることは明らかである。しかしまた、相似関係は、ただちに因果関係ではない。
 日本で禅宗とほぼ同じ時期に起こった浄土宗や浄土真宗における他力本願の考え方もまた、当時支配的だった価値の秩序の否定であった。これら鎌倉仏教において価値観の転換が行われるのは、宗教的な意味での絶対者と関連する救いや悟りの領域においてであって、文化的な、すなわち倫理や美学の領域においてではない。「草庵の茶の湯」が革命的に価値を転換したのは、美学領域においてである。倫理的には保守的な立場をとっていた禅が美学的には革命的な立場をとるなどということは、ありそうもないことである。
 利休が完成させてその後の日本文化に決定的な影響を及ぼした美学革命の原動力は、何であったのだろうか。利休の生きた時代は内乱の時代である。農民は一揆をくり返して武士支配層に抵抗し、武士の集団は相互に争い、同盟し、裏切り、手段を選ばない権力闘争を続けていた。堺の商人は彼らに武器(鉄砲や火薬、またはそれらの材料)を売って、大いにもうけていただろう。その堺の町人層から紹鷗や利休はでてきたのであり、彼らは、従来の政治的、経済的、倫理的秩序--つまりは封建的な秩序の全体が崩れてゆくのを見ていたにちがいない。したがって紹鷗や利休が、どのような価値にも束縛を感じていなかったとしても不思議ではない。そしてそれは、美の世界において既存の美的尺度を逆転するのに最適の条件であったろう。しかそそれだけではなかった。

 利休は秀吉に仕えていた。秀吉は大きな座敷での豪奢な茶会を好んだ。当時の最高権力者の「茶頭」として、利休は一方でそのような茶会をとりしきり、他方で四畳半または二畳の茶室で茶をたてたのである。日本文化史上およそ最も大がかりで派手な世界が一方にあり、最も小さく地味な世界が他方にあって、利休はその双方に住んでいた。両極端の間に妥協の余地はありえなかったから、両極端は限りなく進まざるをえなかったのである。秀吉の聚楽第とつり合うのは、四畳半ではなく二畳でなければならない。黄金の茶室に対しては、白壁ではなく荒壁でなければならない。唐物の曜変天目茶碗に勝るのは、磁器を模した炻器ではなく、轆轤さえも用いない楽焼の軟陶のほかにはない。利休の挑戦は、程度の違いではなく原理の違いに発展し、原理の具体化はいよいよ過激にならざるをえなかった・・
 しかし独裁的権力者への挑戦は、たとえそれが美学的領域内でのことであったとしても、危険を伴わないはずはない。利休の高弟、山上宗二もまた秀吉の「茶頭」となり、その任を解かれた後、ついには秀吉に殺される直前に「宗易(利休)を初め、我れ人ともに、茶の湯を身すぎにいたす事、口おしき次第也」と書いていた。その日は「天生16(1588)年正月」、宗二が殺されたのはそれから2年後の1590年であった。利休が死を命ぜられたのは1591年。二人は生前、その生き方の危険を十分に知っていたにちがいない。彼らにとって草庵の茶は命がけの事業であった。
 客は刀を外に置いて茶室に入る。しかし彼らは、その刀が閃くかもしれないことをつねに感じていたはずである。そしてそのような緊張の縁にいなかったら、彼らは日本文化の歴史に、美的価値の劇的な転換という鋭い楔を打ち込むことはできなかっただろう。利休の死とともに、堺の町人出身の茶人たちが行った美学的革命は終わる。しかし、周知のようにその後も楽焼の茶碗は作られ、茶室の四畳半は継承される。地味な、抑制された、しかしその細部の限りなく洗練された小さな空間は、日本の美の「伝統」として今日まで生きのびる。秀吉は利休を殺したが、利休の作り出した価値を殺すことはできなかった。

 

 

REMEMBER3.11

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