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紙つぶて 細く永く

2014年6月以前の記事は元のBlog(OCN)からinportしたものそのままです。鋭意改善中です。<(_ _)>

先人の知恵にも松竹梅

加藤周一 国際・政治

学者というものは、普通の人より頭もよくしっかりとものを考えているのだから、間違うはずはない、と思いがちだが、学者の態度は、対象から身を引き離して、それを観察し形式論を立てるに過ぎない

という論がある。ここで「学者が間違うはずはない」=完璧だという極端な意見をそのまま信じていいか否かははなはだ疑問だとも思うが、まあ学者はわれわれ無教養人よりは数段頭は良くて間違いは少ないという程度の感じかたがこのさい涵養だ。


そして論はこう続く、

ここにもうひとつ、大事な問題が絡んでくる。それは、日本の指導的な学者や知識人などのエリート層は、多くの場合、西洋の学問を身に着けた人たちだ、という点である。西洋の近代科学の方法は、まさしく対象から距離を取り、それを観察して、論理的で形式的な帰結を得ようとする。そして、その多くは、西洋社会を対象として得られた「理論」である。それを日本社会に適用すればどうなるか。学者やエリート知識人たちの「理論」はまったく庶民の現実からはかけ離れてしまうだろう。それにもかかわらず、この方向で社会が動くなら、「理論」とは違う「現実」を生きている「ふつうの人々」はますます神経をすり減らしてゆくだろう」エリート・漱石の苦悩 西洋的理論がもたらす分断:佐伯啓思より

つまりこの論は昨年からの安保(戦争)法制をめぐって世の「指導的な学者や知識人などのエリート層」が論をめぐらした、そしてその主張は「西洋社会を対象として得られた「理論」である。それを日本社会に適用すればどうなるか。学者やエリート知識人たちの「理論」はまったく庶民の現実からはかけ離れてしまうだろう」ということをいいたいのだろう。
 ちょとまてよこの論はどこかで聞いたことのある論だ。そうだこれはなぜか特に中国政府高官がよく言う、「貴国の求められる民主主義と、われわれ中国の求める民主主義はことなるものである」を連想するのである。
 学者とて万能ではないので、まずは「学者が間違うはずはない」と思うその思い込みこそが間違いである。
 かといってその道の権威である学者ともなればわれわれより優れた知識が当然あり、その道については学者が間違うことは我々よりは少ない、ということは自明である。
 昨年に安保(戦争)法制の制定をめぐり憲法学者の多くが、「違憲」であると結論づけたことはこの論に拘わらず、間違いではない圧倒的に正しい。
 むしろ指摘の論はこのように読み替えてみればどうか。
学者や知識人の唱える理論は、
「人類社会を対象として得られた「理論」である。それを日本社会にも応用しよう。そうでなければわたしたち庶民の暮らしは人類の理想からは遠くかけ離れてしまうだろう」
 悲しいかな多くの先達が希求した民主主義、そしてその結果として現在ある手間暇のかかる民主主義以外には我々の暮らしにとってベストなものは存在しない。これになじむしかないのである。
 なじめずに拒否する方法もあるだろうが、それはそれで後は野となれ山となれというしかない。

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関連して思い出した。加藤周一に「国学の明暗」という一文がある。

橘曙覧は福井の商家の長男であったが、家産を異母弟に譲って、清貧に甘んじ、読書と歌作に専念していた。福井藩松平慶永は、野遊びの途次、側近と共に、その茅屋を訪ねたことがある(一八六五年)。慶永三十七歳、曙覧五十三歳。慶永はその印象を、館に帰ってから書き記している(「橘曙覧の家にいたる詞」、『全歌集』所収)。
 「かたちはかく貧しくみゆれど、其の心のみやびこそ、いといとしたはしけれ。おのれは富貴の身にして。大厦高堂に居て、何ひとつたらざることなけれど、むねに万巻のたくはへなく、心は寒く貧しくして、曙覧におとる事と、更に言をまたねぱ、おのづからうしろめたくて顔あからむ心地せられぬ」
 慶永はその後使者を立てて、曙覧の仕官をもとめた。曙覧は断る。「花めきてしばし見ゆるもすずな園田廬に咲けばなりけり」(621、数字は橘曙覧『全歌集』の番号、以下同じ)。藩主は固執せず、曙覧に答えて一首を贈った。「すずな園田ぶせの庵にさく花をしひてはをらじさもあらばあれ」(622の詞書)
 今日の支配者たちのなかに、その見識の慶永に匹敵する者が果たして何人居るだろうか。また今日の学者詩人のなかに、金力に屈せざること曙覧の如き人物が何人居るだろうか。(中略)
 曙覧の国学は、本居宣長の系統を引いていた。宣長国学は、古代日本語の古典の言語学と文献学を中心とし、その研究には古代人の「心」を知る必要があり、古代人の「心」を知るには勅撰集に倣って歌を作る必要があると主張していた。宣長自身も『古今集』から『新古今集』に及ぶ歌集の言葉と技法に従って歌を多作した。
曙覧の歌の第一種は、宣長流の歌を技法的に洗錬した一種の詩的マニエリスムと考えることもできるだろう。
 宣長はまたその『古事記』研究と併せて「神ながらの道」を主張した。「神ながらの道」は「あるがまま」、「おのずから成る」人情の自然である。それを『源氏物語』の美学に移せば、「もののあはれ」となるだろう。しかし人情の自然、おのずからの人情の発現は、必ずしも「あはれ」だけではなく、「あるがまま」の日常生活のあらゆる局面に見出すことができる。日常的身辺的世界の写実は、おそらくそこから遠くない。いや、むしろ武士支配層の「イデオロギー」としての儒学に対し宣長が主張した国学的世界観の根底には、松坂の商人や農民の、あるがままの日常的身辺的世界の意識化と肯定的評価があったにちがいない。そのことと曙覧の歌の第二種とは深く係るはずである。
 かくして第一種においても、第二種においても、彼の歌と国学とは無縁ではない。
宣長において著しく、平田篤胤においてさらに狂信的であった排外的民族主義は、橘曙覧の『歌集』にはどうあらわれていたか。一方で「此の国」には「かたる友見べき山水」が一つもないと嘆いていた(526)彼は、他方でその同じ国を「神国」と称んだばかりではく、「神国の神のをしへを干よろづの国にほどこせ神の国人」(680)とうたっていた。彼はまたみずから模範とした「古今集」の恋の歌の代わりに、日本刀賛美の歌を頻りに作った。
「七重にも手もて曲げなばまがるらむ蝦夷の国の太刀は剣かは」(354)
 たしかに日本刀はその切れ味と美しさにおいて素晴らしかった。しかし曙賢が生きた一九世紀にいくさの勝敗を決定したのは、もはや刀の切れ味ではなかった。それを知っていたのは、国学者曙覧ではなく、たとえば同じ福井藩橋本左内である。


すでに19世紀において日本刀はもはやその切れ味を求められることはなかったのである。

 

 

REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」

 

 

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