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タテカンと管理

「民主」京都大学のタテカン

タテカン問題は京都の他大学においては存在しない、という見解は何も意味をなさない。

なぜなら、「京都大学におけるタテカン」問題なのだから。

山極総長からのメッセージ京都大学というのは千年の都と呼ばれる京都にあって、長い伝統の中で ずっとユニークなことをやってきた大学です。
すべてはこの斬新でユニークな発想=「おもろいこと」を考えることから生まれます。
京都大学はそのために分野を超えて学生も教員も対話をします。
それも、真剣に、全力で。
それがきっと未来の真のイノベーションにつながり、この社会を豊かにしてくれるはずです。
京都大学はそのために労を惜しまない大学であり、それがすっと実現し続けるとうな 大学にしたいと思っています。
そして、これから「おもろいこと」をどんどん仕掛けていきたいと思います。
ぜひ京都大学の外からもいろいろな意味で参加をしていただければ幸いです。
「京大」のこれからにぜひ注目してください。

上記は京都大学HP巻頭にある総長のメッセージ

その現総長山極壽一氏の就任は2014年10月。

さかのぼること13年、2001年12月発信の下記京都大学の基本理念についてという文章が今でもHPに同時掲載されている。

自由と調和
京都大学が学問の自由を擁護するために闘ってきた誇るべき伝統をもつこと、また、自由な研究により卓越した研究を行ってきたことはよく知られている。しかし、自由という名の下に、京都大学で様々な問題が起こっていることを指摘する人は多い。とはいえ、「自由の学風」は、京都大学の「輝く個性」として今後も継承・発展させていくべきであり、基本理念においてもこの点を基調にすることに異論はなかった。そこで、自由といってもなんらかの限定が必要ではないかとの議論となり、21世紀にふさわしいものとして人類共同体との関係を視野において自由を捉えるべきであるという意見もあり、責任ある自由などが案として考えられていた。ところで、長尾総長の「京都大学の目指すもの」と題する文章では、21世紀においては「『進歩』を追及する従来型の概念から方向転換し、『調和ある共存』という概念によって学術を進めていくことが肝要である。」とされている。この「「調和ある共存」は、上の「21世紀にふさわしいものとして人類共同体との関係を視野において自由を捉えるべきであるとか、責任ある自由など」を含み、かつ新しい時代の京都大学を方向づけるものとしていいのではないかと考えられ?委員会に提案がなされた。
原案としては「人類社会の調和ある発展のため、」や「人類社会の持続的発展に貢献するため、自由と調和を基本として、」という表記があげられたが、「調和ある共存」、「自由と調和」は基本理念を支える概念として賛成をみた

「おもしろいことをどんどん仕掛けていきたい」と
「自由という名のもとに、京都大学で様々な問題が起こっている、ので自由と調和を」、
方向がまるで逆になっているこれらの文章が京大HPに記載されている。
この2本の文章には13年の経緯が詰まっている。
「自由と調和」が提起された2001年当時の総長は長尾 真氏(注1)(期間6年)そして次が尾池 和夫氏(注2)(4年10か月)、松本 紘氏(6年)現在の山極壽一総長と続く。
(なんだか米国の民主・共和党の大統領変遷だなあ・・ここ意味深 下記URL参照)

世界が滅んでも生き残るため、京大生よ変人たれ。酒井教授が語る、カオスに立ち向かうための「京大の役割」 | 360˚|京大発オンラインメディア

 


その私がいうところの「リベラル「民主党」政権」で、結局京都市からの屋外広告物についての行政指導が内部で化学反応を起こした。
トロイの木馬となった。

学問における立脚点というものは、いわば保守的でそう進化するものではない。ある意味遅々とした歩みだ。
しかし政府並びに大学管理者は一挙に改革できると考え強制した。

政府は毎年1%ずつ大学運営費削減みたいなバカげた政策をがむしゃらに実行した。

管理者たち、はそれを結果的に唯々諾々と受けた。

学問およびその研究についての政策は熟慮して取り組まなければならない。一気呵成に新しいステージには移行できない。

無理を通せば研究が引っ込む、ことになる。あくまでも政策は研究をサポートする程度でなければならない。これが教訓。

市民もタテカンの味方

私は5年間ほぼ毎日、京都大学構内北の農学部グラウンドから南部総合研究1号館までを業務で歩いた経験がある。

もちろん至るところにタテカンが並んでいた。

その間で、危険と思えるタテカンはその5年間で1基、風にあおられ倒れた、ものだけだった。

京都市からの行政指導の中に、「市民から危険との指摘もあった」とあるが、これはこのことからも行政=京都市もためにする目的で付け加えた論理だ。

ごく少数の危険という指摘が事実あったとしても、倒れないようにしっかり立てましょう、といって終わり。

これを下に言論の自由を脅かす根拠にはならない。

各方面に聴き合わせてみても、京都大学の内外で今回の京都大学立看板規定について、行き過ぎという指摘を多数きく。

親身に学生側をみていた旧三高の折田校長、そのひ孫の折田氏も非常に危惧している。
京大出身の作家もツイッター上に思いをつづった。

綾辻行人さんは4月28日、大学側の対応に「違和感を覚えるばかり」と発信。

平野啓一郎さんは5月17日、「この非暴力で罪のないユーモアを無慈悲に撤去すればするほど、大学側の対応の酷さが際立っていくでしょう。大学生は、表現の場所を求めてる。それはすごく限られてるから。大らかに面白がって見てたらいいじゃないか」

京都大学の教授も、「百万遍とタテカンは一体のものです」と話してくれた。

そして過去にはこんな発言も

歴代の総長理事「立て看板は京大の文化です。思想性のある立て看板は他大学にはないし、禁止することはないと思っています」(尾池和夫氏、04年時総長時)
その尾池和夫元総長・京都造形芸術大学長(77)は昨年も「京大の学生文化の一つが消えてしまう恐れがある」と気をもむ。
 理学部の学生時代には学園祭で南極展告知の立て看板を作った。総長時代には「京大の立て看板は日本の大学で一番見事」と語っていた。「立て看板は絶滅危惧種。消えた文化は復活できない。景観を守るという条例の趣旨は正しいが、立て看板のある風景は文化的景観だ。自由な学風だったはずの京大、ひいては社会の寛容さが問われている」と指摘している。

「立て看板は京大生の大事なコミュニケーション手段。無くそうというつもりはありません」(東山紘久氏、04年時副学長)

京都大学のタテカンは屋外広告物ではない、言論機関だ | ビジネスジャーナル

京都大学京都市

京大360というサイトにタテカン規制についてのアンケートがあった。

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2018年5月15日実施

京都市民も反対圧倒的多数がタテカン規制に反対、このあたりが京都市民の本音ではないか。つまり行政は市民の本音をしっかりと聞き分けていないのだ。
大学として締め付けるのか、「おもろいことをどんどん」やってゆくのかそのせめぎ合いが、今学内で起こっているのではないか。

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2018年5月25日のタテカン

やだねー。京都市でも市中にある権力が周辺を支配するんだ。
だけど京都大学の歴史は京都市長よりも先輩なんだけどねー。

 

REMEMBER3.11

いたちごっこでもいい

ここはいたちごっこでも面白いのではないか。 学生には経費負担になるが撤去されたら直ちに再設置するといういたちごっこが面白い。職員に撤去の負担をかけることも忍びないなら、その時は適時設置、好きな時間に引っ込める方法もある。
結果的にタテカンの設置時間は数時間でもいいし、数日でもいい・・

とおもっていたら今日(2018年5月25日)のタテカンにこんなのがあった。

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【タテカン製作支援団体】シン・ゴリラ (@shingorilla2018) | Twitter

タテカンをどこで見るか

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タテカンを見られる場所の解説

上記図にタテカン名所「緑線の場所」を掲載した。

図中Aはご存知、日本の「カルチェラタン(古いな)」百万遍。いわばタテカンで市民にも訴えかけるメインの場所。最新情報では現在下記数本のタテカンが健在

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Bは京大本部構内から西部地区にある、生協食堂「ルネ」への横断歩道に近く、学生が数多く往来する場所で、ここにもかってタテカンがあった。

Cは京大本部棟(事務本部のある建物)を背に、医学部方面との間にある交差点で11月祭を前にするとたくさんの催し物のタテカンが並ぶ。(今年はどうするんだろう)(下図の通り今は見事にタテカンは1本もない)

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Dもちろん京大正門前には訪問客へのお披露目としてメンツでもタテカンを立てる。しかし現在(2018年5月25日)ゼロ

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下図5月15日の正門

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Eは京大時計台前 昔から大学当局もいわば大学の顔的な場所で、意地にかけてもタテカン空白を維持している。しかし時に巨大なタテカンが立つこともある。

Fは京大本部構内から北部構内(理学部・農学部がある)への横断歩道でここにも北部学生向けにタテカンがでる。

大学当局はこの辺りへの設置を禁止し、上記図のなか赤色部分に許可を得た組織のタテカンを設置できるとした。管理された自由だ。

その場所の一部がここ

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あまり見向きもされないようだ。

裸の王様京都大学

2016年卒業式式辞「裸の王様」 山極壽一総長今日卒業する皆さんも、これまでに京都大学を卒業した多くの先輩たちと同じように自由闊達な議論を味わってきたと思います。
その議論と学友たちはこれからの皆さんの生きる世界においてきわめて貴重な財産になるでしょう。
京都大学には創造の精神を尊ぶ伝統があります。
まだ誰もやったことのない未知の境地を切り開くことこそが、京都大学の誇るべきチャレンジ精神です。
今日卒業する皆さんのなかにもさまざまな突出する能力を身に着け、すでにそれを発揮して活躍している方が多いだろうと思います。
しかし、忘れてはならないことは、自分と考えの違う人の意見をしっかりと聞くことです。
しかも複数の人の意見を踏まえ、直面している課題に最終的に自分の判断を下して立ち向かうことが必要です。
自分を支持してくれる人の意見ばかりを聞いていれば、やがては裸の王様になって判断が鈍ります。
このとき、京都大学で培った「対話を根幹とした自由の学風」がきっと役に立つはずです。

対話と自由の学風を放棄し、自分を支持してくれる人の意見ばかりを聞いて裸の王様になっているのは「京都大学」ではないか

京都市美観風致審議会として

「学生の創造性問われる」門内輝行京都市美観風致審議会長
 京大名誉教授(建築学
景観とは個人のものでなく、公共的なものだ。何が良い景観か、みんなが共有することが大切。
タテカンがある風景こそ京大だという声もあるが、どれだけ共感を得られているのか。
撤去された方がこざっぱりしているという人もいる。
 条例に反していたのは事実で、京大だけが許される論理は立てにくい。若者がエネルギーを表現する手段は他にもある。
 未来に残す価値があると言うのなら、学生たちは単なる自己満足や権利の主張を超えて、具体的にどんな価値があり、誰に向かって何を訴えるものか精査し、説得力ある論理やメッセージを打ち出すべきだ。
 20世紀の日本は都市景観より、経済発展や個人の自由を優先させた。
その結果、物質的な豊かさは手に入れたが、景観の秩序を大切にした欧州の都市などに比べ、美しさで見劣りする。
そうした反省の上に景観法や京都市の条例はある。
抵抗や反対が悪いとは言わないが、新しい提案があっていい。学生たちの創造性が問われている。
 さすが京大、という解決策を大学と学生に期待する。条例も金科玉条でなく、時代とともに見直し進化させる必要がある。

  曽我部真裕京大教授(憲法・情報法) 「『ない』風景、保護に値?」
京大が大学の管理権を根拠に撤去したのならば、学生側は裁判に訴えても勝訴は難しいだろう。京都市、京大、看板設置者の3者がからみ、複雑な案件だ。
京都市が撤去したのなら「表現の自由」対「公権力」の構図となるが、今回は違う。学生活動の自由を尊重すべきだとの主張は裁判では認められにくいだろう。
 撤去で自由な雰囲気が薄れると、大学全体の萎縮にもつながる。大学のあり方そのものの問題だ。京都が「大学の街」なら、京都市はこの点を認識すべきだ。

京都市はうまいことやるなあ)

「自由」に滅びる、こんな幸せなことはないと思う・・

(注1私的特記:京都市音楽芸術文科振興財団理事長 財団のご紹介 - 京都市音楽芸術文化振興財団 )

(注2 京大正門横にあるレストラン「カンフォーラ」で総長カレーが提供される。そのレシピは尾池総長考案)