紙つぶて 細く永く

2014年6月以前の記事は元のBlog(OCN)からinportしたものそのままです。鋭意改善中です。<(_ _)>

それでもお前は日本人か

4月29日みどりの日(旧天皇誕生日)新宿の街は防弾チョッキをまとった警官で溢れていた。「在特会」系の集会が催されその警備に機動隊が動員されていた。

(以下加藤周一「それでもお前は日本人か」より)

昔1930年代の末から45年まで、日本国では人を罵るのに、「それでもお前は日本人か」ということが流行っていた。「それでも」の「それ」は、相手の言葉や行動で、罵る側では「それ」を「日本人」の規格に合わないと見なしたのである。その規格は軍国日本の政府が作ったもので、戦争を行うのに好都合にできていた。
日本人集団への帰属意識を中心として、団結を強調し(「一億一心」)、個人の良心の自由を認めず(「滅私奉公」)、神である天皇を崇拝する(「宮城遥拝」)。
そういう規格日本人の集団に属さない外国人または外国かぶれの日本人はすべて潜在的な敵であった(「名誉ある孤立」)。国際紛争は、武力による威嚇又は武力の行使によって解決する(「撃ちてし止まん」)。多くの日本人はそういう規格に合わせて生きていたのである。
*(中略)
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当時東大法学部の学生であった橋川文三とその同級生の一人が臼井健三郎ー当時海軍軍司令部に勤めていたーに食ってかかり「きみ、それでも日本人か」といいだした。臼井は落ち着いて、「いや、まず人間だよ」と答えたという。そこで自分たちが、「まず日本人だ」という主張と「まず人間だ」という主張が対立して問答が続いた。橋川とその友人の二人が殺気だち「そんな、非国民たたきってやると」叫ぶ。
*(中略)
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新宿御苑・ハンカチの木
「それでも日本人か」は修辞的質問にすぎず、実は「それならば日本人ではない」というのと同義である。すなわち「非国民」相手を「非国民」と称ぶのはほとんど常に「まず日本人」主義者であり、「まず人間」主義者ではなかった。また論争から暴力による威嚇又は暴力の行使へ飛躍することが早いのも、前者の特徴で、後者の特徴ではなかった。臼井健一郎は一人で二人に対いていたのではなく、ただ一人社会の圧倒的多数意見に対抗していたのである。しかも多数意見は官製であった。
モンテスキューは、自分自身よりも家族を、家族よりもフランスを、フランスよりも人間の世界の全体を愛するといった。だからモンテスキューが「非国民」だったわけではあるまい。
なにもフランスの場合に限らない。日本国でも仏教の要諦を悟るか悟らぬかは、当人の身分の上下とも、男女の差別とも、いわんやその宋人たるか日本人たるかとも、何らの関係がない、といい放ったのは、道元禅師である。またもし富永仲基が臼井の同時代人であったら、思想史発展の基本的な型は人間社会に固有であって、その舞台が日・中・インドのどこであっても変わらない、といったであろうし、もし、内村鑑三が臼井と同席したならば、人は信仰によって義とされるので、国籍によって義とされるのではない、と語ったであろう。

「まず日本人」主義者と「まず人間」主義者との多数・少数関係は、45年8月を境として逆転したーーように見える。しかしほんとうに逆転したのだろうか。その変身が単なる見せかけにすぎなかったとすれば、あの懐かしい昔の歌が再び聞こえてくるのも時間の問題だろう。あの懐かしい歌ーー「それでもお前は日本人か」をくり返しながら、軍国日本は多数の外国人を殺し、多数の日本人を犠牲にし、国中を焼土として、崩壊した。
その反省から成立したのが日本国憲法である。その憲法は人権を尊重する。人権は「まず人間」に備わるので、「まず日本人」に備わるのではない。国民の多数が「それでも日本人か」という代わりに「それでも人間か」といいだすであろうときに、はじめて、憲法は活かされ、人権は尊重され、この国は平和と民主主義への確かな道を見出すだろう。