紙つぶて 細く永く

右の「読者になる」ボタンをクリックし読者なっていただくと記事更新時にお知らせが届きます。

}

もう一方の1968年 長くなりそうなのでPart2 了

1968年ベトナムソンミ村虐殺

1953年ディエンビエンフーの戦いでフランス軍が歴史的な敗北をした結果、泥沼と化したインドシナでドミノ理論によるインドシナの共産化を懸念したアメリカ合州国はジュネーブ協定に調印せずベトナム南部に傀儡政権を樹立し、南ベトナムに軍事顧問団として介入した。
アメリカの介入に対して、1960年12月、南ベトナム解放民族戦線(National Liberation Front、略称はNLF)(注1)が結成された。

そして1964年8月「トンキン湾事件」が発生し、これを口実にベトナムへの本格的軍事介入が引き起こされた。

このトンキン湾事件はアメリカによる捏造であった。

1971年ニューヨークタイムスがその秘密報告書「ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年-1968年」(「ペンタゴンペーパーズ」と称される)を入手し記事にし暴露した。

その報道を巡って政府との記事差し止め訴訟となり、そのあたりは2017年公開の映画「ペンタゴンペーパ-ズ」となっている。

その後アメリカはトンキン湾事件への報復に、軍事顧問団への襲撃をきっかけとし北ベトナムの首都ハノイ他を爆撃(北爆)を実施した。

注1 アメリカ・南ベトナム側による蔑称として「ベトコン」と称された。

白人帝国主義の圧倒的な軍事力によるアジア侵略。しかも「アジアの一国」である日本政府は、この戦争のいかなる局面においても、ただ一言の反対も表明しなかった。
もしアジア侵略史がここで終わるとすれば、それは日本政府の故にではなく、日本政府にも拘らず、かくも長い間、かくも多くの犠牲を忍んで、史上最大の軍事力に抵抗しつづけた偉大なベトナム人民の意志によるものである。

しかし熱帯ジャングルという地理的な不利益もあり劣勢に追い込まれる。

そして1968年1月30日夜、すなわちベトナムの旧正月(ベトナム語でテト)に一斉に、北ベトナム人民軍と南ベトナム解放民族戦線(NLF)による、大攻勢が行われた。このテト攻勢により戦局はおおいにアメリカの劣勢となった。

ベトナムソンミ村のミライ集落において無抵抗の村民504人が無差別射撃に殺害された「ソンミ村虐殺」がおきた。(注2)

注2 ご存知ですか? 3月16日はソンミ村大虐殺事件が起こった日です | 文春オンライン

ベトナム戦争は人民戦争だった。人民戦争は、侵略者側からみて、一般の人民と敵を区別出来ない。その対処法は二つしかない。戦争をやめるか、無差別に人民を殺すか。ソンミの虐殺は偶発事ではなく、人民戦争の必然であった。

同じ理由によって、アルジェリアのフランス軍による拷問、中国大陸の日本軍による婦女子虐殺もまた、軍の必然であった。
以上 加藤周一「言葉と戦車を見すえて」を参考に

 

f:id:greengreengrass:20180514162456p:plain

それ以来、「学問とは何か」「研究とは何か」「大学とは何か」といった問いに対して考え続けており、「私のなかで紛争は終わってない」と述べている。

第30回大佛次郎賞発表で驚いたのは、選考委員の中で唯一の科学者である養老孟司のケンもホロロな選評「私自身はこの著作をこれ以上には論評する気がない」だった。
受賞作品は「磁力と重力の発見」著者は山本義隆(元東大全共闘議長)

養老孟司は1937年生まれ、山本義隆は1941年生まれである。 東大医学部から全共闘に発展する運動が始まったのは1968年だったから、養老は31歳、山本は4歳年下なので27歳だ。 二人とももはや学生ではなかったが、発火点となった医学部で31歳の養老がどんな位置にいたのかは知らない。 だが、この論評の調子からみて「東大全共闘に対する嫌悪感」が想像できる。被害者意識なのだろうか。注3

注3 養老孟司は研究室の助手をしていた頃、当時盛んだった全共闘運動の被害を受け、「こんな一大事に研究なんかしている場合か」と非難されながら研究室を追い出された。 それ以来、「学問とは何か」「研究とは何か」「大学とは何か」といった問いに対して考え続けており、「私のなかで紛争は終わってない」と述べている。 そのような過去の経緯もあって、かつて東大の全共闘議長であった山本義隆の『重力と磁力の発見』が第30回大佛次郎賞を受賞した際に、同賞の選考委員でありながら、著作への授賞に異存はないとしつつも、自らが全共闘運動から受けた影響(全共闘運動により研究室から暴力的に追い出された)などを理由に「(個人的な)背景を含めた選評は拒否するしかない」という強い調子の文章を発表して話題となった。wikipediaより`
 「過去は変えられない」のだ。
仮に養老のいうことが理解できる立場にたっても、
「賞には値する著作である。大いに称賛する。」
というべき態度が人としての行いであり、著者「山本」の人格を貶すのは別の場所ですればよい。(と私はここで、「養老」を貶しておく)

東京大学においては医学部自治会および青年医師連合(卒業生が所属)が1968年1月下旬より登録医制度反対などを唱え通称「インターン闘争」に始まる東大紛争(東大闘争)を展開した。
これに対して大学側は3月11日に「医局員を軟禁状態にして交渉した」として17人の学生の処分を発表した。
その中にその場にいなかった1人が含まれており、 このことが学生側の更なる怒りを招くこととなる。
翌3月12日に医学部総合中央館を、3月27日には安田講堂を一時占拠し、3月26日には「医闘争支援全東大共闘連絡会議」が他学部も含めた学生有志によって結成され、3月28日の卒業式阻止の主体となった。
しかし、この段階では日本共産党(日本民主青年同盟、「民青」)系の自治会中央委員会や学内の七者連絡協議会が闘争に対して批判的な立場を取ったため、 全学の自治会には闘争は波及していなかった。
医学部では新学期になってもストライキが継続していたが、事態は膠着し、6月15日に医学部の「全学闘争委員会」が安田講堂を再度占拠した。
大学当局の大河内一男東大総長は2日後に機動隊を導入しこれを排除したが、これに対して全学の学生の反発が高まり、7月2日、安田講堂はバリケード封鎖された。
その3日後に「東大闘争全学共闘会議」(全共闘)が結成される。
以後、大学当局は打開を図ったが更に全共闘や新左翼学生の反発を招き、 東大全学部のこれらの組織に属する学生主導によるストライキや、主要な建物多数の封鎖が行われた。 11月には大河内総長以下、全学部長が辞任した。

 

敬称略

もう一方の1968年 長くなりそうなのでPart1に戻る - 紙つぶて 細く永く

REMEMBER3.11