「アハウ」の中国語「阿呆」が中国の揚子江以南で使われていた。
現代でも「中国」(チョングオー)を「チュウゴク」「毛沢東」(マオツォートン)を「モウタクトウ」と読む。
「阿呆」を「アハウ」と読んでも不思議ではない。
中国語の講師である胡金定氏に確認したところ中国蘇州では「阿呆」を「アータイ」と発音することが分った。
そして中日大辞典(大修館)に
という記載があった。
他の中日辞典にはでてこないがこの辞典の語彙資料が南京で収集され蘇州の方言が引っかかったようだ。
西暦1138年金によって華北を追われ、南宋が臨安(杭州)に都をさだめ首都として繁栄した。
これに嫉妬した蘇州の人びとが「阿呆(アーダイ)」と杭州人を罵った。
日本では平安時代末。
南宋は建国から1世紀半ののち1279年に元によって滅ぼされた。
そののち1368年異民族元を北方の草原に追い返し漢民族の明が建国された。
室町幕府はこの明との国交を開き日明・勘合貿易が行われるようになる。
「阿呆」が中国から渡来したとなれば多分15世紀から16世紀に寧波から日明貿易によってもたらされた。
船頭などによる口伝であれば「アータイ」「アーガイ」などとなるので、口伝ではなく文書によって文字「阿呆」がもたらされたのだろう。
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著者松本は伝手をたよって古代中国文字を研究しているという
京都大学文学部木田章義助教授(のちに国語学が専門と知らされた)を紹介され、
「アハウ」についての教えを受け、鴨長明(没年西暦1216年)が晩年に書いた「発心集」にでる「アハウ」についての真偽を尋ねた。
木田助教授からはいままで読んだ歴史的抄物に「アハウ」があったことを告げられた。
そして江南の「阿呆」が日明貿易船にのって書物として日本にはいってきたという仮説について聞いた。
「日本と中国の交流ですが、鎌倉ぐらいからは禅僧を通じて中国文化が流入しました。うどんやお茶にしても禅宗の僧侶が持ち込んだもの」
と説明があった。
また「バカ」の語源について、平安時代「馬家」は漢音で「バカ」と発音され呉音の「メケ」ではないことも告げられた。
後日木田助教授から北京の知識出版社発行の「近代汊語詞典」最初の文字が「阿呆アータイ」であることを知らされた。
そして辞書には中国で「阿呆」が文献、元曲(注)「竹叶舟」に使われていると記されていた。
訳せば「お前は文字を書くな、そうすれば杭州の阿呆と笑われるのを避けることができる」
しかし文献「竹叶舟」を書いた范康は13世紀末から14世紀半ばの人、残念ながら原文は伝わっていない。
(注 「元曲」 元の時代に開花した戯曲文学 元雑劇ともいう)
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そして著者は以下のような道筋を想像した。
15世紀ころ明の白話文学、元曲や小説の類が禅僧または商人の手によって杭州から日本に持ち帰られた。
その書籍には「阿呆」の二文字熟語があり京都五山禅僧によって旧来の読みかた「アハウ」と読まれた。
そして禅寺では白話文学などは面白い読み物ではあったが、文学的価値は低いとして忘れられた。
しかし「アハウ」という音だけが生き残り独り歩きを始めた。
かなで「アハウ」と書かれ続けもとは漢語という意識だけが保持された。
のちに、漢語であるなら「阿房宮」の故事からきたのではないかというアイデアに繫がり語源的に誤解を生んだ。
しかしこれが庶民にも受け入れられ上方で「阿房」の花を咲かせた。
「それにしても中国の影響力は思った以上に強かった。
古代から室町末にいたるまで中国から圧倒的な影響を受けた。
地理的分布に大勢をしめる言葉は中国渡来のもの。
馬家・阿呆・本地なし・虚仮・安居(鮟鱇)・田蔵田・・言葉は京都から日本を東西に旅したがそれ以前にはるばる中国から、
東シナ海の波濤を越えて京に旅してきた」
「京のはやりことば、すなわち日本のアホ・バカ表現は、世界最高の文明と同時代的に直結していた」
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言語学の地理言語学は当然ながら国境を越える。
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