紙つぶて 細く永く

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5月3日

(再度加藤周一から「まえがき」)
たとえば、「九条は非現実的である」、あるいは「今日の現実に適合しなくなった」という議論があります。しかしそれだけではあまりに漠然としていて賛成も反対もできません。そういう場合に一言の下にそういう言説を退けるのではなく、論客が言いたかったであろういくつかの意味を推定して、それぞれの背景をわかりやすく分析するのです。
押し付け憲法」は改めたほうがよい、という意見もあります。しかし、男女平等は押し付けられたものだから改めるべきだ、という女性がいるでしょうか。
もし男女平等は改めず、九条は改めるべきだという意見ならば、その理由は「押し付けられた」からではなく、何が押し付けられたかかの内容の相違による他はないでしょう。また、もし「押し付け」を外圧と解すれば、かっての九条制定ばかりでなく、今日の九条改めにも外圧が働いているはずです。現に九条が日米関係の障害であるという意味の米国高官の発言も報道されたばかりです。

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九条がなくなっても、日常生活に影響がなかろう、という予想は、改憲三日後にはおそらくその通りでしょう。しかし三年後にもそうであるかどうかはわかりません。九条は、交戦権放棄です。九条改めは、交戦権放棄の放棄です。
そして戦争はある日突然、天から降ってくるものではなく、長い「なしくずし」の過程の果てに起こるか、小規模の戦闘の「なしくずし」拡大を通して泥沼化するものです。

さて、護憲をとるか、改憲をとるか、その選択は読者の自由です。結果はあたえられた情況の冷静な分析と、人間的な心の動きによるでしょう。そうしてどちらかの立場をとったら、その後で私たち市民に何ができるでしょうか。それは人それぞれの想像力の問題になるでしょう。想像力をみんなで集めれば、怖くないのかもしれません。
68年のパリでは、学生たちが「想像力に権力を」という標語を掲げながら、街を行進していました。