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紙つぶて 細く永く

2014年6月以前の記事は元のBlog(OCN)からinportしたものそのままです。鋭意改善中です。<(_ _)>

「やまとこころ」と選挙 上 by 加藤周一

加藤周一に『「やまとこころ」と選挙』という1990年4月の一文青字部分から
連想をした。

さくらの好きな本居宣長は、秋冬の頃、花を見ないでも、三百余首のさくらの歌をつくった(「枕の山」1801年刊) 「しき嶋のやまとこころ」の方は、それより先(1790年)、自画像の讃である。それが人口に膾炙して、今ではさくらといえば、「やまとこころ」が連想されるようになった。

本居宣長の歌「しき嶋のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山ざくら花」
そう山田洋二監督の「寅さん」23作で笠智衆が結婚式のシーンでうたっていたあの歌である。

 しかし「山さくら花」のどこが「やまとこころ」に通じるのだろうか。軍国日本はその花の散り際が潔い点を強調した。しかし私は今、窓の外の花吹雪を眺めながら、少なくとも宣長の「やまとこころ」は武士の、あるいは軍人の、散り際の潔さということとは何の関係もなかったのではいか、と考えている。宣長は町医者で、武士階級の公的「イデオロギー」であった儒学に対抗し、国学を興した人である。それは儒教の倫理的価値に対し、「もののあわれ」の美的価値を主張することであった。「もののあわれ」は、武士の死ぬ覚悟とは関係がない。そもそも武家政治が始まるよりもはるかに前の話である。現に宣長は「やまとこころ」が「山さくら花」と言ったのではなく、いわんや「潔く散る山さくら花」などと詠んだのではなくて、「朝日に匂う山さくら花」と言ったのである。無理にこじつけなければ「やまとこころ」はその花のように華やかで美しいということにすぎないだろう。それにしても「やまとこころ」は、そういうものがあるとして、さくらの花で片づけるほど簡単ではあるまい。私は花よりも先の選挙を思い出す。
1990年2月、先年参議院選挙で過半数を失った自民党が、衆議院での過半数を得た。「リクルート汚職事件」に係った有力代議士も再選され、選挙当時起訴されていた候補者さえも当選した。それが「日本的」でないとはいえない。「やまとこころ」の不思議さの一つだろう。

潔い「やまとこころ」はどこへ行ったのか
そういえば「潔い」元自衛官出身の都知事選候補者も買収の容疑で逮捕された。
何やら経産大臣は追及の恐れがある国会会期中は病気欠席で、国会終了と全く同時に弁明もせず病気も治ったらしい。


選挙前の公約を選挙後に破るのは、どこの政権党でもすることで、そのこと自身は不思議ではない。大型間接税は導入しないと大見得を切った首相が、選挙に勝っとただちにそれを導入したのは、最近のことである。


「米は一粒も入れない」が選挙前で、米(ベイ)の要求で米(コメ)を輸入するのが選挙後の近い将来のことであろう。しかし選挙前に女の閣僚を二人採って、女性票に配慮し、選挙がすむと忽ち追い出して男だけの内閣にもどしたのは、正直といえば正直、露骨と言えば露骨、まさに伝統的差別文化の確認であろう。

当時は海部俊樹内閣


しかし選挙における「やまとこころ」の発揚は、何よりも次の三点において鮮やかであった。第一に、人間万事カネの世の中。その哲学は、宣長よりも早く西鶴が町人物に説いたところである。下世話にも、数百億円の金を費った与党が、数十億円の野党に勝った、という。国によっては企業の政治献金を禁じているが、やまとの国では、周知のように、大企業から政党へカネが流れる。大企業は繁栄しているから、カネの量も大きい。大企業が繁栄しているのは、一党独裁の政府がその利益をまもるからでもあり、その従業員が勤勉・有能・従順の美徳を備えるからでもある。そういう美徳は、儒教倫理の影響を論難した宣長には異論があるかもしれないが、「やまとこころ」の不思議な一面であるだろう。
第二に、世襲制度。自民党の代議士の半数近くは、二代目だといわれる。今日政治家の世襲制度が生きている代表的な国は、おそらく朝鮮民主主義人民共和国と日本だろうが、北朝鮮には議会制民主主義がない。議会制民主主義と世襲制度の独特の組み合わせは、模倣に終始しない「やまとこころ」の偉大な独創性を示す。

もちろんわが国の偉大なる領袖も立派な世襲三世である。

 第三には、やまとはことだまの幸ふ国。ことに選挙のときにそうである。たとえば、一党支配の継続か、「政権交代」かが選挙で決まるというとき、資本主義か社会主義かの「体制選択」が争点であるという。ソ連東欧で「スターリン社会主義」が崩壊すれば、「社会主義」は終わったという。そうしてすりかえた言葉には、現実との関係がないけれども、それ自身の「たま」(魂)があって、人の心を動かす。「リクルート事件」の容疑者が有罪か無罪かは、刑法上の問題である。その容疑者が当選するかしないかは、政治上の問題である。三権分立の原則からすれば、刑法上の問題は裁判所が決めることで、政治上の多数決とは関係ない。それにもかかわらず、当選すれば「みそぎ」がすんで、けがれ又は罪が水に流されたというのは、「みそぎ」なる言葉が、本来三権分立以前の水浴びを意味し、おおらかに、すがすがしく、神ながらの「やまとこころ」を清めるからである。

改憲にたいして加憲などと小賢しい言い回しを念じる 日蓮世界宗公明党もあったなあ

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REMEMBER3.11

不断の努力「民主主義を守れ」