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最近読んだある本から:番外

山本 義隆彼は現在,駿台予備校で物理講師をしている.人気講師で,夏期講習の「東大物理」は満員になる.彼の著書,『新・物理入門 <物理IB・II>』(駿台文庫,1987年)は,難しいという意見がある一方で,物理が根っこから理解できた,学ぶことの面白さを知ることができたという声もある.駿台含め,各予備校は学生運動経験者が多く流れ着いている.そういった講師の内の一人は「山本義隆という存在は天然記念物ものだから,一回授業に潜っておけ」と生徒に言ったそうな.彼の授業は物理をアリストテレスから始めることで有名なのである。

f:id:greengreengrass:20150623065547j:plain 素粒子の研究をしていた彼は,研究室には戻らず,駿台予備校という在野で科学史の研究を続けた。そうして生まれた『磁力と重力の発見』(全三巻,みすず書房,2003年)は第1回パピルス賞、第57回毎日出版文化賞、第30回大佛次郎賞を獲得した。大佛次郎賞の際には,選評者に学生運動当時には「体制派」であった養老孟司氏がいた。授賞式で、養老氏のコメントはしぶしぶな態度をとったらしい。(このことは面白い)
 彼は、雑誌やテレビ等含め,インタビューは一切断っているそうだ。立花ゼミでもインタビューを試みたが「色々あって、取材は断ることにしているのです」と言われてしまった。けれども,彼の著書である『一六世紀文化革命』(上下巻,みすず書房,2007年)には、喜んでサインをして下さった。嬉しい。
 現在,大学生のネットワークで、『磁力と重力の発見』(全三巻,みすず書房,2003年)の読書会を行っている。第二巻「ルネサンス」まで進んだ。その中で、山本義隆自身に関する話のやり取りがあった。「現代の若者から見た学生運動」を考える際、非常に示唆に富んだものだと思ったので、その部分をまず掲載しておきたい。

☆☆☆
学生K:東京大学教養学部文科I類1年(この記事の筆者).
学生W:慶応義塾大学文学部人文社会学科4年.
学生O:慶応義塾大学経済学部経済学科2年.
K: 『磁力と重力』の科学史を追うことでどういう現代性,アクチュアリティを得られるのかという問題と、僕がもう一つ聞きたいのはやはり政治の方の問題ですね。山本義隆先生がこの著書を書くことのメタ的な意味が非常に大きいです。
W: 政治の問題はあまり語られていないよね。
K: 語られないことに意味がある。ただ,当時の学生運動の用語が本書にも散りばめられています(笑)。「シンパ」とかそういうものです。あと明確に書かれているのが、スコラ学が「体制」だということ。職人が行ったのは体制側を打破する階級闘争だったのだというようなことが書かれてある。
W: スコラ学者に厳しいのは,学生運動の名残で、アカデミズムの学者を倒せというベクトルが反映されているのかもしれないよね。
K: 学生運動をしたモチベーションや誠実さは、学問や人生全体に反映されていますよね。彼が当時、一番悩んだのは自己矛盾であったはず。現実と隔離された研究室で研究をする自己矛盾。それを原動力にして学生運動をした側面があるはずです。そういう部分が著書の内容にも反映されているということになりますよね。16世紀の職人たち対スコラ学者という構図は、60年代の学生たち対丸山真男を代表とする研究者というのとパラレルだったのかもしれませんね。そこを本人が語らないし、おそらく語ってしまってはいけないのでしょう。けれども、僕たちが若者としてそういう見方をすることが、ある種のアクチュアリティになると思います。

K: あと、誠実さとは何なのかということですね。当時の学生運動は,誠実にやればやるほど惨めな思いをすることになります。山本義隆先生ってものすごく誠実な方ですよね。だから、本書の後ろの方でもそうですけれど、孫引きに非常に厳しいですし(孫引きした部分はそう書いてある!)、あと科学史の学者にも「デッラ・ポルタを読んでいるにも関わらず、発見できていない」と攻めていますね。
W: 自分が分かっていないことに関して、はっきり分かっていないと言うよね。クザーヌスのところの議論でも、最初の部分でカッシーラの部分を引用して(彼,カッシーラも訳していますよね)、「思想的な意義を中世に置くのか近世に置くのかは私の知見を超えているので、そこは保留しておく」と。非常に良心的ではあるなというふうに思います。傍から見たら十分な知見を持っているのに、とても抑制的に語っている。それでいて、しっかり思想的な側面もまとめつつ、科学史について述べている。こういった文理横断型の仕事をしているのはすごいなと思います。特に科学という自然科学の問題と政治や歴史、思想という人文社会的な問題はつながりがあるにも関わらず、なかなか両者が越境できない。科学というのはなんだか文系にとっては別世界のような近寄りがたさがある。しかし,近代になると科学を促進したり、保護したりしているのって国家でしょ。科学の政治性ってものがあまり意識されないことにすごく大きな問題があると思うのだけれど。原爆といった兵器やら原子力の問題も、科学の社会的側面が(深いレベルで)あまり顧られないからこそ解決の糸口が見えないわけだし、技術倫理学等の応用倫理学にもつながる根っこを持っているのではないかな。やはり,科学の政治性というのは、すごく大きな問題だよね。そういえばハーバーマスが『イデオロギーとしての技術と科学』なんて本を書いていませんでしたっけ、平凡社ライブラリーで出ているような。日本でも物理学という学問的バックグラウンドを持って、思想や歴史に言及できる人が「在野」にいるというのは意味がありますね。普通に進学していれば、普通に物理学をテーマにしていたのだから、16世紀科学革命や、磁力と重力の歴史を研究対象として見出したのは、面白いですね。いずれにせよ近代において科学は人間のあり方を大きく規定した面があるから、科学的存在としての人間というものを考察することは重要であるとまとめておきましょうか。話がながくなってしまいましたが(笑)。
(中略)
K: 山本義隆先生がなぜ科学史に行ったかという話があります。これは,人から聞いた話なので本当かは分からないのですが、先ほどWさんが話に出したような「科学的存在である人間」。それについて彼は獄中で悩んだらしいです。それで、ルカーチを読んでいた。ルカーチから、「科学的存在である人間の起源」という問いを得た、と。それで、素粒子の研究をしていた彼が科学史にいった。理系から文系への大転換。そこのところがすごいと思いますね。
W: 日本物理学にとっては、ものすごい損失だったと思うけれど、哲学系の人から見たらものすごい財産だと思いますよ。だって,こんなの文系じゃなかなか書けないでしょ。理系じゃないと理解できない問題・評価がしにくい知見というのは多いでしょうし。
K: 『山本義隆潜行記』に書いていたのですけれど、獄中の山本義隆先生に、どこかの教授が「君ほど自然科学ができて、マルクスはじめ社会科学にも精通している人はいない、それを活かして何かすればどうか」と言ったそうです。
W: 獄中に?
K: えぇ。獄中に会いに行って、面会ですね。こういう話って「なぜ今科学史なのか」ということに関して、大きなヒントとなりそうですね。
W: 今だと、生命倫理とか環境倫理というコンテクストでも問題になってくるよね。さっきも言ったけど。科学というものが価値や主観性を必然的に破棄してしまったから、いかに生きるかとか、いかに政策を作っていくかという問題が、科学の側から語られなくなっちゃったというところがあるよね。方法論としてはそれでよかったんだろうけど、科学をとりまく問題というのは価値判断や主観性を含み持ってしまうから難しい。
K: 科学万能主義の行き詰まりは『一六世紀文化革命』の最後に載っていますね。科学をもう一度見直さねばならない、と。
W: 科学万能主義の反対で科学相対論というのもよく聞くけど、極端な科学相対論を言っても仕方がないのだけどね。科学が認識論の一つのパラダイムじゃないって風に言ったって、自分たちは科学の中で生きていくしかないし、それが一つの力だから。何ができて何ができないのか。できないとしたら、どのように補っていくべきなのか、そもそも補えるのかって。アクチュアルな科学理解をしなければならないのだと思うけれどね。話は飛ぶけど駒場には科学史・科学哲学専攻もあって、文理両面から科学という営みが考えられておもしろそうだよね。宣伝みたいになっているけど、私は他大の部外者だから(笑)。
そういう幅広さを持っている駒場って、外部から見ていると結構魅力的だよ。
☆☆☆
 最後には駒場教養学部の話になっている。
 こうして見てみると、科学史に関する彼の著書にあたるだけでも、そこには彼の人生が投影されていることが分かる。学生運動と現代的な問題ということの結節を考える際にも有効かもしれない。
 予備校にお世話になった筆者としては、その存在に言及せざるを得ない。予備校というのは、様々な意味で不条理な空間である。落第という敗北を経験した浪人生が、華々しい大学生を尻目に、またどこか浪人チックな予備校講師たちとともに、一つの授業という場を形成している。生徒も講師も安定した社会的立場を持たない存在である。「在野」で果たした彼の研究は大学アカデミズムにある種のアンチテーゼを掲げているだろう。周辺のエネルギーというのはものすごい。そして、予備校講師とは「職人」なのだろうか。
 最後に、今となっては暗い(?)学生運動家としての彼の顔も、当然ながら語る必要がある。とくに「自己矛盾」という側面から語ってみたい。彼は当時、院生であり、京大の湯川秀樹の研究室に国内留学しており、湯川氏からは「将来のノーベル賞候補」と目されるほど優秀であった。しかし、東大で全共闘が結成されたのを機に東京に戻り、以後,研究室に帰らないことになる。組織としてのヒエラルキー性を認めない全共闘にトップはいないものの、彼は「議長」という名で次第にリーダー的存在となってゆく。
 真摯な彼は多くの「自己矛盾」に悩んだだろう。彼の抱えた矛盾はまずもって研究室の壁であった。世の中の真理を発見するための学問は、外の情況から隔離された研究室で行われる。大学アカデミズムのあり方は全共闘運動で真っ先に問われ、今でも問われ続けている問題の一つである。彼の「自己矛盾」は、他にも,暴力に対するスタンス、全共闘という組織原理、東大というもの、世界情況の中での日本など多岐にわたったことだろう。
「ふたつに引き裂かれた論理は、闘うわたしたち主体をも引き裂かずにはおかない。しかし、自己分裂の危機を、わたしたちは逃避することなく正面から受けとめたことを、いくらかの自負をもって今、いえるのだ。
 いくつかの矛盾した問いと答え—-それはともすれば闘いから後退しようとするための口実ともなる危険性を孕んでいた。しかし、分裂のあとで弱々しい自己を乗り超えることによって、自分を新しいものとして創出しうるし、自己変革も可能になる。困難な情況がわたしたちを鍛えるのだ。
「ひとりで考えこんじゃあかん。スクラム組んで闘いながら考えるんや。闘いながらのり越えていくんやで」(筆者注:山本義隆の言葉)」(最首悟山本義隆潜行記』,講談社,1969年,130頁.)
 ここでは,自己矛盾ということに関して、一貫性を保つ(保守する)と同時に変える(革新する)ということが説かれている。「自己矛盾」である。しかし、矛盾は「止揚」される。そうして、生まれたものを新しいものとし(成長物語),しかもその手段として,スクラム,つまり闘うために連帯することがここでは説かれている.これは全共闘の原理を大きく示唆しているだろう.
 彼の「自己矛盾」は潜伏活動中にピークを迎えるように思える.彼が逮捕される直前の時期である.逮捕状が出てからは,気軽に外を出歩くわけにはいかなくなるのだ.彼はデモに参加して「共闘」することはできなくなり,潜伏活動を始める.表向きはトップを認めていないとはいえ,彼は東大全共闘のリーダーであった.リーダーだけれども外に出られない,責任感の強い彼はその重圧に押しつぶされそうになったに違いない.それでも,彼は官憲の網を突破して集会に参加し,その後,危機一髪で脱出するという曲芸を行う.「日比谷,二・二一集会」をはじめとし,このようなことは何度も続いた.私服警官も多数いたが,それでも全共闘に共感する市民は多く,彼を逃す手伝いをしたのである.集会での人ごみは官憲に対して文字通り壁となったのだ.だが,とうとう,1969年の9月5日,「日比谷,全国全共闘連合結成大会」で彼は逮捕される.こうして,全共闘のリーダーであった彼は,その結成宣言をすることはなくなってしまった.
 彼は出所したあと,「68・69を記録する会」を作り,当時のビラを集めて作った『東大闘争資料集』(全23巻,1992年.)を国会図書館に寄附した.彼の意図はどうやら,歴史学にとって必須である一次資料を作り出すことらしい.学生運動史はまぎれもない歴史なのである.このような姿勢から,彼の持つ闘争に対する普遍性が感じられるだろう.
 彼は取材を拒否し,約40年間,学生運動用語で言えば「総括」せずに沈黙を守り続けた.だが,2007年の10月に渡辺眸さん(全共闘の一員として,バリケード内を撮影した.現在,写真家.)が出した『東大全共闘―1968-1969』(新潮社,2007年)に,彼は寄稿している.こうして,沈黙は破られたことになる.彼がどのように当時を想い,今を想っているか,その本当のところはなかなか分からない.筆者はあくまで自分の思うところを記事にしているに過ぎない.だが,彼の中で学生運動の経験がアクチュアルなものとして今でも生き続けているということは確かなはずである.(彼は沈黙の裏側で,裁判の証人として出向いたりなど,様々な「活動」をなさっているらしい.)そして,彼という存在が現代において大きなヒントとなるということも確かだろう.彼はずっと闘ってきた.真摯な自分と.そして,これからも闘い続けるのだろう.闘いはこれから.
主要参考文献:
最首悟山本義隆潜行記』,講談社,1969年.
山本義隆 『知性の叛乱―東大解体まで』,前衛社,1969年.
山本義隆 『磁力と重力の発見』,第一巻・第二巻,みすず書房,2003年.
山本義隆一六世紀文化革命』,上下巻,みすず書房,2007年.
渡辺眸 『東大全共闘―1968-1969』,新潮社,2007年.
執筆:近藤伸郎

以上-http://kenbunden.net/student_activism/articles/yamamotoyoshitaka-より 

山本義隆『磁力と重力の発見──2 ルネサンス』」
私がこの本を読んでみたいと思ったもう一つの理由は、斎藤美奈子のさきほどの本のなかで、連載後に書き加えられた次の一文が気になったからでもあった。
《 *このときには書かなかったが、もっとも驚いたのは、選考委員の中で唯一の科学者である養老孟司氏のケンもホロロな選評だった。 <私自身はこの著作をこれ以上には論評する気がない>。山本義隆氏がかつて掲げた科学批判を展開すべきなのではないか、というメッセージと私は勝手に解釈したが、真相のほどはわからない。》
養老孟司は1937年生まれ、山本義隆は1941年生まれである。
東大医学部から全共闘に発展する運動が始まったのは1968年だったから、養老は31歳、山本は4歳年下なので27歳だ。
二人とももはや学生ではなかったが、発火点となった医学部で31歳の養老がどんな位置にいたのかは知らない。
だが、この論評の調子からみて「東大全共闘に対する嫌悪感」が想像できる。被害者意識なのだろうか。
あの時の東大医学部教授会の頑迷さが、全共闘運動に油を注いだことは間違いないから、養老がもし教授会の下っ端という位置にいたとすれば激しい攻撃の矢面に立たされた可能性はある。
いつの時点から養老が解剖学を志したのは分からないが、テレビか何かで「人間の生き死に関係しないから」と理由を述べていたのを聞いたことがある。
養老のなかに、他人には知られることのないさまざまな思いが潜んでいるのかもしれない。
だが、もし40年前の出来事を理由に、個人的な感情をいまだに剥き出しにするような、しかもその理由は言わないというような、そんなやり方だったとすれば「大人げない」という他なく、ガッカリさせられる。
さらにもう一つ、最近どこかで読んだ内田樹さんの文章のなかに、大学構内の立て看板を一人で片付けている山本義隆の姿を見かけたという内容のものがあって、それもこの本を読む大きなきっかけになった。
「誰かが責任を負う」という趣旨の文章の一部だった。出典をだいぶ探したのだが、見つけられなかった。

以上(右記は現在アクセスできない)-http://letterfromthewind3.cocolog-nifty.com/letter_from_the_wind_3/2006/06/2__df74.html-より