外出が憚れる今、過去の旅を見つめ直すとどうなるだろうか・・
2012年8月の旅6回目 東北大震災の地、石巻のあと、山寺を訪れた。
山寺(立石寺)は伝教大師が比叡山に灯した不滅の法灯を立石寺に分けた。
織田信長の焼打のあと延暦寺を再建したときには逆に立石寺から里帰りしたという、
不滅の法灯を拝することができる。
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表中の赤字は乗車時間。合わせて駅間の距離と平均運行速度、駅数を掲載した。
【凡例】
駅 | 駅名 | |||||||||
区間 距離 |
駅間の営業キロ | |||||||||
時速 | 駅間の運行時速 | |||||||||
駅数 | 区間の駅数 | |||||||||
駅間 | 駅間の運行時間分 | |||||||||
6時 | 出発 | 列車番号 | ||||||||
所要時間 | 到着 |
検証 2012年夏立石寺
駅 | 仙 台 |
山 寺 |
山 形 |
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区間 距離 |
48.7 | 14.1 | ||
時速 | 49.5 | 49.8 | ||
停車 駅数 |
10 | 3 | ||
駅間 |
5'54 | 5’39 | ||
8時 | 15 | 3831 M |
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9時 | 59 | 14 | ||
10時 | ||||
11時 | 41 | 3835 M |
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17 | 57 |
ところで上記撮影した写真中央の句碑は1972(昭和47)年に建てられたもの。
ここには別途、1853(嘉永6)年に芭蕉門人がたてた句碑があるそうだ。以下
http://g05067.html.xdomain.jp/yrq17t22.html より
織田信長の比叡山焼き討ちは1571年。その時に比叡山延暦寺の不滅の法灯が消えた。
そこで再建のときにこの立石寺から法灯が戻された。
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2012年夏立石寺
こちら立石寺は大半のひとが初めてのようで、すれ違う人の顔を見ると(こんなに根本中堂まで)大変とは思わなかった、という表情だ。
こちらもそのような顔に違いない。
汗を流しながら 日枝神社から芭蕉と曽良像で写真を撮る。
山門で拝観料を納めさらに階段を進むと九十九折の参道。
すれ違いながら無言で大変だと (言葉を)交わす。
地質からか山腹に洞が多く見られる。
やがて有名な句の生まれた場所 せみ塚に到着。
説明には、なんでも 芭蕉が名句
『閑さや 岩にしみ入 蝉の声』
の短冊を埋めたと読めるように書いてあるがこれは後年に 俳人坂部壷中が因んで埋めたというのが正解に思える。(注)
ここには不滅の法灯があるそうだ。
京都 比叡山延暦寺が信長によって焼き討ちされたとき、開山以来の不滅の法灯が消えた。
そのときにここ 立石寺に分灯されていた火が延暦寺に「分灯」戻された。
延暦寺とも縁の深い 立石寺であった。
(注)蝉塚 明和年間に最上林崎の俳人坂部壷中が芭蕉の風雅を偲んで『閑さや』の名句を書いた 短冊を埋め石の塚をたて蝉塚と名づけた。後年この蝉の種類についての有名な論争がある。
山形上山出身の 歌人斉藤茂吉と漱石の門人で東北大学教授小宮豊隆の蝉論争である。
茂吉の アブラゼミと教授のニニゼミの違いを巡っての論争である。
実地調査の結果芭蕉が尋ねた7月中旬には未だアブラゼミは鳴かないのでニイニイゼミかヒグラシゼミの教授小宮豊隆に軍配が上がったのは有名な話。
当初芭蕉は『山寺や 石にしみつく 蝉の声』
と詠んだが後に
『さびしさや 石にしみ込む 蝉の声』
と改作し最後に
『閑さや 岩にしみ入 蝉の声』
と改めた。
ほどなく写真でよく見る納経堂が見えてきたのでこの辺りまでと奥の院は諦めた。
開山堂で腰を下ろし、すぐ近くの五大堂でJR山寺駅を撮影。
山寺随一の眺望とあって多くの人が入れ替わり訪れシャッターを押す。
この距離だと下山は上りよりはうんと楽。
山門横の売店で遅まきながら「うちわ」を買い求めた。
これがなんとも良い。丁度「京うちわ」のよう。赤い油紙で裏表に「山寺」とだけ墨汁で黒く書かれている。
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山寺を昼前に起った。そして山形まで17分こちらも昼前だった。
REMEMBER3.11