紙つぶて 細く永く

「イヴァンよお前にやる花はない」プラハの花屋

先生の言葉

コロナ後の世界でも、「上等」にも「その上」があるんじゃないかと思っているんです。
 できるできないは別として、もし「上等の上」があるなら、それをめざしてもいいんじゃないかと僕は思うんです。 それは透視図法における無限消失点のようなものです。実体じゃない。作業上の擬制です。
 それは何かというと、言葉が平凡過ぎて脱力しそうですけれど、「親切」です。 「人に親切にする」ということは、相手より立場が上でなくても、集団のフルメンバーでなくても、できる。
『コロナ後の世界』内田樹

サイトで内田先生の言葉を読んだ。

ふと思っていたことと合致したので忘れないよう書いておく。

食品を買いに行き、フロアを巡りいろいろと買いだめをしていた。

まず立体駐車場からエレベーターで1階へ下りた。

ドアが開き降りようとすると、初老の母親と娘、二人連れが一所懸命話をしながら乗ってきた。

一瞬怯んだが立ちどまり、仕方なく横に除け、道を譲った。

そしてその後でエレベーターを降りた。

買い物は週一回なので、生鮮食品からパスタソースや調味料、洗剤等フロアを歩いた。

すると、当然行き違いとなる買い物客も多くなり、お互いスマートによけ合いながら目当てのコーナーへ向かうはずだ。

そこであるパターンに気が付いた。

どうも最近この「スマートに避ける」という行動が見られない。

まともにぶつからんばかりに直進してくる。

そんな中、ある子供連れがとくに気になった。

年は30代の母親と小学校低学年の子どもを連れ右後方から速足でやってきた。そして私の前を斜めに横切り、食品売り場へまっしぐらに進む。

車でいうなら、「かぶせる」という行為となる。

親(の世代)については今後改善は望めないので諦めよう、しかしこれからの世の中を構成する子どものことを思うと、このような教育をしていていいのかと感じる。

ものごとにはすべて優劣というものがあり、今の時代その判断基準があいまいに揺れているのではないか。

もちろんそれは長幼の差などではない。

先に生きている大人としての実践必須項目である。

狭いエレベーターの中に人がいる、その狭い中にさらに人が入るという行為は、中の人が降りるという行為よりも劣位となる。したがって、エレベーターに乗る人は降りる人がいないかを確認し、中の人が降りる様子なら脇に除けて佇んでいるのが正しいマナーだ。

人の前直近を横切らない、列をなすとき以外人の真後ろに立たない、これらはどこかの外国なら問答無用と面罵糾弾されることかもしれない。

歩いていてお互いの動線がこの先で重なると思える時は、阿吽の呼吸で互いに譲ろうとし、無意識で優劣を決める。

そして譲るならスピードを落とし緩やかにでもカーブする。

 幼子は親の背をみて学ぶ。それゆえ周囲の大人の責任は大きい。

内田先生のいう「親切」の定義がもっとも考慮されるべき場面は、政治である。

今日ドイツでは、「CALL」と「RESPONSIBILITY」が重視されているという話をきいた。

RESPONSIBILITY一般的には責任と訳されているが、ここでの正確な意味は「反応・対応」が近いらしい。

ドイツ人の行った残虐行為について、いまだに被害者から「CALL」される、つまり追及される。

それに対して当時のドイツ人からするとその子孫であるドイツ人は反応する。

時の首相が被害者慰霊碑の前で跪き謝罪をする、毎年アウシュビッツの映画を作成する。戦犯が総理についた日本とはけた違いの対応ではないか。

私の考える世の中の「やさしさ」が今の時代に失われたとすれば、われわれ大人の責任は大きい。

科学季評仲良くなれば、ゴリラは心の許せる友人となる。
声を出してあいさつすれば応えてくれるし、目を見ればいたずら心を起こしているとわかる。
慣れれば、後ろ姿を見ただけで気持ちが伝わってくる。
言葉が介在しなくても、ゴリラと気持ちを伝え合うことは可能なのだ。
 人類の祖先も、言葉を話すまでは、おそらく声やしぐさを組み合わせた態度で気持ちを伝え合っていたはずだ。

山極寿一

そんなにつんけんしなくてもいいんちゃいますか。

 

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REMEMBER3.11