紙つぶて 細く永く

2014年6月以前の記事は元のBlog(OCN)からinportしたものそのままです。鋭意改善中です。<(_ _)>

最近読んだある本から2

原発はクリーンで炭酸ガスを出さないから石油を使用する火力発電にくらべて地球環境にやさしいと主張され始めたが、ブラックジョークとも言うべきこのような言説が無批判に復唱されている。
原子力は稼動にともない放射性廃棄物を生みだすだけではない。燃料としてのウラン鉱石の採掘から使用済み核燃料の最終処理にいたるまでの全過程で、放射性物質の環境への放出は防ぎえない。
とりわけ使用済み核燃料の再処理過程は放射性物質を多量に含む核燃料を剥き出しで処理しなければならないからである。

ウラン鉱山においては、それ自身が放射能を含む鉱滓は多くの場合ボタ山や露天の貯蔵地に野ざらしに放置されている。
鳥取県岡山県の県境にある人形峠では、原子力基本法が成立した1955年の暮れにウラン鉱床が発見された。国策として原発燃料国産化をめざして発足した原子力燃料公社の10年近くの試掘の後、品質が低いことが判明し廃坑になった。
その後、1988年になって、民有地に戻った鉱山周辺にウラン鉱滓をふくむ大量の土砂が放置され放射能を出し続けていることが発覚した。
住民は公社をひきついだ動力炉・核燃料開発事業団(動燃)に残土撤去を要求したが、動燃は誠実に対応せず、2000年になって裁判となり2004年住民側が勝訴し、動燃から名前の変わった日本原子力開発機構は特に放射線量が高い残土290立方メートルを、なんと米国ユタ州の先住民居留地に搬出した。(土井淑平・小出裕章人形峠ウラン鉱害裁判 核のゴミのあと始末を求めて」批評社

原子炉はきわめて大規模な構造物で、数多くのさまざまなサイズの溶接された配管や弁が付属し複雑な構造を有している。
原発建設の技術者菊池洋一は原発を「配管のおばけ」と表現し「本来想定して計算に組み込むべき要素、地震波と鉄骨の共振などが考慮されていないうえに、人間のミスがいくらでも入り込む余地がある」と記している。(菊池洋一「原発をつくった私が、原発に反対する理由」角川書店
いくつものメーカーの寄り合い所帯で造られた高速増殖炉もんじゅ」について、図面を引く基準が「日立は0.5ミリ切り捨て、東芝と三菱は0.5ミリ切り上げ、日本原研は0.5ミリ切り下げ」の違いがあったため、配管がすべて図面どおり寸法どおりに作られていたにもかかわらず「百ヶ所も集まると大変な違いになり」合わなくなった。(平井憲夫「原発がどんなものか知ってほしい」情況2011年4・5月合併号)

設計サイドのミスもある。1995年にナトリウムの漏洩火災を起こした「もんじゅ」の事故原因は、ナトリウム配管に付された温度計のさや管部分の「非常に初歩的なミス」だそうである。さや管部分は石川島播磨重工が請け負って設計しそれを系列の町工場に発注した。実際の工作にあたったその町工場の職人さんが自身の経験からおかしいと気づき、本当にこれでいいのかと上にお伺いをたてたが「原子力は普通と違うのだから、これでいいのだろう」ということで済まされてしまったという。つまり「技術の常識さえ知らない、いつも設計の手引き書だけを見てコンピューターとにらめっこしている人間がやった設計」があやまっていたのであり、それにたいして弱い立場にある下請けの企業は強く言えなかった。(高木仁三郎原発事故はなぜくりかえすのか」岩波新書

近代社会もっと限定すれば西欧近代社会の最大の発明品のひとつは「科学技術」だと思う。科学と技術ではない、客観的法則として表される科学理論の生産実践への意識的適用としての技術である。
それまで手仕事を蔑み論証技術に長けもっぱら古代文献の釈義に明け暮れていたエリート知識人のうちに職人や魔術師に担われてきた知のあり方の有用性を認めるものが出現した。
あの観念的なデカルトさえ、屈折光学の研究において「研究など一度もやったことのない職人の技巧に頼らねばならない」と記している。
自然認識における近代への転換を象徴しているのが、滑らかな斜面にそって物体を滑らせ、水時計でその時間を測定し、「真空中での物体の落下距離は落下時間の二乗にしたがって増加する」という法則を立証したガリレオの実験であった。
このガリレオの実験の意義を、カントは「理性は一定不変の法則にしたがう理性判断の諸原理を携えて先導し、自然を強要して自分の問に答えさせねばならない」ということを自然科学者がしったことに求めている。「理性は生徒の資格ではなくて本式の裁判官の資格を帯びるのである」

その延長線上に科学技術による自然の征服という思想が登場する。
もともとマンハッタン計画は理論的に導かれ実験室での理想化された実験によって個々の原子核レベルで確認された最先端物理学の成果を、工業規模に拡大し、前人未到の原子爆弾の製造という技術に統合するものであった。
以前なら個々の学者や技術者や発明家や私企業がそれぞればらばらに無計画におこなった過程の全体を一貫した指導の下に目的意識的に遂行し終えた初めての試みでもあった。


山本義隆「福島の原発事故をめぐって」みすず書房よりー