京都では「バカ」が古く、「アホ」が新しいという推定には調べると文献から判断して無理があった。
すなわち文献での出現順が逆になっている。
「アホ」は鴨長明(没年西暦1216年)が晩年に書いた「発心集」の中に「アハウ」として出てくる。
一方「バカ」は1333年の鎌倉幕府滅亡の後、仏教説話集「神道集」や軍記物語「太平記」に出てくる。
一世紀ほどの違いであるが、「アハウ」は神職にあった人の文章、一方「太平記」は室町時代を控えた動乱期の武士の言葉。
ここで著者は一つの疑問を思いつく。
「バカ」には「戯け者」「惚れ者」「惚け者」のように本来「者」が必要だったのではと考えた。
近畿の周辺部からのアンケートに「バカ」ではなく「バカタレ」が多く東北の北部や九州では「バカモノ」が多く見られた。
これは「タレ」や「モノ」など接尾語つきの「バカ」こそが古い形を残しているのではないか。
そして中世日本語の至宝「日葡辞書」の記載
「Baca バカ(馬鹿・馬嫁・破家)物事をよくしらなかったり躾が悪く、礼儀をわきまえなかったりするために、人がしでかすでたらめ」
にたどり着く。
「バカ」は人がしでかすでたらめのことであって愚か者を意味するのは「バカゲナ」「バカゲナ」「バカナ」なのである。
そして前記仏教説話集「神道集」に記載の「和理は其躰の馬鹿の者にて候す」は後世の「神道集」写本で翻訳されていたのである。
多くの流布本=写本で「ヲコモノ」になる等記載が異なっていた。
ではこの「バカ」の語源は・・。
柳田國男は「バカ」は古代日本で多く用いられていた「ヲコ」の訛り、「woko」のw音がB音に転じついにBakaまで変化した、とする。
一方広辞苑でおなじみの新村出は漢訳梵語説をとった。
すなわち「バカ」は梵語「Moha」の漢訳であるところの「莫何」、または「Mahallaka」の漢訳「魔訶羅」からきているとした。結論は簡単でない。
そして著者は偶然の機会を得た。書店で「中國詩人選集」岩波書店を見る。
索引に「馬家の宅」という言葉があった。白居易(白楽天)にその使用例があるという。
白楽天の白氏文集は生涯にわたり何度も刊行され日本にも白楽天生前に入って来ていた。
そして当時の知識人必読のテキストで教養の源でもあった。源氏物語にも「胡蝶の巻」に引用されている。
「ほかに盛り過ぎたる桜も、今はさかりにほほえみ、廊をめぐれる藤の色もこまやかにひらけゆきにけり」このうちの「廊をめぐれる藤の色」の部分が下記白氏文集「宅を傷む」からの引用である。
「繞廊紫藤架」 廊をめぐる紫藤の架(たな)
・・
「不見馬家宅」 見ずや馬家の宅
「今作奉誠園」 今奉誠園と作るお
馬家の宅とは奢り高ぶった末に落ちぶれてしまった高官の邸宅。
その資金は貧しい民衆からの搾取によって賄われた。
あれほど栄えた馬家の邸宅も今は奉誠園となる。
馬家の宅のような邸宅は作ってはならない。
馬家のように傲慢に生きてはいけない。
白楽天はそういっている。
そのことを平安時代の知識人は良く知っていた。
「お前は馬家のごとき者だ」と言われたなら当事者はきっと大ショックを受けたことだろう。
「馬家のごとき者だ」が「馬家の者」と表現された。
数百年知識人の教養書となった白氏文集もやがて時とともに忘れられるようになった。
の結果「バカ」の語源としての「馬家の宅」も忘れられた。
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一方の「アホ」は全国で評価される場合は、「アホウ」と表現されるが正確にいうと関西では「アホ」と短く発音される。
関西では「貧乏びんぼう」を「ビンボ」、
「辛抱しんぼう」を「シンボ」、
「学校がっこう」を「ガッコ」、
「先生せんせい」を「センセ」と短くする。
その流れらしい。「アホ」は「アホウ」から生まれた。
そして文献によれば「アホウ」と発音される前は「アハウ」であった。
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